月の入り江
コンクリートジャングルとは、整然とした都市の街並みを決して意味しないだろう。
こういう灰色の瓦礫の群を示す方が、しっくりくる。
熱帯雨林のような活力は、全くないが。
ハルは歩みを進めながら、話を始めた。
まだハルが何者でもない時の話。
残骸に成り果てたこの都市に住んでいた時の話を。
「彼女との出会いもその時だった。何でもない時間は、急速にその意味を変えていった」
凄まじい地響きと共に、地中からいくつもの化け物が溢れ出た。
空は闇に覆われ、夜に飲み込まれた。
たったひとつ、白い影が宙に浮いており、それに指揮されて魑魅魍魎が飛び交っていた。
だが、そんなことを気にする暇もなく。
阿鼻叫喚の渦の中で、ハルは必死にもがいていた。
「建物の倒壊に巻き込まれた時、私はすでに諦めがついていた」
だがその時、手を差し伸べたのが、その旧友だった。
彼女もまた、ただの一般人だったという。
無力だとしても懸命な献身をする姿は、当然輝いて見えた。
「
声を張り上げ、助けを求め、その場にいた数人でハルを瓦礫から救い出した。
その後救助が来るまで、動けそうにないハルに付き添っていた。
彼女はまさに、正義そのものだったという。
「……今でも、こうなったのが信じられない」
俺たちは、湖のほとりについた。
白んだ空の下では、水が酷く汚く見える。
ハルは背にあるポーチから、懐中時計のようなものを取り出す。
それから、力一杯振りかぶって、それを投げた。
ぽちゃん、と小さな音が鳴って、また静まり返る。
俺は思わず、ハルの表情をうかがってしまう。
何をしているのかわからず、湖とハルを交互に見るしかなかった。
やがて、小刻みな波が、海と同じような大きな波へと変わっていく。
ハルも深く息を吸いこんでいた。
そろそろ始まる。
湖から何かが出てくるようだ。
それは意外に静かな登場だった。
少し水面が盛り上がったところから、一人の影がぬめりと出てきた。
水浸しのようだが、墨に塗れたように真っ黒だった。
俺を引き込んだ沼と同じ、光を受け付けない漆黒だった。
やがて、その身体についていた墨が滴り落ち、その容姿が見えた。
紺碧の長髪をおろし、前髪は二つに分けている。尼削ぎや姫カットと呼ばれる髪型。
ハルと同じような、しかし似て非なる、ぼろぼろのトレンチコート。
真っ赤な唇と白い肌の激しいコントラスト。
黒い涙が滴り落ちた跡が、その頬にまだ残っている。
「おや……ハル一人だと思ったんだけどな」
彼女は俺の方を見た。
寒気がする。
人の形をしてはいるが、既に正常な様子はない。
あの夜と同じような緊張感が、蘇ってくる。
「それで。今日こそ決心がついたんだね?」
まだ黒い滴がしたたる手を、ハルに差し向ける。
しかし、ハルは強気に、その手を払い除けた。
「誰が貴方なんかに」
「じゃあ、そっちの男の人?」
「彼も違う」
すると、彼女は腰に両手を当て、鼻を鳴らした。
「何しにきたのさ、じゃあ」
「あなたを捕らえに来たのよ、小鳥遊カエデ!」
ハルはそう言って、勢いよく背負った剣を引き抜いた。
うねるような模様の入った赤い刀身は水がついたように煌めいている。
カエデの鼻に向けられた刃までもが、艶かしく赤い光を灯し、細い煙を伸ばしていた。
「……」
しかし、カエデの方は微動だにしなかった。
少しの動揺もなく、ハルの方を向いていた。
「黒薔薇の支援もなく、私を捕らえられると?」
「
「いや、傲慢でも何でもないよ。特に君には」
そう言って、カエデは向けられた刃を優しく押し除けた。
ハルは力なく、その剣を下ろしていた。
「私に勝てないこと、あなた自身が一番知っているでしょ」
カエデは宥めようとハルに近づいた。
しかし、ハルは勢いよく、下ろした剣を振り上げた。
咄嗟にカエデは退くも、その顔に一筋の切り傷が残った。
「できる出来ないの問題じゃない。やるしかないの」
再び湖の上にたったカエデは、しばらく俯いていた。
だが、何か決心がついたように、顔を上げた。
そして、腕を高くかざした。
「ハルゥーーッ!!」
彼女の背後にあった湖が、一気に盛り上がる。
水の色が黒ずんでいき、高波を作り上げていく。
「伏せて!」
その高波は、飛沫を上げながら爆ぜた。
そして、空からいくつもの黒い雨が降り注ぎ始めた。
白んだ空が、だんだんと黒く染まり始める。
部屋の明かりを落としていくかのように。
「あなたを誰よりも、大事に思っているのに!」
視界が眩む前、最後に聞こえたのは、カエデの悲痛な叫びだった。
§
雨はまだ止まない。
しかし、辺りはすっかり暗くなっている。
周りも森だらけで、廃墟は無くなっていた。
あの時の夜と同じような状態。
「ハル!」
起き上がった直後、俺は見当たらなくなった彼女に向けて、声を張り上げた。
しかし、ハルの姿は見つからない。
代わりにそっと肩に手が置かれた。
「うるさい。気づかれるでしょ」
俺は思わずのけぞってしまった。
安心させたいのか驚かせたいのかどっちかにしてくれ。
「護身用の武器、ちゃんと準備して」
ハルに言われるまま、俺は確認した。
折られていた弓を広げ、いつでも発射できる用意を整えた。
「で、ここはどこなんだ。いきなり異空間に転移したような感じだが」
「あなたはもう、よく知っているでしょ」
俺は上を見上げた。
あの日のような天の川は見えない。
代わりに雨が降り注いでいる。
まるで、誰かの心を代弁するように。
「……これが、『天候』が変化するってことなのか?」
「その通り。最もポピュラーで最も厄介な天候、それが夜」
あのガイドブックには、『認知範囲における
何を言っているのかさっぱりだった。
ただそれでも分かるのは、“天気”とは全く違うものだということ。
字面通り、『天』の『
「この空間は奈落と通じているから、
「それは分かってる。かけられる時間は?」
「時間の流れが異なるから、リミットは気にしなくていい。
だけど、天候操作が行われたことで警報がいっているかも。できるだけ早くしないと」
ハルはすぐさま動き始めた。
ぬかるんだ土を走り抜け、森林を通り抜ける。
俺も、赤く光る彼女の剣を頼りに後を追った。
黒い雨にさらされるのは、あまり気分のいいものじゃなかった。
やがて目も慣れ、何があるのかを次第に理解する。
いくつもの波紋の上で、淡い赤の光が散乱していた。
もといた場所の湖だ。
「灯りが欲しい。一発打ち上げてくれる?」
俺は言われるままに弾を構え、斜め上に右腕を挙げた。
そして念じる。撃て、と。
その思いにしっかり反応し、弩は勢いよく弦を弾き、燃える火の玉が湖の上を照らした。
「……このまま、カエデは隠れているつもりみたいね」
そうなると気になるのは、相手の攻撃方法だ。
隠れたまま、俺たちに何をしてくるのか……
「リクト、鼻血が垂れてる」
え。
びっくりして、鼻の下を触った。
雨が滴っていると思ったが、そこにはべっとりと血が垂れていた。
鼻の血管が切れる時は、いつも静かで唐突だ。
驚きはするが、変なことじゃない。
何とか抑えようと、懐からティッシュを出した。
一通り拭ったあと、鼻に詰めようと思ったが、両方の穴から出ているみたいだ。
珍しい。痛みはないが重症のようだ。
そんなに呑気な気分でいられるのも、その時までだった。
もう一度手で拭った時、俺はその特異性を理解した。
血溜まりのようになって、手のひらに横たわっていた。
しかも、あぶくを次々に出している。
無数の顔を形作るように。
「ハル! こいつら化け物だ」
ハルは急いで俺の元に駆け寄った。
そして手元の血の
「
「ハルは大丈夫なのか?」
「私は耐性がある。それより、このままだとそいつらに内側から食い殺されるよ」
「それまでにかたを付けなきゃな」
今のところ、俺の体に違和感はない。
しかし、このままだと惨敗なのは明確だ。
何とかカエデを誘い出さないと。
「あえて降参して、誘い出してみるか?」
「今やってもバレバレでしょ」
それもそうか。
だが、俺たちの会話が聞こえるところにいるのは間違いないだろう。
カエデはハルを屈服させ、仲間にしようとしているのだから。
「カエデはどこにいると思う?」
「私たちの会話が聞けるぐらい近くにいると思う。暗闇のせいで見えないだけ」
「ハルはどうして雨に濡れても平気なんだ?」
「この上着の繊維に叙述……いえ、魔法がかけられているの」
ハルは混乱を避けるため、簡潔な言い方をしてくれた。
そのおかげか、俺の頭の中で、楽観的な筋書きがどんどん組み立てられる。
だがおそらく、それはハルも一緒だ。
自然と目が合うほどに、理路整然とした共通理解が生まれていた。
「雨を止ませよう、ハル」
「そうすれば明かりも手に入るわね」
まるで長年連れ添ったように、息が合っていた。
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