気まぐれプロメテウスとパンドラの箱

大抵のプロメテウスの絵画や彫刻は、肝臓をわしに食われているせいで苦痛に満ちた表情をしている。

人類に火を与えた罰として、不死ゆえに傷が再生し続け、永遠の苦しみを味わされているのだ。

確かに、火を与えたことで戦争が起き、彼以上に人は苦しむことになったのだから、当然の仕打ちかもしれない。


しかし、モローの絵画は違う。

頭上に火を湛えたプロメテウスはまっすぐに横を見つめ、自身に満ちる苦痛をものともしていない。

それどころか、罰を与える鷲ですら、同じ方角をみているように見える。

その方向とはおそらく人の世界。

自身が与えた火という知恵の行末をじっと見守っている。

そこに一切の後悔はないようだ。




「も、燃えてるぞ!」


やっぱり言わずにはいられなかった。

いきなり人が炎に包まれているのもおかしいし、涼しい顔をしているのも分からない。

炎が青い理由も分からないし、全く熱くないのも訳がわからない。

しかも鉄の鎖が何本も先っぽを宙に漂わせて、その両腕から伸びている。

この数秒で一体何が起きたっていうんだ?


「問題ありませんよ」


ユキの髪や外套までもが、熱に浮かされ逆立ち始めている。

この夜にはあまりに眩しいほどの光が、彼女から放たれている。


「1分で片付けてきます」


ユキは豪語する。

事実として、俺が意識を保てる限界もそのぐらいだろう。もっと短いかもしれないが、そこは頑張ってみよう。

そう言っている間にも大きな頭部が迫りつつある。大きく横に振りかぶり、ユキを薙ぎ払おうとしているようだ。

だが、全く問題にはならなかった。


瞬間移動でもしたのかと思うほどの速度で空中へと飛び上がる。

その軌道に青い光の筋と、鉄の鎖が残っている。

やがてそれらがユキのもとに集い、宙で構えた彼女に力を与える。


「おらあああああああああああっ!!」


ユキの腕から無数の鎖が鞭のように振り下ろされる。

せいぜい3メートルほどしかなかった鎖は、その長さをみるみると伸ばしていく。

同時にまとっていた炎も、その瞬間勢いをあげ噴き上がる。

彼女の思いに応えるように。


2本の鉄塊に頭部を打たれ、すさまじい衝撃音が鳴る。

怪物は何事もないように攻撃しようとするも、目の焦点があっておらず、発作的にあらぬ方向へ頭が曲がるようになる。

頭に直撃を喰らって、失神する直前なのだろう。

しかし、そのせいで怪物の体が暴れ始める。

その場で地団駄を踏むように、その長い体が躍動し始める。

周りの地面や木を打ちつけ、その度に地響きが伝わってくる。


「まだ返事できますか?」


一応、と俺は答えられたはずだ。

ここで俺がいったら、だめだ。きちんとユキを待っていなきゃ。

無意味になることはないだろう。

それでも俺はハッピーエンドを望んでいるんだ。


「あと30秒、耐えてくださいね」


ユキはそう言って、今度は地面から鎖を伸ばす。

暴れ狂う怪物の巨体を、鎖がどんどん覆っていく。

縛り付けられた怪物は、どんどんおとなしくなっていった。


「うならっ」


ユキが押し潰れたような声を出した瞬間、その怪物が宙に浮いた。

鎖に引っ張られて、空中へと向かっていく。

あまりの規模感に、一瞬理解が拒まれた。なにしろ怪物のスケールは40メートルほど、シロナガスクジラと同じか、それ以上なのだ。重さは300トンはくだらないだろう。

それを、ユキは。

ユキは、放り投げようとしている!


とてつもない揺れと共に、風が吹雪いてくる。

いくつもの塵と葉っぱが飛んできて、ユキも俺も目を覆った。

遠く向こうに投げ捨てられた怪物は、目を回しているのか、完全にくたばっている。

あれだけのことをやってなお、ユキはまだ余裕のようだ。


「私、気づいたんですよ」


「何に」


「パンドラの箱の底に、希望があった理由」


よくもまあ、そんな台詞を恥ずかしげもなく言えるんだな。

オリジナルの神話は作者の女性蔑視が激しすぎてロマンのかけらもないんだぞ。

しかも、知恵を持った人間に対する、さらなる罰でもあるんだ。


「私はあの時無力だったからこそ、今は違うと思えてしまう」


ユキは傍観することしか、許されていなかったのだろう。

死にゆく姿を、無惨に殺されていく姿を見届けてほしいと願われ、そして彼女の心に大きな傷を残した。

この傷が完治することはあるのか、分からない。

それでも、ユキは生き続けている。その大切な人の幻影を追いながら。

幻影が見えているからこそ、助けを求めている人に敏感になる。

そう言いたいんだろう?


「あの絶望があるからこそ、今のような勇気も希望も湧いてくると言いたいんだろう」


「その通りです」


ユキは笑っていた。自分のレトリックが通じて嬉しくなっているのだろうか。

それにしても、とんでもない破壊力だ。えくぼや目の細めかた、白い歯の見え方、全てが完璧すぎる。

美しいと可愛いを両立することができるとは思わなかった。


「この胸の傷が、翼に変わる」


ユキは両腕を後ろに伸ばし、指先までぴんと張った。

さらなる鎖が追加で腕から伸びていく。炎の勢いも増していく。


「そう思えた時、私の視界が輝き始めたんです」


そう言い残して、走り出す。

助走をつけたあと、ぐっと膝を曲げる。腕を後ろに伸ばす。

無数の鎖が生えた腕は、本当に翼のようだ。

羽を広げ、大空に羽ばたこうとする、鳥に見えた。


腕の遠心力も合わせて、ユキは高く飛び上がる。

俺と怪物の全貌を全て見渡せるほど高く。

空の点の一つとなるほどに高く。

それでも青く燦然と輝いて、一切存在感を失っていなかった。


ユキは大きく息を吸って、高々と上げた腕を組み合わせる。

両腕に伸びた鎖が、次から次へと絡み合い、一つの線を形作っていく。

さらにはその線が、明るい藍色の光を帯び始めた。


同じタイミングで、へばっていた怪物が再び目を開く。

すぐに体を起こし、最後の戦いだと言わんばかりに、これまで以上に大きな咆哮を上げる。

森が揺れ、池の水も波立ちそうなほど。俺の鼓膜も悲鳴をあげている。

再び、頭部の裂け目が開く。

そして、ユキを呑み込もうと宙へ飛び出した。


ユキは、全くその咆哮に怯むことなく、構えた腕を振り下ろした。


「はいだらあああああああああああああっ!!」


彼女の声が大きくこだました。

光る鎖の筋がまっすぐ怪物の口へ突っ込まれる。

次の瞬間、とてつもない衝撃波が一帯に轟いた。

聞いたこともないような音と、眩い閃光を引き連れて。

それは爆発だった。

怪物の体が黒い煙と共に木っ端微塵に吹き飛んだ。




当然、辺り一面は焼け野原になっていた。

青色の火の粉がまい、風に運ばれた黒い煙が俺の息を阻害する。

次第に周りが明るくなっていく。太陽の光が差し込んできている。

そろそろ俺の体力の限界が近い。

命の限界でないことを、そっと祈るしかないかもしれない。


「リクトさん! やりましたね!」


大きく開かれたユキの表情が眩しい。既に炎が消され、鎖も生えていない。

いつの間にか雨が降り始めているようだ。

雲に隠された太陽の光でも、いきなり暗闇から引き出されると眩しいみたいだ。


「夜が止みつつあります。助かったんですよ、私たち」


夜が止むとか、へんてこな言い方して。

俺がちゃんと分かるように話せよ。

いきなり太陽が出てる理由を教えてくれよ。

残り時間はもう短いんだから。


「だから、だから……」


ユキは俺の体に手を当てた。というより、俺の上で体が崩れた。

触れたユキの顔が異様に熱い。

さっきの発熱のせいももちろんあるだろうけど、これは。


「絶対に生き残りましょう」


そうは言っても、右半身がほとんどない状態なんだから、きついだろ。

生きてたとして、これからどうしよう。

まともな運動はできないし、筆記などにも長い間リハビリがいるだろう。

想像するだけでもめちゃくちゃ大変だ。

ユキと一緒にいられるなら、乗り越えられるだろうか。

あの彼女を差し置いて、ユキを選べるだろうか。

いや。

どちらにしろ生きていないと、選択も何もあったものじゃないだろう。


視界のぼやけが酷くなってきた。

ユキの顔もまともに見られない。さっきまで明るかったはずなのに、また暗闇に包まれてしまった。

目を開けていられないのかもしれない。

匂いもだんだん薄れてきている。自然の香りがしなくなっている。

でもその代わりに、ユキの匂いだけは感じる。

甘い少女の匂いだと思っていたが、結構古めかしさを感じる。おばあちゃんの家に行った時と同じ安心感がある。


「返事をしてください、返事を……」


ユキの声がそこで途切れる。

本格的にまずい。俺の命が孤独になりつつある。

この一生の最後の体験を味わい始めている。

どんな人でも最期にはこんなに孤独になってしまうのか。

今、ユキの腕に支えられているはずなのに、宙に漂っているような気がする。

しかし同時に、重力の面影を感じている気もする。

果てしない暗闇に落ちているような感覚がある。

寒い。

とにかく寒い。

誰か、温めてくれないか……






「おはよう、陸隼くん」


光の筋が久々に差し込んで、夢から覚める。

自身の体はやつれていて、肋骨が見えるほどだ。

まともに歩くこともできない足を見て、空腹を覚える。

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