そして男は舞い降りた

別の銀河系に属する星々は、ここからじゃ遠すぎて瞳の中に形を結ぶことができず、雲のような存在として俺たちの前に現れる。

それが、天の川の正体だ。


俺は意識を取り戻してもなお起き上がらず、ただ夜空だけを見つめていた。

くるぶしから下はまだ湖に浸かっている。肌寒い気温だが、それが心地よくも思える。

上から見た景色通り、ここは随分と自然豊かな土地であり、空気が澄んでいるようだ。

深く息を吸い込むと、ふかふかの土の匂いと草木の青い香りがする。

あの監禁部屋より格段に気分がいい。二度寝したいとも思った。

しかし流石に体が冷える。俺はしぶしぶ体を起こし、周りの探索を始めた。


当然今の俺は裸足だ。足元には十分に気をつけながら、やわらかそうなところだけを選んで歩く。

幸いにも森でありながら開けた道があり、それを頼りに進んだ。

それでも小さな枝がところどころあり、枯れ葉も裸足では随分と危険だ。

暗闇に慣れた目をかっぴらいて、慎重に歩いて行った。


ここは一体どこなのだろうか。

まずもって日本ではない。地理に詳しいわけじゃないが、日本にないような地形をしていた。

そもそもあの大樹がある時点で、日本どころか地球であるのかすら怪しい。

やはり俺の幻覚という説が有力だが、それにしてはリアルすぎる。

今でも上を見上げると、感動を覚えるほどの星空が映る。今時プラネタリウムでもお目にかかれないだろう。

これほどの景色を、勝手に脳内に作り出しているのなら大したものだ。ハグしてあげよう。

自身の両肩に抱きついてバカをやっていたものだから、勢いよく小枝を踏み抜いた。

静かな夜が、マイケルジャクソンばりの俺の甲高い叫びで崩れた。


開けた道があるのなら、必ず人のもとに辿り着ける。

そう確信を持って進むとやはり、人影があった。

しゃがみ込んで何か作業をしているようだ。この夜中に? しかも森で?

どう考えても闇のシチュエーションしか思いつかない。それでもいい。彼を第一村人とする。

彼のやっていることについて、俺は何も知らないし聞かない。

ここがどこか知れれば何でもいい。寝床までの案内があったら万々歳だ。

俺はれっきとした遭難者のはずだ。誰にでも助けてもらう権利があるはずだ。


「こんばんは!」


俺は元気よく挨拶してみた。どれだけやつれていても声は出るのだ。

しかし返事がない。気難しいタイプだろうか、それともイヤホンでもしているんだろうか。

いっそのこと危機感を煽ってやろう。実際問題はないはずだ。捜索届の一つや二つ、出ているだろう。


「すみませーん、助けてほしいです」


少しこっぱずかしくなってきた。当たり前だが人に助けを呼ぶなんて初めてのことだ。

意外にもその作法がよくわからない。もっと鬼気せまった声色で言うべきなんだろうか。

全く動く気配のない相手を前に?

いや、声がけするより前に振り向いてもらおう。肩に触れるため近づこうとした時だった。


一羽の蝶が俺を掠めて飛んでいった。いや蛾かもしれない。暗いからそこまでは判別できなかった。

近づいていくたびにその人影に違和感を感じる。人にあるはずの色味が一向に現れず黒いままなのだ。

黒いマネキンなのかもしれない。

森のなかで、マネキンに向かって助けてくれと懇願する男。相当滑稽な状況だし、そもそもなぜ黒いマネキンが森に立てかけてあるのかも分からない。悪趣味すぎる。

ということは、逆説的にこれは人であるということになるが。それでも全身黒タイツの人間が深夜に森を徘徊していることになる。

俺の頭はもうどうかしているのかもしれない。

早くその疑問の答えを掴もうと、さらに近づいていくと、再び蝶が俺を掠めていく。

二匹、三匹と次々に現れる。明らかに数が多い。何だか不気味だと思っていた。

肩に手をかけられるまで近づいた時、全ての答えがそこにあった。


人のはずなのに、そこに肌や服はなかった。

代わりに、無数の黒い蛾がひしめいていた。一匹一匹が不規則にゆらめき、羽を休めている。体中に蛾がまとわりついているのだ!

その気持ち悪さに声をあげかけて、息を吸ってしまう。凄まじい腐敗臭がそこから漂っていることも、その時理解した。

猛烈な吐き気に襲われてその場に倒れ込んだ。

運悪く、手をついたところに枯れ葉があったせいで、音を鳴らしてしまった。


羽音が強まった。よく分からない呻きをあげて、それは振り向いた。おそらく死んでいるはずの体が、動いている。

しかもおそらくは、その蛾によって。

顔にも蛾がびっしりとついており、目と口の代わりに色の違う蛾が三匹とまっていた。

俺を見つけるや否や、いきなり陣形を変え始める。一瞬、苦痛に歪んだその体の口元が見える。

そして、色の違う三匹は、スマイルを作っていた。


あまりにも怖くなって、俺は夢中で駆け出した。

とにかく開けたところへ、とにかく安全なところへ!

しかし裸足では思ったように速度が出ない。一匹、また一匹と追いつかれる。何とか振り払うが、数は次第に増していく。

幻覚だと信じ込めば、元の世界に戻れるだろうか? 今死ぬより後で死ぬほうがマシなんじゃないか?


「何でもいいから助けてくれ!!」


俺は思わず夜空に叫んでいた。相変わらず綺麗だった。

それだけ能天気な空が、むかついてきた。こっちはこんなにも必死なのに。

また初めの湖に戻ってきてしまった。俺が寝ていた跡がまだ残っている。

追手がもう来ていないか、後ろを振り向いた。


増えていた。

三体、蛾がひしめく死体が立っていた。

逃げようとした時、既に目の前にも立っていた。

ぞろぞろと茂みから現れ、五体で俺を囲んでいた。

俺が今どんな顔をしているのか、想像したくない。きっと恐怖でめちゃくちゃになっているだろうから。

一歩、また一歩と距離を詰めてくる。どの化け物もスマイルを浮かべている。

おそらくは色違いの蛾は司令塔で、スマイルの形を取ることで狩りをするように命令を出しているのだろう。

そして、俺も同じように蛾に包まれる。

どんな苦痛が待っているのだろう? 俺は大人しく死ねるのだろうか?

もしかしたら、こいつらはわずかに生かされていて、ゾンビ化しているのではないだろうか?

ああ、ああ! そんなことを考えている場合じゃない!

そんな恐ろしいことを考えている暇があったら、逃げ出せ、湖の方に!

しかしもう手遅れだった。足がすくんで動けない。俺はその場に腰をついてしまった。

実際のところ、泳ごうとしても無駄だろう。水は冷たすぎるし、体力もなく、溺れ死ぬのがオチだ。

それでもこうなるよりはマシなのかもしれない……

俺は瞼をぎゅっとつむった。最後の手段として、これを夢だと信じようとした。

無数の羽音が聞こえていても、風に葉がさざめく音がしても、腐敗臭がしていても。

これは全部夢なんだ!


「目をつぶっていてください!」


どこからか、女の子の声がした。言われる前から俺は目をつむっていた。

風を切る音がして、逆に俺は思わず目を開けてしまう。

目の前に、真っ白な長髪を斜めに切りそろえた少女が、両手に剣を持って構えていた。

次の瞬間、双剣が炎を纏い出し、暗闇に慣れた俺の目をくらませた。

それでも、少女が何をしたのか、俺は見ていた。


蛾の群れを華麗な舞と共に焼き払っていく。

容赦なく化け物を一体切り伏せて、真珠の髪がたなびいていく。

よく見ると、髪の上には黒い薔薇の飾りがついていた。

化け物も負けじと、急に機微な動きを取り出す。目まぐるしく化け物の表情が変化して、生き残った四体が陣形を組み、同時に攻撃を仕掛けた。

左右から、そして蛾のみが飛び立って上から。

しかしそれをものともせず、少女は燃え盛る双剣を、左肩の上にあげる。

そして、自分の体を軸にして勢いよく回転した。全てを薙ぎ払う二つの円が斜めに浮かぶ。とんでもない体幹の持ち主だ。

少女は腰に二つの剣を納め、俺に振り返った。

しかし、これで倒したのは四体。

まだ、一体残っている。

俺も見失っていた最後の一体は、茂みから突如現れて、俺に一直線に向かってきた!

思わず手を前に出してしまう。

しかし、それは俺の目の前で静止する。刀身が頭を貫いていた。

少女は何とも言えない表情で、再び炎をその剣に纏わせる。

体の内側から焼き尽くされて、叫びでも呻きでもない、何とも言えない音が鳴り響いた。

どこかで聞いたことがあると思った。

そうだ、子供の頃、お爺ちゃんの火葬の時に聞こえてきた時と同じ音だ。まだ生きているのかと思ってしまった、あの音だ。

俺はすっかりへたり込んで、いつの間にか出ていた汗を拭っていた。

化け物が灰になったことを確認して、少女の目が再びこちらを向いた。

そして、一つの剣の鋒が、俺の喉元を指していた。


「私の質問に正直に答えてください」


さっきは冷酷に見えた目だったが、改めて見ると、結構かわいらしい瞳だと思った。

深い青に沈んでいて、鬱屈そうなことを除けば。

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