【4-3】

列車がゆっくりと停まり、ドアが開く。

人の流れに続いて結衣がホームに降り立つと、改札の向こうに俊太郎の姿が見えた。

小さく手を振る仕草に、胸の奥がふっと温かくなる。

歩み寄った瞬間、俊太郎が少し照れくさそうに首を傾げた。


「結衣さん、香水変えました?」


思いがけない言葉に、結衣は目を瞬かせた。


「…わかった?」


驚きと同時に、頬に嬉しさがこぼれる。

わずかな香りの変化に気づいてくれたことが、心の距離を縮めていくようだった。


駅前は賑やかで、通りに並ぶ土産物屋からは温泉まんじゅうを蒸す湯気が立ちのぼり、かすかに硫黄の匂いも混じっている。

二人は蕎麦屋に入って昼食をとった。

落ち着いた店内で、食べる合間に交わす会話は自然に弾み、旅先ならではの心の余裕を感じさせる。


食後は蒸したてのまんじゅうを手に、川沿いへと足を運んだ。

川面に光が反射し、流れの音がどこか心を解きほぐしてくれる。

湯気に包まれた甘さを頬張りながら並んで歩くその時間に、結衣は「旅が始まったんだ」と実感した。


宿に着き、案内された部屋の窓からは山並みと川が広がっていた。

荷物を置いて一息つくと、結衣は窓辺の椅子に腰を下ろし、足首を軽く回した。


「結衣さん、脚、疲れてます?」


何気ない仕草に気づいた俊太郎が近づき、そっと彼女の足首を手に取る。

驚く間もなく、そのまま指先がふくらはぎへと移り、タイツ越しに優しく揉みほぐしていく。


「…ん!」


思わず声にならない息が漏れる。

膝裏に触れられた瞬間、結衣は慌てて足を引っ込めた。


「ごめん…もう大丈夫。ありがと…」


そう口にしながらも、心の奥では「まだ触れていてほしかった」と感じている自分がいて、頬が熱くなる。


やがて夕刻、浴衣に着替えると空気が少し変わった。

互いに目を合わせると、言葉にしづらい照れが漂う。


夕食の席で、俊太郎は仲居の所作や配膳に感心する内容の言葉を漏らした。


「若いのに、そういうの詳しいんだ?」


問いかけると、俊太郎は少しだけ視線を逸らして笑った。


「実は、実家が田舎の小さい旅館で…でも継ぎたくなくて東京に出たんです」


「そうだったんだ…」


「あの頃は、ただ地元から離れたいって気持ちが強くて。けど今は広告の仕事が楽しいし、やりがいも感じてます」


一拍おいて、俊太郎は真剣な眼差しで結衣を見た。


「なにより…結衣さんに出会えたから、東京に来てよかったって思ってます」


「…えっ?」


思わぬ言葉に、結衣の頬が熱くなる。

視線を逸らしながらも、胸の奥でふと想像してしまう。

俊太郎と二人で旅館を切り盛りする将来――。


(…そういうのも、悪くないかも)


口には出さず、心の中でそっとつぶやいた。


夕食を終え、二人で館内の温泉へむかう。

湯上がりの待ち合わせ場所に現れた結衣の浴衣姿に、俊太郎は息を呑んだ。

湯気の残る肌から漂う微かな香水に、鼓動が早まるのを自覚した。

部屋へ戻ると、布団が二組並んで敷かれている。


結衣は少しうつむいて「なんか、ちょっと恥ずかしいね」とつぶやく。

俊太郎はその言葉にうなずきながら、自分の胸の高鳴りを隠せずにいた。

初日の夜は、ゆっくりと更けていった。

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