第3話【対峙】癒しと守護、秩序の刃に試される
エレナとくーちゃんを女生徒寮まで送り届けることになった。
夜の空気はひどく澄んでいて、街灯の明かりが路面に淡い輪を描いている。
エレナの腕の中で、くーちゃんが小さく身じろぎした。
その柔らかな毛並みが月光を受け、まるで小さな灯のように揺れる。
並んで歩く道は、不思議なほど静かだった。
ついさっきまでの死闘が、まるで遠い昔のことのように思える。
「……怪我は、ないか?」
問いかけると、エレナは小さく目を瞬かせ、すぐに微笑んだ。
「ええ、私は大丈夫です。あなたこそ――」
その言葉が途中で途切れた。
エレナの視線が、護の制服の裾に空いた焦げ跡へと落ちる。
「……そこ、怪我してるじゃないですか」
「ああ、これか。平気だよ。君の――あの“祈り”のおかげでな」
軽く笑ってみせるが、腕の奥にまだ鈍い痛みが残っている。
ふと、彼女の瞳と目が合った。
翡翠のような光を宿したその瞳が、月明かりにきらめく。
思わず言葉を失い、胸がざわついた。
――ハーフ、なのか?
そんな思考が、動揺を隠すための逃げ道のように頭をよぎる。
エレナは何か言いかけて、代わりにくーちゃんを抱き直した。
その仕草が、まるで傷を確かめるように優しい。
金糸の髪が夜風に舞い、月明かりの中でやわらかく光った。
くーちゃんが小さく「くぅん」と鳴いた。
その声に、護の心の波が静かに鎮まっていく。
エレナの腕の中のくーちゃんは、戦いの疲れが出たのか、とろんとした瞼を何度も瞬かせている。
ふわふわの毛並みが月光に照らされて淡く輝き、細い鼻先が小さく震える。
その小さな寝息を見つめていると、胸の奥がじんわりと温かくなった。
――こんなふうに、誰かと並んで歩く夜は、いつ以来だろう。
ふと、遠い記憶の中で、そらの尻尾が揺れた気がした。
喉の奥が少し熱くなり、護は小さく息を吐いた。
……駄目だ、今は思い出してはいけない。
夜風が頬を撫でるたび、胸の奥が小さく脈打つ。
けれど――その鼓動は痛みではなく、確かな熱を運んでいた。
誰かを護れたという実感が、まだこの手のひらに残っている。
それは、失った記憶を照らすような、淡い希望の光だった。
そうこうするうちに、女生徒寮の門が見えてきた。
「今夜は散々だったな。でもお互い無事で良かった。何かあったらすぐに連絡してくれ」
「はい! 本当にありがとうございました! くーちゃんも、新しいお友達ができて嬉しそうです!」
「キューン!」と小さな声が夜気に溶ける。
手を振る二人から背を向け、俺は疲れた身体を引きずりながら男子寮へ歩き出した。
覆面の男の影が、月明かりの向こうでまだ揺れている気がした。
***
朝の光がカーテン越しに差し込み、部屋の白壁をやわらかく染めていた。
あれほど深く眠ったのは、いつ以来だろう。
制服に袖を通しながら、昨夜のことを思い出す。
――覆面の男。あの咆哮。あの力。
だが今は、考えても仕方がない。生きて今日を迎えられたことに感謝すべきだ。
朝の光に照らされた校舎を見上げる。
〈筑波アニマル・メディカル・アカデミー〉――通称“アニアカ”。
獣医学と動物心理療法を統合した、日本で唯一の“動物共生医療”学園だ。
動物の命を救うために集まったはずの場所は、どこか眩しすぎて、少し冷たい。
白く磨かれた壁も、光を反射するガラスも、
まるで「理想」という言葉だけが先に歩いているようだった。
この学園には、「アニマル・エリートクラス(AE)」と呼ばれる特別枠が存在する。
財閥や官僚、司法や政治家の子弟が多く在籍し、
一般の授業に混じりながらも、先端研究や特別カリキュラムに参加できる。
表向きは“人材育成”――だが実際には、“次世代の支配層”を育てる場所。
そんな噂すらある。
だが、俺は思う。同じ白衣を着ていても、あの人たちの笑顔はどこか遠い。
動物たちと向き合うよりも、研究成果や数値ばかりを追っているように見える。
……数値よりも、“守るべき命の重さ”こそ重要なのにな。
それでも、理想だけでは届かない現実もあるのだとは思うが。
そして、俺がここにいる理由はただ一つ。
あの日、護れなかった命を胸に、もう一度“救う側”に立つためだ。
獣医を目指したのは、贖罪でも理想でもない。
――ただ、誰かを失う痛みを、二度と繰り返したくなかっただけ。
そんなことを思いながら校舎に入り、教室のドアを開けると――
中は低いざわめきに包まれていた。
机に身を寄せ合ったクラスメイトたちが、噂話を囁き合っている。
「昨日の夜に暴力事件があったらしいぜ」
「最近出るっていう、不審者の仕業じゃないのか?」
「生徒会の光城くん達が、もう調査してるって!」
……やはり広まっていたか。
裏庭のベンチが粉砕されていた惨状を見れば、誰だって騒ぎ立てる。
だが、生徒会まで動いているとは。胸がざわつく。
授業が始まっても噂は消えず、
陰でスマホを操作する連中の指先が絶えず動いていた。
カチ、カチ、と画面をタップする音が、やけに耳につく。
……胸の奥が、微かにざわついた。
あの夜の炸裂音が、脈の奥でこだまする。
呼吸を整えようとしても、鼓動だけが勝手に速くなる。
昼休み。購買のサンドイッチを口に運んでいると、
窓の外が波立つように騒がしくなった。
何事かと耳を澄ませていると、クラスメイトの中谷が駆け寄ってくる。
「おい、護。お前を呼んでるぞ。――生徒会長さま直々に、な」
教室の外では、人だかりができていた。
その中心に立つ生徒会の二人――光城葵と朝比奈クレアの姿に、
空気が一瞬、震えるように張り詰めた。
嫌な予感が背中を走る。
昨日のことが、もう掴まれたのか……?
俺は深呼吸し、立ち上がった。
人の輪を押し分けながら、光の射す廊下へ足を踏み出す。
光城葵。
黒縁の眼鏡越しに覗く瞳は冷たく研ぎ澄まされ、端正すぎる顔立ちは男女の区別すら超えている。
声をかけるだけで空気が張り詰め、周囲の生徒たちは息を潜める。
彼を慕う女生徒ファンがいるというのも頷けた。
隣に立つのは、副会長の朝比奈クレア。
朝比奈財閥の令嬢として知られる彼女は、月光を思わせる金髪をさらりと流し、
整った顔立ちに品位をまとわせていた。
だが単なる高嶺の花ではなく、落ち着いた声音で場を和らげる“良識派のお嬢様”。
周囲の緊張を吸い取り、自然と安心感を与える存在だった。
「少し訊きたいことがあるんだが、よいか?」
有無を言わせぬ響きを帯びた光城の声が、廊下のざわめきを一瞬で断ち切った。
「……なんでしょうか?」
相手を刺激しないよう、努めて穏やかに答える。
「昨夜、学内で暴力事件があったとの噂が広がっている。調査中だが――昨夜の獣医学科の実習のあと、君は一人で残って調べ物をしていたな?」
「はい。そうですが……それが何か?」
俺の返答に対し、光城は眼鏡を押し上げ、その奥から鋭い光を投げた。
「複数の生徒が、八時半頃に裏庭から炸裂音を聞いたと証言している。その時間、君はちょうど寮に向かっていたはずだ。――何か、知っているのではないか?」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かがきしんだ。
“秩序の刃”――そう呼ばれる光城葵。
正義を名乗る者ほど、他人を裁くことに迷いがない。
その冷たい瞳がこちらを射抜くたび、心の奥の何かがざわめいた。
どう答える? とぼけるのは逆効果か……?
「……確かに、大きな音は聞きました。重いものが投げつけられて壊れたような音だったかと」
方針を切り替えて答えると、光城はわずかに唇を歪めた。
「“投げつけられて壊れた”……? 私は炸裂音としか言っていないが。なぜそこまで知っている?」
しまった――不用意な言葉が疑念を招いた。
その場に冷たい沈黙が落ちたとき、クレアが一歩前に出て柔らかく補足した。
「昨夜、確かに裏庭のベンチが粉砕されていました。朝のうちに業者が撤去したそうです。彼がそう言ったのも、目撃したからでは?」
クレアの声が場の緊張を和らげる。
しかし光城はなお冷徹に告げた。
「……影山護。事件の関係者として、生徒会室に来てもらう。詳細を確認させてもらおう」
その声音は“裁き”を下す宣告に等しかった。
周囲のざわめきが遠のき、背中に冷たい汗が伝う。
――あの戦いを、どう説明すればいい?
一歩でも誤れば、俺が――犯人にされる。
冷たい廊下の光が、足元を照らしていた。
誰も動かない。空気だけが、ガラスのように張り詰めている。
――このままじゃ、息ができない。
考えろ。言葉でも、行動でもいい。
この状況を覆すきっかけは、必ずどこかにある。
頭の奥で警鐘が鳴り、指先がじんと冷えた。
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