蒼き竜の継承者
みなと劉
第一章:風の谷の少年
第1話:朝霧と羊たちの歌声
エルドラン王国の最北端に位置する風の谷は、まるで世界の果てのような静寂に包まれていた。
朝もやが谷底から立ち上り、古い石造りの家々の屋根を優しく撫でていく。
鶏の鳴き声と、遠くで鳴く山羊の声が、この小さな村の一日の始まりを告げていた。
アルト・ウィンドブレイカーは、十六歳になったばかりの青年だった。
亜麻色の髪と澄んだ青い瞳を持つ彼は、村の中でも特に背が高く、その優しい笑顔は村人たちに愛されていた。
しかし、アルト自身は自分を特別だとは思っていない。
ただの羊飼いの孫として、平凡で穏やかな日々を送っているだけだった。
「アルト!朝飯の準備ができたぞ!」
祖父ガルムの野太い声が、石造りの小屋から響いてくる。
アルトは羊小屋の扉を閉めて、ゆっくりと家路を辿った。
足元では、愛犬のシロが尻尾を振りながらついてくる。
シロは真っ白な毛色をした中型の牧羊犬で、アルトが八歳の時から一緒に暮らしている相棒だった。
「おはよう、じいちゃん」
「うむ、おはよう。今日も良い天気じゃな」
ガルムは七十歳を過ぎているが、まだまだ現役の羊飼いだった。
白いあごひげを蓄え、深く刻まれた皺には長年の労働と笑顔の痕跡が刻まれている。
彼の手は大きく、ごつごつとしているが、羊を撫でる時はとても優しかった。
朝食は、焼きたてのパンと羊のチーズ、それに山で採れたベリーのジャムだった。
ガルムが淹れてくれた薬草茶は、ほんのりと甘い香りがして、アルトのお気に入りだった。
「今日はどの牧草地に行く予定じゃ?」
「北の丘を考えています。あそこの草がちょうど食べ頃になっているはずです」
「そうじゃな。ただし、あまり森に近づき過ぎるでない。最近、少し変わった動物の鳴き声が聞こえるという話があるからな」
ガルムは心配そうな表情を浮かべた。
風の谷の北側には「禁足の森」と呼ばれる深い森が広がっている。村の長老たちは、その森には古い魔法の痕跡が残っており、危険だと言い伝えていた。
しかし、アルトにとってそれは単なる迷信のように思えた。
「大丈夫です。シロも一緒ですし」
「ワン!」
シロが誇らしげに鳴いて、尻尾を大きく振った。
朝食を終えると、アルトは祖父から受け継いだ古い羊飼いの杖を手に取った。
それは樫の木で作られた素朴な杖だが、長年の使用で手に馴染み、不思議な温かみを感じさせてくれる。
杖の頭部には小さな青い石がはめ込まれており、朝日を受けてきらりと光った。
「それじゃあ、行ってきます」
「気をつけてな。夕飯には戻るんじゃぞ」
アルトは羊小屋から約三十頭の羊を連れ出した。先頭を歩くのは、メリーという名前の年老いた雌羊だった。メリーは群れのリーダー的存在で、他の羊たちは彼女についていく習性があった。
「さあ、みんな。今日も一日頑張ろう」
「メェェ」「メェェ」
羊たちは思い思いに鳴き声を上げて、アルトに応えた。
北の丘への道のりは約三十分ほどだった。石畳の村道を抜け、野原の小道を通り、緩やかな坂を登っていく。途中、野生の花々が咲き乱れる草原を通った。
青いリンドウ、白いマーガレット、黄色いタンポポが風に揺れて、まるで天然のお花畑のようだった。
「きれいだね、シロ」
「ワン!」
シロも同じように感じているのか、花の匂いを嗅いで回っている。
丘の上に着くと、アルトは羊たちを放牧した。ここからはエルドラン王国の壮大な景色を一望することができた。
南の方角には王都アルデンの白い城壁がかすかに見え、東には青い湖が太陽の光を反射してキラキラと輝いている。西には連なる山々があり、その向こうには隣国フェルナンドがあるはずだった。
アルトは丘の上の大きな岩に腰かけて、羊たちを見守った。メリーを先頭に、羊たちは美味しそうに草を食んでいる。
シロは羊たちの番をしながら、時折アルトの方を振り返って安全を確認していた。
「平和だなあ...」
そうつぶやきながら、アルトは祖父がくれた弁当を広げた。
黒パンに羊のチーズを挟んだサンドイッチと、干した果物、それに水筒に入った冷たい井戸水だった。
シンプルだが、青空の下で食べると格別に美味しく感じられる。
食事をしながら、アルトは子供の頃のことを思い出していた。両親のことはあまり覚えていない。彼が三歳の時に病気で亡くなってしまったからだ。
それ以来、祖父のガルムが父親代わりとして彼を育ててくれた。
ガルムはいつも言っていた。
「お前の両親は立派な人間だった。特にお前の父親は、この村一番の羊飼いで、動物たちとも心を通わせることができる不思議な力を持っていた」と。
アルト自身も、なぜか動物たちとは自然に仲良くなれた。
羊はもちろん、鳥や小動物たちも、彼に対しては警戒心を見せずに近づいてくる。
村の人々は
「アルトには動物を安心させる何かがある」
と言っていたが、本人にはその理由がよく分からなかった。
昼下がり、アルトは羊たちと一緒に昼寝をしていた。暖かい日差しと、そよ風が心地よく、いつの間にかうとうとしてしまったのだ。
ふと目を覚ますと、シロが心配そうに彼の顔を覗き込んでいた。
「どうしたんだ、シロ?」
シロは森の方角を向いて、小さく唸り声を上げている。
アルトが視線を向けると、禁足の森の入り口あたりで、何かが光っているのが見えた。
「あれは...?」
それは青白い光で、まるで星のように点滅していた。好奇心旺盛なアルトは立ち上がったが、祖父の注意を思い出して足を止めた。
しかし、その時、森の奥から微かに聞こえてきたのは...鳴き声だった。
それも、明らかに苦しんでいるような、か細い声だった。
「何かが困っているのか?」
アルトは迷った。
祖父との約束を破るのは気が引ける。
しかし、もし本当に何かが助けを求めているのなら、見て見ぬ振りをするのは彼の性格に合わなかった。
「シロ、どう思う?」
「ワン、ワン」
シロも同じ気持ちなのか、森の方を向いて小さく鳴いた。しかし、尻尾は下がっており、不安そうな様子も見せている。
結局、アルトは羊たちをメリーに任せて、森の入り口まで行ってみることにした。もし危険そうなら、すぐに引き返せばいい。
「メリー、みんなをお願い」
「メェェ」
メリーは理解したように鳴いて、群れをまとめ始めた。
アルトとシロは、恐る恐る禁足の森の入り口に向かった。
近づくにつれて、その光はより鮮明になっていく。そして、鳴き声もはっきりと聞こえてきた。
それは確かに、何かが助けを求める声だった。
「やっぱり、誰かが困っているんだ」
アルトの正義感が勝った。
彼は勇気を振り絞って、ついに禁足の森の中へと足を踏み入れた。
木々が鬱蒼と茂る森の中は薄暗く、ひんやりとした空気が漂っていた。しかし、不思議と恐怖感はなかった。むしろ、どこか懐かしいような、不思議な安らぎを感じていた。
「この感覚は...なんだろう?」
アルトは首をかしげながら、光の方向へと歩を進めた。
シロも警戒しながらも、彼についてくる。
やがて、木々の間から古い石の遺跡が見えてきた。それは苔に覆われた円形の台座で、その中央で青い光が輝いていた。
そして、その光の中に...
「あれは...」
アルトは息を呑んだ。
そこには、手のひらほどの大きさの、美しい蒼い鱗を持つ小さな生き物がいた。
それは翼を持ち、細長い首と尻尾を持つ...竜だった。
小さな竜は傷を負っているようで、片翼を痛々しそうに引きずっている。その瞳には苦痛と、そして助けを求める光が宿っていた。
「竜...本当に竜がいるんだ」
アルトは驚きながらも、そっと近づいた。
小さな竜は最初警戒していたが、アルトの優しい眼差しを感じ取ったのか、やがて身を委ねるように力を抜いた。
「大丈夫、怖がらないで。助けてあげるから」
アルトが手を差し伸べると、小さな竜はゆっくりと彼の手のひらに身を寄せた。
その瞬間、不思議なことが起こった。
アルトの心に、声が響いたのだ。
『...ありがとう...』
それは言葉ではなく、直接心に伝わってくる想いだった。テレパシーというべきか、心の会話というべきか...アルトには初めての体験だった。
しかし、なぜか恐怖は感じなかった。
むしろ、長い間忘れていた何かを思い出すような、温かい懐かしさを感じていた。
「君は...竜なんだね。どうして一人でこんなところに?」
『迷子になって...そして怪我を...』
小さな竜の声は弱々しく、でも確かにアルトの心に届いていた。
「分かった。きっと治してあげる。僕はアルト。君の名前は?」
『セレス...私の名前はセレス』
「セレス...きれいな名前だね」
アルトは小さな竜を優しく包み込むように両手で包んだ。
セレスは安心したように、小さく鳴いた。
その時、遠くから羊たちの鳴き声が聞こえてきた。メリーが心配して呼んでいるのだろう。
「帰らなくちゃ。セレス、一緒に来る?」
『...いいの?』
「もちろん。困っている時はお互い様だよ」
セレスの瞳に、小さな光が宿った。
それは希望の光だった。
アルトは傷ついた小さな竜を胸に抱いて、森を出た。
夕日が山の向こうに沈みかけており、空はオレンジ色に染まっていた。
羊たちは無事で、メリーがしっかりと群れをまとめていてくれた。シロも安心したように尻尾を振っている。
「みんな、お疲れさま。帰ろう」
羊たちを連れて村への帰路につく途中、アルトはセレスに話しかけた。
「セレス、君はどこから来たの?」
『遠く...とても遠いところから。でも、もう帰る場所がないの』
「そんなに寂しそうな顔をしないで。僕たちがいるじゃないか」
『本当に...一緒にいてくれるの?』
「もちろん。家族だよ」
セレスは小さく鳴いて、アルトの胸にもたれかかった。
村に戻る頃には、すっかり日が暮れていた。
ガルムが心配そうに待っていてくれたが、アルトが無事に帰ってきたのを見て安心したようだった。
「おかえり、アルト。今日は少し遅かったな」
「すみません。ちょっと...道に迷って」
アルトはセレスのことを隠していた。
まだ、どう説明していいか分からなかったからだ。
夕食の後、アルトは自分の部屋でセレスの傷の手当てをした。
幸い、大きな外傷ではなく、清潔な布で包んであげれば治りそうだった。
「明日、村の薬師のところに連れて行こう。きっと良い薬をくれるはずだ」
『ありがとう、アルト。あなたは本当に優しいのね』
「そんなことないよ。当たり前のことをしているだけだ」
セレスはアルトのベッドの枕元で丸くなって眠った。その寝息は、とても穏やかで幸せそうだった。
アルトも布団に入りながら、今日の出来事を振り返っていた。
竜との出会い、不思議なテレパシー、そして自分の心に生まれた新しい感情...
「セレス...君との出会いが、僕の人生を変えるのかもしれないな」
窓の外では、満点の星空が風の谷を優しく照らしていた。
そして、遠い森の向こうで、何かが静かに目覚めようとしていることを、アルトはまだ知らなかった。
こうして、平凡な羊飼いの少年と小さな竜の物語が、静かに始まったのだった。
第1話 完
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