第2話:薬師マリアの秘密

翌朝、アルトは普段よりも早く目を覚ました。枕元で眠っているセレスの小さな寝息が、不思議な安らぎを与えてくれていた。

 昨夜は夢を見た。

 青い光に包まれた広大な空を、巨大な竜たちが舞い踊る幻想的な光景だった。

 しかし、目覚めてみればそれが夢だったのか現実だったのか、曖昧な感覚が残っていた。


「セレス、調子はどう?」


『おはよう、アルト。少し良くなったわ』


 セレスは小さく伸びをしながら答えた。確かに昨夜よりも元気そうに見える。

 しかし、まだ完全ではない。左の翼にある傷は、専門的な治療が必要そうだった。


「今日、村の薬師さんのところに連れて行こう。マリアさんなら、きっと良い薬を知っているはずだ」


『でも...私のことを見て、驚かない?』


「大丈夫。マリアさんは心の広い人だから」


 アルトはそう言いながらも、内心では少し不安だった。

 竜という存在が、この平和な村でどのように受け入れられるか分からなかったからだ。

 朝食の時間、ガルムは新聞を読みながら眉をひそめていた。


「どうしたんです、じいちゃん?」


「うーむ...最近、王都の方で奇妙な事件が起きているようじゃな。古い遺跡から不思議な光が観測されたり、魔獣の目撃情報が増えたりしているという」


「魔獣?」


「そうじゃ。もう何十年も姿を見せなかった古代の生き物たちが、再び現れ始めているらしい。学者たちは首をかしげているそうじゃ」


 アルトは胸の内ポケットに隠しているセレスのことを思った。

 もしかすると、セレスの存在も、そうした古代の力の復活と関係があるのかもしれない。


「心配いらないと思いますけど...」


「そうじゃな。我々のような辺境の村には関係のない話じゃろう。それより、今日の放牧はどうするんじゃ?」


「午前中は休んで、午後から南の牧草地に行こうと思います」


「そうか。気をつけてな」


 朝食を終えると、アルトはセレスを大切に懐に抱いて、村の薬師マリア・ハーブワイズのもとを訪れた。

 マリアの家は村の中心部にある石造りの建物で、軒先には色とりどりの薬草が干してあった。ラベンダー、カモミール、セージ、タイムなど、様々な香りが混ざり合って、独特の癒しの空気を作り出している。


「おはようございます、マリアさん」


「あら、アルト。おはよう。今日はどうしたの?」


 マリア・ハーブワイズは四十代半ばの女性だった。

 栗色の髪をきっちりとまとめ、深緑色のローブを身に纏っている。彼女の瞳は優しく、村人たちの病気や怪我を治すことに生涯を捧げてきた人の穏やかな表情を浮かべていた。


「実は...少し変わった相談があるんです」


 アルトは周りを見回してから、小声で続けた。


「誰にも言えないような、特別な患者さんがいるんです」


 マリアの目が興味深そうに輝いた。

 彼女は長年の経験から、アルトが本気で困っていることを察したのだろう。


「ここではお話しにくいようね。奥の診療室にいらっしゃい」


 診療室は薬草の香りに満ちた静かな空間だった。

 壁一面に薬瓶が並び、机の上には古い医学書が積まれている。

 マリアは扉をしっかりと閉めてから、アルトに向き直った。


「さあ、どんなお話かしら?」


 アルトは意を決して、懐からそっとセレスを取り出した。


「この子なんです」


 マリアの表情が一瞬凍りついた。

 しかし、驚きよりも、むしろ深い理解のような光が彼女の瞳に宿った。


「まあ...竜の子ね」


「ご存知なんですか?」


「ええ。古い文献で読んだことがあるわ。でも、実際に見るのは初めて」


 マリアはゆっくりとセレスに近づいた。

 セレスは最初警戒していたが、マリアから感じられる優しい気持ちを察して、身を委ねるように羽を広げた。


「美しい子ね。蒼竜の幼体...とても珍しい種族よ」


「蒼竜?」


「古代竜族の中でも、特別な力を持つとされる竜たちよ。心を通わせる能力や、治癒の力を持っているの」


 マリアは専門家らしく、セレスの傷を丁寧に診察した。


『この人...温かい手をしているのね』


 セレスがアルトにテレパシーで話しかける。


「マリアさん、セレスが喜んでいます」


「セレス?この子の名前ね。とても素敵な名前だわ」


 マリアはセレスの翼の傷を優しく調べながら、時折「うん、うん」と頷いていた。


「傷は思っていたより浅いわね。ただし、竜族特有の治癒方法が必要になる」


「特有の治癒方法?」


「普通の薬草では効果が薄いの。竜族には、月光草という特別な薬草が必要よ」


 マリアは奥の棚から、青白く光る不思議な草を取り出した。


「幸い、少しだけ在庫があるわ。これを煎じて、傷口に塗ってあげれば、三日ほどで完治するはず」


「ありがとうございます。でも、どうしてそんな貴重な薬草を?」


 マリアは少し複雑な表情を見せた。


「実は...私にも秘密があるのよ、アルト」


 彼女は椅子に座り直して、深いため息をついた。


「私の祖母も薬師だったの。そして、彼女は竜族と深い関わりがあった」


「関わり?」


「昔、この地域には多くの竜たちが住んでいたの。彼らと人間は協力し合って暮らしていた。私の祖母は、竜族専門の治療師だったのよ」


 アルトは興味深く聞き入った。


「でも、五十年ほど前から、竜たちは姿を消し始めた。理由は分からないけれど、一匹、また一匹と、どこかへ旅立っていったの」


『それは...』


 セレスが悲しそうに鳴いた。


「セレスも何か知っているみたいです」


「そうかもしれないわね。竜族には人間には理解できない、深い事情があるのかもしれない」


 マリアは月光草を丁寧に調合しながら続けた。


「私は祖母から竜族の治療法を受け継いだけれど、もう二度と使うことはないだろうと思っていた。まさか、こんな形で再び役に立つとは」


「僕がセレスを連れてきたのは、偶然じゃないのかもしれませんね」


「そうかもしれないわ。運命というものがあるとすれば、アルト、あなたとセレスの出会いもその一部なのかもしれない」


 調合が完了すると、マリアは小さな瓶に薬を入れてアルトに手渡した。


「一日二回、朝と夕方に傷口に塗ってあげて。そして...」


 マリアは真剣な表情になった。


「セレスのことは、まだ他の人には話さない方がいいかもしれないわ」


「どうしてですか?」


「最近の王都の情報を聞いた?古代の力が復活しているという話」


「はい、じいちゃんが話していました」


「もしかすると、セレスの出現も、その一連の現象と関係があるかもしれない。王国の学者や魔法使いたちが調査に乗り出しているという噂もあるの」


 アルトは不安になった。


「セレスが危険な目に遭うということですか?」


「分からないわ。でも、用心に越したことはない。少なくとも、セレスがもう少し大きくなって、自分の身を守れるようになるまでは」


『大丈夫よ、アルト。私はあなたといれば安心』


 セレスがテレパシーで慰めるように話しかけてきた。


「分かりました。気をつけます」


「それと、もしセレスに変化があったり、何か困ったことがあれば、いつでも相談しに来て。私にできることなら、何でも協力するわ」


「ありがとうございます、マリアさん」


 薬師の家を出る時、マリアは最後にこう言った。


「アルト、あなたには特別な何かがあるのね。動物たちがあなたに懐くのも、セレスがあなたを信頼したのも、きっと理由があるのよ」


「僕に特別なことなんて...」


「謙遜しないで。自分の可能性を信じなさい。そして、セレスを大切にして」


 家に帰る道すがら、アルトはマリアの言葉を反芻していた。

 自分に特別な力があるなどとは思ったことがなかった。

 しかし、確かにセレスとのテレパシーは、普通の人間にはできないことかもしれない。


『アルト、心配しないで。私たちは一緒にいれば大丈夫』


「そうだね、セレス。何があっても、僕たちは一緒だ」


 午後の放牧で、アルトはセレスに薬を塗ってあげた。月光草の効果は素晴らしく、傷は見る見るうちに治っていく。


「すごいな、もうこんなに良くなってる」


『マリアさんは本当に良い人ね。お祖母さんの話も興味深かった』


「昔は竜と人間が一緒に暮らしていたなんて、信じられないな」


『信じて。それはとても美しい時代だったの。私たちの記憶にも残っているわ』


「記憶?」


『竜族は、先祖の記憶を受け継ぐことができるの。だから、私もその時代のことを少しだけ知っている』


 アルトは羊たちを見守りながら、セレスの話に耳を傾けた。


『人間と竜が協力していた時代...空を一緒に飛び、大地を一緒に耕し、知恵を分かち合っていた』


「どうして終わってしまったんだろう?」


『それは...』


 セレスは少し悲しそうに翼を震わせた。


『いつか話すわ。でも今はまだ...私にも分からないことが多いの』


 夕方、羊たちを連れて村に戻る時、アルトは空を見上げた。

 雲の切れ間から夕日が差し込み、空全体がオレンジ色に染まっている。

その美しい光景を見ながら、アルトは思った。もしかすると、自分とセレスの出会いは、失われた古き良き時代への第一歩なのかもしれない。そして、これから起こる様々な出来事への、静かな前奏曲なのかもしれない。


『アルト、ありがとう。あなたに出会えて本当に良かった』


「こちらこそ、セレス。君がいてくれて、毎日が特別になったよ」


 二人の絆は、一日一日と深くなっていく。

 しかし、彼らはまだ知らなかった。

 遠く王都では、古代魔法の研究者たちが、風の谷の方角で観測された不思議な魔力の反応について、熱心に議論を交わしていることを。

 そして、禁足の森の奥深くで、何か巨大な存在が、ゆっくりと目覚め始めていることも...

 家に着くと、ガルムが心配そうに待っていた。


「おかえり、アルト。今日は薬師のところに行ったのか?」


「はい。ちょっと相談があって」


「体調でも悪いのか?」


「いえ、大丈夫です。ちょっとした質問があっただけで」


 ガルムは安心したように頷いたが、その瞳には何かを察したような光が宿っていた。

 長年アルトを育ててきた祖父の直感が、何かを感じ取っているのかもしれない。

 夕食の後、アルトは自分の部屋でセレスの二回目の薬の塗布を行った。

 傷は驚くほど回復しており、明日にはもう飛べるようになりそうだった。


「すごいね、マリアさんの薬は」


『本当に。竜族の治療法を知っている人間がまだいるなんて、希望が持てるわ』


「セレス、今度マリアさんのお祖母さんの話、もっと詳しく聞いてみない?」


『それはいいアイデアね。私たちの歴史について、もっと知ることができるかもしれない』


 窓の外では、いつものように満天の星空が輝いていた。

 しかし、北の空に、普段は見えない青い星が一つ、特別に明るく輝いているのに、アルトは気づかなかった。

 その星は、セレスの故郷である竜の国から送られた、特別なメッセージの星だった。

 そして、それは新たな冒険の始まりを告げる、運命の合図でもあったのだ。


第2話 完

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