第32話 夢


 ◆


 岩場を抜けるたび、遠くで反響する自分たちの足音。

 義体から聞こえる僅かな動作音。

 30分ほど進む間に現れたテナガザル三匹も、自らの指揮と振るった直剣であっさり倒すことができた。


 連携はさらに滑らかになり、ムサシ、ユキ、テンコの動きは無駄がなく、直哉の指示にぴたりと応える。


(よっぽど大量の敵じゃなければ、この四人で十分戦えるかもしれないな)


 少し慢心の気配が心をよぎる。

 もちろん、戦場では危険な考えだとわかっていたが、直哉の頭の中には計算された自信が満ちていた。


「景色が……変わったな」


 岩場が少なくなり、視界が妙に開けてくる。


 低く垂れた岩壁が消え、足元の凸凹が減り、広い空間が視界を占める。


 直哉はその変化に、嫌な予感を抱いた。視界が開けるのは一見好条件だが、岩場区域の敵の密度を考えれば、開けた場所には一度に大量の敵が潜む可能性がある。


(戻るべきか…いや、進むべきか…いや、このまま引き下がってもダンジョンの入口まで逃げ続けるのは不可能だ…)


 思案しながら、直哉は岩場伝いに慎重に足を進める。

 索敵は周囲の影や岩の陰に注意を払った。先ほどのカオイヌ+テナガザル戦の不意の遭遇の二の轍を踏まないように。


(これは……まずい)


 足を止める直哉の目に、大猿一匹とテナガザル二匹が飛び込んできた。


 大猿一匹ならまだしも、四人で大猿を含む三匹を相手にするのは容易ではない。


(下がれ、慎重に)


 直哉は無言でハンドサインを送る。ムサシ、ユキ、テンコは理解し、じりじりと下がる。

 岩場に隠れるように慎重に。足音を抑え、義体の動作を滑らかにする。


 10秒ほどかけてじっくりと下がり、踵を返して完全に後退する構えを取ろうとしたその瞬間、左手に≪敵視光≫が飛び込む。



 単独のカオイヌがこちらに気付き、鋭く叫び声をあげる。


 ガオアウッ


 岩場の奥に潜んでいた大猿も、その声で存在を察知した。


(まずい!今まで複数の群れに同時にエンカウントしなかったのに、こんな時に連続エンカウントだなんて…)


 直哉はすぐに判断を下す。


「全力で下がれ!」


 三人は瞬時に反応する。岩場の少ない開けた場所から、再び岩場が密集する区域まで、全力で走り距離を稼ぐ。


(このままダンジョンの入口まで逃げ続けるのは無理だ。追加でエンカウントするのは絶対に避けたい)


 全力で駆け、岩場地帯まで戻ると、直哉は走りながら周囲を見回し、より岩場が多い方へ皆を誘導する。


「右!岩場の多い方へ!絶対に敵に囲まれるな!」


 岩場の多い場所まで走る。視界が遮られるが、敵の再合流を少しでも遅らせることを祈るしかなかった。


(ここで迎え撃つしかない。分断、各個撃破、分断、各個撃破)


 直哉は心の中で何度も方針を確認する。一手誤れば、下手をすれば全滅だ。


 走りながら周囲の地形を観察し、直哉は次に来るであろう敵の動きを予測する。

 四人の連携と、自分の指揮能力を最大限に活かすための配置を頭の中で組み立てる。岩場の凸凹と遮蔽物を使い、敵の進行を制限しつつ、一体ずつ局所的に処理する戦術を思案する。


 目の前に広がる岩場の陰影。

 小さな隙間、低く横たわる石の壁。


 全てが戦場の条件となり、直哉の頭の中で戦術の地図が再構築される。

 敵の数、位置、速度、助走距離。全てを瞬時に想定し、味方を動かすための最適な手順を計算する。


「十歩走って展開! 逆撃だ!」


 直哉の鋭い声が洞窟に響く。

 反射的にユキ、テンコ、ムサシが動き、後方へ跳び退きながら陣形を整えた。


 冷たく湿った空気の中、土埃と獣臭が混じる。

 前方から迫ってくるのは、身軽なカオイヌと二匹のテナガザル、その十メートルほど後ろには、圧倒的な質量と気迫をまとった大猿の巨体。


 走る速度の差で、自然と「カオイヌ・テナガザル組」と「大猿」との間に距離ができている。


 この瞬間こそ、最初の分断の好機だった。


「攻撃偏重! 敵の機動力を削げ、最速で頭数を減らせ!」


 いつもは防御重視で損耗を抑える直哉だが、今回はあえて攻勢に転じる判断を下した。


「大猿が追いついてくるまでに、先頭のカオイヌ・テナガザル組を減らさなければ負ける――その一点に全力を注ぐ」


 直哉の頭の中で戦況の糸が編まれ、数秒先の局面が何パターンも描かれては消えていく。


「ユキテンコ!全力でテナガザル!」


 ユキとテンコが同時に短槍を繰り出した。鋭い槍先が空気を裂き、前に躍りかかってきたテナガザル二匹の胴を貫く。


 猿たちはギャッと甲高い悲鳴をあげ、血と唾液をまき散らしながらよろめいた。まだ致命傷には至らないが、動きは確実に鈍る。


「ムサシ俺、カオイヌに全力でチャージ!」


 同じ瞬間、ムサシと直哉が盾を構えて前に出た。二枚の盾が同時に突き出され、突進してきたカオイヌに体当たりする。

 その瞬間、全力で全能力を解放。


 ≪意識加速≫で世界がゆっくりと、コマ送りになる。

 カオイヌの赤い攻撃軌道に合わせて、四十五度に盾を合わせて衝突の衝撃を最小限に。


 義体のフレームごと震えるような衝撃。

 左手に装着した盾の接合部が悲鳴をあげるように軋んだ。


 獣の巨体と義体の重量がぶつかり、ダンジョン内に衝突音が鳴り響く。

 正面からまともに突進を受け止めたムサシは後方に勢いよく吹き飛ばされる。


 直哉はのけぞりながら、体をひねって衝撃を逃がし、三歩たたらを踏むように下がった。


 視界の端で、カオイヌがバランスを崩し体勢を立て直そうとしているのを捉えた。


「隙だッ」


 反動を体を回転させ一歩踏み込み、低い姿勢から直剣を振り上げる。


 刃がカオイヌの後ろ脚に深々と食い込み、半ば千切れかけるほどの裂傷を与えた。骨を砕く感触と同時に、熱い血が飛沫になって頬を打つ。


(これでしばらくは動けないはずだ……)


 心の中でそう呟き、すぐに次の行動に移る。


 負傷したカオイヌは放置し、テンコとユキが相対するテナガザルに狙いを定める。


 テンコとユキが組み付き隙だらけの二匹の首元に、直哉の直剣が閃いた。


 斜めに走った刃筋が毛皮と筋肉を断ち切り、テナガザルたちは断末魔の叫びとともに崩れ落ちた。

 二匹、即座に撃破。前衛の脅威が一気に減じる。


 カオイヌも後脚に深手を負い、機動力は大きく低下している。動きは鈍く、距離を詰めるのも難しいだろう。


 ここまでが直哉の描いた、分断の『第一幕』だった。



『グオオオオオオッ!!』



 その時、地響きとともに大猿が追いついてきた。

 大猿の咆哮が洞窟全体に轟いた。耳の奥が震え、胸の奥に冷たいものが走る。


 岩肌を震わせる足音。

 二メートルをゆうに超える巨体が現れるだけで、空気の圧が変わる。


 全身を覆う黒褐色の毛並みは金属のように硬そうで、剥き出しの牙の奥で唾液が糸を引いている。


 殺気に肌が粟立つ。


 今まで二度大猿を倒しているが、それらは全て数の暴力による袋叩き。

 瞬間的に、完全に格上の実力を持つ大猿と一対一になった


 それでも直哉は目を逸らさない。大猿の巨体から放たれる赤い閃光が一瞬、視界を染めた。


 ≪思考加速≫、≪軌跡≫――二つの能力を重ねて起動。


 世界がスローモーションのように鈍くなる。大猿の巨大な腕が振り下ろされる軌跡を赤い光が描き、直哉はその間隙に身を滑り込ませた。


 直剣を逆手に構え、反撃の刃を放つ。しかし毛皮は想像以上に硬く、切り裂いたはずの腕に浅い傷が走るだけだった。


「くそっ、浅い……」


 次の瞬間、勢いを止められなかった大猿のショルダーチャージが迫る。避けきれない。


 直哉は思考をさらに加速させ、遅くなる視界の中で盾を大猿と自分の間に差し込んだ。

 インパクトの瞬間、後方へ跳びながら衝撃を受け流す。爆ぜるような衝撃音、耳鳴り。


 「ぐっ……!」


 吹き飛ばされ、五メートルほど転がる直哉。だが盾を差し込んだことで致命傷は避けられた。地面に手をつき、砂と血を噛みしめながら立ち上がる。


 「全力で後退! こちらに合流しろ!」


 全身を震わせながらも、指示は鋭く明瞭だ。

 三人が素早く動き、直哉のもとへ駆け寄ってくる。その背後には、血走った目で追いすがる大猿の影。


 カオイヌは足を怪我して追いつけず、後方で足を引きずりながら唸り声をあげるだけだった。



 ―――――これで『二度目の分断』が完成する。


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