第15話 白い便せん

 冬の夜。


 風は冷たく、街の灯りが遠くに滲んでいた。

 月は静かに浮かび、丘の上の郵便局に淡い光を落としている。


 その光の裏側――誰も見ない月の影に、墨色の制服をまとった朧(おぼろ)が現れる。

 彼の肩には、言葉にならなかった感情を封じるための黒い封筒が詰まった鞄。

 その鞄は、静かに重く、夜の気配を吸い込んでいるようだった。


 その夜、彼が手にしていたのは、一通の手紙。


 差出人:亡き母・澄江(すみえ)

 宛先:娘・遥(はるか)


 澄江は、病の床で亡くなった。

 その直前、彼女は娘に宛てて手紙を書こうとしていた。

 けれど、言葉はうまくまとまらず、便箋は白紙のまま机に残された。

 その白い便せんは、何も書かれていないのに、確かに何かを語っていた。

 その夜、澄江の魂は、言葉にならなかった想いを形にしようとしていた。


「ごめんね」

「もっと話したかった」

「あなたを誇りに思ってる」

 その言葉たちは、夜の風に乗って、形を持とうとしていた。


 月の光がそれらを照らし、淡く揺れる。

 朧は、その気配を察知し、静かに歩き出す。


 彼の足音は、雪のように静かで、誰にも気づかれない。

 彼の役目は、その言葉が届かないようにすること。


 それは、拒絶ではなく、優しさのかたち。

 届いてしまえば、誰かの心を乱すかもしれない。

 だからこそ、そっと封じる。


 遥はその夜、夢を見た。


 夢の中で、彼女は母の部屋にいた。

 机の上には、白い便箋とペン。

 窓の外には、月が浮かび、風が静かに吹いていた。

 部屋の空気は、どこか懐かしく、少しだけ切なかった。

 そこに、朧が現れる。


 彼は、便箋の前に立ち、そっと手をかざす。

 言葉になりかけた想いが、光の粒となって舞い上がる。

 それは、澄江の心の奥からこぼれたものだった。

 そして、静かに封じられていく。

 光は黒い封筒に吸い込まれ、音もなく消えていった。


 遥は、何かを言いかける。

 けれど、朧は優しく微笑み、首を振る。


「その言葉は、届かなくてもいい。なぜなら君の中に、もうあるから」


 遥は、ふと気づく。


 母の声、母の笑顔、母の手の温もり


 それらは、すでに自分の中に残っている。

 言葉にしなくても、伝わっていた。


 夢の中で、彼女は便箋をそっと撫でた。

 その感触は、現実よりも確かだった。


 翌朝、遥は目を覚ました。

 夢の記憶は曖昧だったが、胸の奥に静かな温もりが残っていた。


 彼女は、母の机に向かい、白い便箋をそっと撫でた。

 そして、窓の外に向かって微笑んだ。


「ありがとう。ちゃんと、届いてるよ」

 その言葉は、誰に向けたものでもなく、空に溶けていった。



 その夜、朧は郵便局に戻っていた。


 封じた言葉の詰まった黒い封筒を焼却炉へと投げ込んだ。

 炎が封筒を包み、静かに燃え尽きる。


 彼の仕事はまた一つ、終わった。


 しかし見渡す限り、言葉にならなかった想いは溢れている。


 誰にも言えなかった気持ち。

 伝えたかったけれど、伝えられなかった言葉。


 その中にはきっと封印すべき言葉もあるに違いない。


 それらの言葉を探す為、彼は今夜も町をゆく。


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