第8話 月のぬくもり
春の夜。
風はやわらかく、桜の花びらがまだ蕾のまま静かに揺れていた。
丘の上の古びた郵便局に、月見が現れる。
銀色の制服に白い帽子。肩には、まだ届けられていない言葉が詰まった皮の鞄。
その夜、彼のもとに訪れたのは、一匹の小さな犬だった。
ふわふわの毛並みに、サラサラの長い毛の尻尾。名前は「ココ」。
彼女はもう、この世にはいない。
けれど、心残りがあった。
家で過ごした最後の夜、飼い主に叱られてしまったこと。
それが、ずっと胸に引っかかっていた。
「ねえ、月見さん。あの人、ずっと塞ぎ込んでいるの。私のせいかな」
月見は静かにココの頭を撫でた。
「君の気持ちを届けよう。夢の中でならきっと伝わる」
その夜、飼い主の夢に、ココは現れた。
夢の中。
部屋は柔らかな月の光に包まれていた。
飼い主は、ぼんやりと立っていた。
そこに、ココが駆け寄ってくる。
しっぽをぶんぶん振りながら、嬉しそうに跳ねていた。
「ココ…?」
飼い主は目を見開いた。
ココは、ぴょんとソファに飛び乗り、くるんと丸くなった。
そして、顔を上げて、こう言った。
「ねえ、あの夜のこと、覚えてる?」
飼い主はうつむいた。
「ごめん。とても疲れてたんだ。だからココに怒鳴ってしまった。あんなふうに言うつもりじゃなかった」
ココは首をかしげて、にこっと笑った。
「ううん。私、わかってたよ。あのとき、ちょっと苦しくて、どうしていいかわからなかっただけ。でも、あなたが次の日すぐに病院に連れてってくれたの、嬉しかった。」
飼い主の目に涙が浮かぶ。
「入院してから、あなたが来てくれるたびに、うれしくてしっぽが勝手に動いちゃった。ほんとは、もっと一緒にいたかったけど…でもね、最後にあなたの顔が見られて、よかった。」
ココはそっと飼い主の膝に頭を乗せた。
「私ね、怒られたことなんて全然気にしてないよ。それより、あなたが笑ってくれる方が、ずっと大事なの。だから、笑っててほしいな。」
飼い主は、ココを抱きしめた。
その体は、夢の中なのに、確かに温かかった。
「ありがとう、ココ。ごめんね。そして…大好きだよ」
ココは、しっぽをふりながら、月の光の中へと歩いていった。
振り返って、最後に一言。
「私も、ずっと大好きだよ」
そして朝。。。
飼い主は目を覚ました。
涙が頬を濡らしていたが、心は少しだけ軽くなっていた。
窓の外には、春の光が差し込んでいた。
その光は、まるでココのぬくもりのように、優しく部屋を包んでいた。
月見は丘の上から、その様子を見守っていた。
彼の仕事はまた一つ、終わった。
だが、鞄にはまだ、誰かの心に届かなかった言葉が残っている。
今夜もまた、月の光に乗せて、彼は静かに歩き出す。
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