第7話 月裏の響き

 春の風がやわらかく町を撫でる夜。

 桜の蕾がふくらみ始め、月は静かに空に浮かんでいた。

 昼間の喧騒が消えた町には、静けさと、どこか切なさが漂っている。


 そして今日も、丘の上の古びた郵便局に、月見が現れる。

 銀色の制服に白い帽子。肩には、まだ届けられていない手紙が詰まった皮の鞄。


 その夜、彼が手にしていたのは、一通の手紙。

 封筒は淡いピンク色で、文字は丁寧に整えられていたが、

 どこか無理に明るさを装っているようだった。


 差出人:美月(みづき)

 宛先:母へ



 月見は手紙を開き、静かに目を通す。

 その言葉の奥には、誰にも言えなかった悲鳴が潜んでいる。

 すぐさま彼は感じ取った。



 ~ お母さんへ


 最近は、少し暖かくなってきたね。

 近所の公園の桜も、蕾がふくらんできたよ。

 春って、なんだか少し寂しくなる季節だね。

 仕事帰りに、新しくできたカフェに寄ってみたの。

 ランチのキッシュがすごく美味しくて、思わず写真撮っちゃった。

 今度一緒に行けたらいいなって思ったよ。


 そういえば、駅前の本屋で偶然、昔読んでた絵本を見つけたよ。

 懐かしくて、ちょっと泣きそうになった。

 あの頃は、毎晩お母さんが読んでくれてたよね。

 最近は、特に変わったこともないけど、元気にしてるよ。

 また電話するね。

 …って言いながら、なかなか電話できなくてごめんね。


 美月より ~



 月見は手紙をそっと鞄にしまい、夜の町へと歩き出す。


 彼は風に語りかけるように呟いた。


「この手紙を読んだなら、きっと気づいてくれるはず…」


 その夜、手紙は母のもとへ届けられた。

 月の光が窓辺に差し込み、部屋の中を淡く照らしていた。



 翌朝。


 母はポストに入っていた見慣れない封筒を手に取り、

 差出人の名前を見て目を細めた。


 手紙を読み進めるうちに、胸がざわついた。

 明るい言葉の裏に、何かが隠れている。

 娘の声が、どこか遠くから響いてくるようだった。


 その日の午後、母は電車に乗った。

 娘の住む町へ向かって。


 車窓から見える景色は、どこか懐かしく、そして少し切なかった。




 インターホンの音に、美月は驚いて扉を開けた。

 そこに立っていたのは、母だった。


「…なんで?」

 美月は戸惑いながら声を漏らす。


「あなたの悲鳴が聞こえたの」

「!!?」

 目に涙を浮かべる娘の顔を見て、母は優しく声をかけた。


「何年あなたの母親をしていると思って?」

 その言葉に、美月は堪えきれず、母の胸に顔を埋めて泣き出した。

 声を上げて、涙を流しながら。


 母は何も言わず、ただ娘を抱きしめていた。

 その抱擁は、言葉よりも深く、長い時間を超えて心を包み込んだ。



 その夜、美月は母と並んで夕食をとった。

 久しぶりに、心が少しだけ温かくなった気がした。

 食卓に並ぶ料理の香り、母の笑顔、何気ない会話――

 それらすべてが、彼女の心に静かに染み込んでいった。

 そして、彼女は決めた。


 しばらく実家に戻ることにする。


 心を再生するために。

 もう一度、自分を取り戻すために。



 月見は遠くからその光景を見守っていた。


 彼の仕事はまた一つ、終わった。


 だが、鞄にはまだ、誰かの心に届かなかった言葉が残っている。


 今夜もまた、月の光に乗せて、

 彼は静かに歩き出す。


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