第5話 月の遺言
春の気配がわずかに漂う夜。
まだ肌寒さの残る風が町を吹き抜ける中、
丘の上の古びた郵便局に、月見が静かに現れる。
銀色の制服に白い帽子。肩には、まだ届けられていない手紙が詰まった皮の鞄。
彼の足元には、雪解けの水が小さな流れを作り、月の光を反射していた。
その夜、月見が手にしていたのは、一通の手紙。
封筒は少し色褪せ、角がわずかに丸まり、
文字は力強くもどこか迷いを含んでいた。
差出人:父・誠(まこと)
宛先:息子・悠人(ゆうと)
だが、その手紙は出されることなく、誠の書斎の引き出しに長く眠っていた。
月見はそれを見つけたとき、しばらく目を閉じていた。
手紙には、こんな言葉が綴られていた。
~ 悠人へ
お前が家を出てから、何度も手紙を書こうと思った。
でも、何を書けばいいのかわからなかった。
俺は、父親として失格だったかもしれない。
それでも、最後に一つだけ願いがある。
俺のことは、もういい。
ただ、母さんに会いに行ってやってくれ。
あいつも、ずっとお前を待っていると思う。
何があったかは俺は知らない。
でも、家族ってのは、最後に残るものだと思うんだ。
もしこの手紙を読む日が来たら、お前も母さんを許してやってくれ。
それだけで、俺も救われる。
お前が幸せでいてくれるなら、それだけで十分だ。
俺は、父親として何もしてやれなかったかもしれないけど、
それでも、お前を誇りに思っている。
誠より ~
月見は手紙を鞄にしまい、しばらく考えていた。
この手紙は、誰に届けるべきなのか。
宛名は息子・悠人。
だが、彼は父の死にすら顔を見せなかった。
そして、父が知らなかった真実――母の裏切り。
それは、悠人の心に深い傷を残していた。
月見は夜の町を歩きながら、風に問いかける。
「この手紙は、届くべきものだろうか?」
風は静かに吹き、月は雲の隙間から顔を覗かせていた。
その光は、まるで答えのように、月見の足元を照らしていた。
数日後。
悠人は父の遺品整理のため、久しぶりに実家を訪れていた。
玄関の匂い、廊下の軋む音、すべてが懐かしくも遠い記憶だった。
書斎の引き出しを開けたとき、一通の封筒が目に留まる。
それは、月見がそっと置いていった手紙だった。
差出人と宛名を見て、悠人は一瞬手を止める。
そして、開封済の封筒から手紙を取り出した。
読み進めるうちに、胸の奥に沈んでいた感情が揺れ始める。
父は、何も知らなかったと思っていた。
けれど…本当にそうだったのだろうか?
それでも父は、俺が母に会いに行く事を願っていた。
その言葉が、なぜか重く、そして優しく胸に響いた。
父の不器用な愛情が、ようやく届いた気がした。
それは、怒りでも悲しみでもなく、ただ静かな理解だった。
その夜、悠人は母の住む町へ向かった。
何年ぶりかの再会。
言葉は少なかったが、母の目には涙が浮かんでいた。
彼女は、何も言わずに悠人の顔を見つめていた。
そして、悠人は静かに言った。
「父さんの手紙、俺も読んだよ」
母は驚き、そしてそっと頷いた。
その頷きには、長い年月の後悔と感謝が込められていた。
その夜、月は優しく輝いていた。
月見は遠くからその光景を見守っていた。
彼の仕事はまた一つ、終わった。
だが、鞄にはまだ、誰かの心に届かなかった言葉が残っている。
今夜もまた、月の光に乗せて、彼は静かに歩き出す。
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