月の郵便屋さん

槙 秀人

第1話 月の郵便屋さん

 町の外れ。田んぼと林に囲まれた小さな丘の上に、誰も知らない古びた郵便局がある。

 地図にも載っていないその建物は、昼間はただの廃屋のように見える。

 しかし、夜になると不思議な光が差し込み、静かに息を吹き返す。


 そこに現れるのが、月見(つきみ)という名の郵便屋さん。

 彼は人間ではない。


 月の光から生まれた存在で、年齢も性別もない。

 白い帽子と銀色の制服を身にまとい、届かなかった手紙がぎっしりと詰まった皮の鞄を肩から下げている。


 月見が届けるのは、『届かなかった手紙』だけ。

 誰かが書いたけれど出せなかった手紙。出したけれど読まれなかった手紙、

 そして、亡くなった人が残した最後の言葉。

 彼の仕事は、そうした手紙を静かに確かに、誰かの心に届けることだった。


 ある晩、月見は一通の手紙を手にしていた。

 封筒は少し黄ばんでいて、文字は子どものような丸い字で書かれていた。


 差出人:美咲(みさき)

 宛先:お母さん


 月見はその名前を見て、少しだけ目を細めた。

 美咲は10年前に亡くなった少女だった。

 交通事故で突然命を落とし、母親はその日から笑わなくなった。


 手紙にはこう書かれていた。



 ママへ。


 ごめんね、あの日泣かせちゃって。

 私は今、星の学校に通ってるよ。お友だちもできたし、先生も優しいよ。


 ママの笑顔が恋しいです。

 ママが泣いてると、星が曇っちゃうんだよ。

 だから、少しだけでも笑ってくれたら嬉しいな。


 だいすき。



「…」

 月見は手紙をそっと鞄にしまい、目的の町へと歩き出す。

 夜の町は静かで、街灯の光がぽつぽつと道を照らしている。


 彼は誰にも見られずに歩く。


 人間の目には映らない存在だから、犬も猫も気づかない。

 ただ、風だけが彼の足音を知っていた。


 美咲の母親の家は、町の端にある小さな一軒家だった。

 庭には手入れの行き届いた花壇があり、そこには美咲が好きだった黄色いチューリップが咲いていた。


 月見はポストの前で立ち止まり、手紙をそっと差し込んだ。

 その瞬間、空の雲がすっと消え、月が一段と明るく輝いた。



 翌朝、美咲の母親はいつものように新聞を取りに玄関を開けた。

 ポストに手を伸ばすと、見慣れない封筒が一通入っていた。

 差出人の名前を見て、彼女は一瞬息を呑んだ。


「美咲…?」


 震える手で封を切り、手紙を読み始める。

 文字は確かに美咲のものだった。

 あの日、言えなかった言葉。

 あの日、聞きたかった声。


 涙が頬を伝い、彼女は手紙を胸に抱きしめた。


 その夜、彼女は久しぶりに空を見上げた。

 月はまるで微笑んでいるように、優しく輝いていた。


 それからというもの、彼女は毎晩、庭に出て空を見上げるようになった。

 時には美咲に話しかけ、時にはただ静かに星を眺める。

 笑顔も少しずつ戻ってきた。


 月見はその様子を、遠くから見守っていた。

 彼の仕事は終わった。

 だが、手紙はまだ鞄にたくさん残っている。


 今夜もまた、誰かの心に届かなかった言葉を、月の光に乗せて届けるために。


 彼は静かに歩き出す。


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