木星バイパス・インヴェスティ・スターゲイト
中村雨
木星バイパス・インヴェスティ・スターゲイト
木星バイパス
第1話
木星大赤班。
二十一世紀の中頃には消滅すると予想されていた木星の赤い瞳は、二十二世紀の今も、こちらを覗き込んでいる。
ヘリウムと水素の大気層を抜け、金属水素の対流するマントル層の奥底に、大赤班を形作っているものが存在するはずだが、いまだ実態は掴めていない。
金属水素の分厚い領域が、あらゆる観測を拒み、深奥を知ることは叶わない。
主要な構成要素がヘリウムと水素であることは分かっても、その瞳の奥底は、亜光速航法を開発し、木星へ到達した技術を以てしても知り得ぬ深淵。
表層を平行に対流する大気。赤道緯度からやや南に外れた位置に、流れを巻き込むように存在する渦が大赤班だ。
木星との距離は、地球と月のそれを倍近くは離れているが、漆黒をくり抜いたようなマーブル模様の巨大ガス惑星は、月から見た地球よりも遥かに大きい。
木星静止軌道を回る、全長五キロメートルのプラットフォーム・ゲートウェイは、上空というには、遥か遠い周回半径六十六万キロメートル。
そのプラットフォームの居住用ヴィレ・ユニットの一つにあるこの部屋は、球状の天窓がガラス張りで、すこし見上げれば、木星を眺められるようになっている。
うっすらと微細粒子で形作られる木星の輪が、青と赤のヴェールのように掛かっていた。
「いつ来ても、お前のこの部屋は落ち着かないな。木星に覗き込まれているみたいだ」
「そんなことを言うなよレイフ。天空神ジュピターの寵愛を受けた特等席だぞ?」
レイフと呼ばれた人物を迎えたのは、人類の最も遠い地、木星プラットフォーム・ゲートウェイで見るには随分と古風な白衣を纏った学者だった。
「ギリシャ神話では主神ゼウスに相当するのだったかな。渦を巻く大赤班に、木星独特の気体とも流体ともつかない、捻じれた薔薇のような気流文様。どれも、人の不安を掻き立てるものだと思うよ、クリス」
「そうかい? ワタシは好きだぞ。あの木星大気のうねり狂う様を見ろ。あの中では、赤道直下でも風速は時速六百キロメートルだ。極付近であればその二倍以上に達する。内部で起こる雷は、この木星プラットフォームを粉々に解体するほどの威力。まさにゼウスの雷霆という様だな。凄まじいものだ」
クリスと呼ばれた人物は、白衣をマントの様に翻し、木星へと手を伸ばして見せた。
「カーライン博士はどうして、あの恐ろしい瞳に飛び込もうなんて考えたんだろうな」
レイフと呼ばれた方は、気怠そうに椅子へ腰かけながら、プラットフォーム上空に見える巨大な木星の瞳を見つめる。
「目の覚めるような瞳の美しさに魅了されたんだろうさ」
「大赤班や木星文様を見過ぎて失調する人も多いというのに。そういう酔狂なことを言うやつは、おじい様たちや、お前だけだと思いたいけどね」
「木星の三博士と並べられるなら光栄なことだな」
木星プラットフォーム・ゲートウェイで生まれたレイフからしても、あまりにも巨大な木星の姿は不安を掻き立てるものだ。
ここに勤務する医師は、長くとも数年に一度、必ず地球での長期療養を勧める。
今や全長五キロメートルに達しようというほどに増築された木星プラットフォーム・ゲートウェイであっても、大地の代わりというには程遠く、宇宙という極めて身近に死の影を見せる空間が、人の精神を蝕むことは周知の事実だった。
それを地球の夜の波間に例える者もいた。ありもしない茫洋とした『波』の音を聞き、知らぬ間に引き寄せられて、身を投げてしまいそうだと。
クリスはそんな精神さえ蝕む辺境に長期滞在して、かれこれ六年を超えている。
医局の検査では心身ともに極めて健康。宇宙適性検査で外れ値を意味するEX評価を受けている。その為、逆説的に、先天的に何らかの精神失調を抱えているのではないか、という噂が立つほどだった。
クリス・エンシスハイム。
四十年ほど昔、木星プラットフォーム・ゲートウェイ建造を主導した木星の三博士と呼ばれる一人、ユージン・エンシスハイム博士の孫にあたる。
そして、この部屋に話を聞きに来たレイフ・ファーミントン自身も、三博士の一人、デイヴィッド・ファーミントン博士の孫だ。
家系財閥などが二十二世紀に存在していること自体、地球にはそれが信じられないという者も居るが、人類科学技術の最先端だとしても木星は辺境中の辺境。
また宇宙開発事業としては未だ月も火星も、未探査領域を数多く残しているため、木星に閉鎖的な経済構造が生まれるのも致し方のないことだった。
現在の亜光速宇宙船――サブライト・オービターでさえ、片道四十日以上かかる木星プラットフォーム計画は『木星の三博士』の功績が無ければ、早々に縮小か放棄されていたと言われている。
この二人の家は人類初の地球外生命体・ケイ素古細菌界DISE古細菌門発見の功績によって、深宇宙探査を担う国際特殊法人・月探査財団の中核財閥になっていた。
しかし性質的には、資産家というよりは酔狂な芸術家の家系という方が近いと、レイフもクリスも思っていた。
資産家、投資、金融、それに事業者であるのなら、もうすこし正気で儲かるものに投資するだろう、というのは木星に限らず、月プラットフォーム・ゲートウェイの財団関係者ですら口にする笑い話だ。
「だがしかしだレイフ……地球外生命体との邂逅から四十年。それだけの時間が経過した現在にあっても、人類が未だ再び『木星バイパス』を超えられないのは、今日の人類文明の礎となったカーライン博士への冒涜にも等しい」
「相変わらず、大げさだよ」
地球外生命体・ケイ素古細菌界DISE古細菌門の第一発見者として歴史に名を遺す、偉大なる木星の三博士の一人、カーライン・カハルルィーク博士。
亜光速探査船ニュー・アトランティス号に乗って木星大赤班、その中に存在するとされる『木星バイパス』に飛び込み、そして帰らぬ人となった。
その際に、無人で帰還した『カハルルィーク博士の帰還船』と後世に呼ばれる船に積まれていたのが、初の発見となる地球外生命体・ケイ素古細菌DISEのインゴット・サンプルだった。
木星プラットフォーム・ゲートウェイや、その経営母体である月探査財団の今日の栄華は、その発見と活用に寄るところが大きい。
クリスのカハルルィーク博士への想いは、レイフは昔から散々と聞かされてきた。それは最早、信仰にも等しいものだった。
カハルルィーク博士が往き、そして帰還した木星大赤班の深奥。
木星プラットフォーム計画の際、大赤班の調査により、通常あり得ない観測不能空間が広がっていることが分かり、量子的構造の超空間ゲートであるという仮説が立てられた。
亜光速で突入した無人探査機との量子通信が途絶えることも確認されていたが、その後カハルルィーク博士がニュー・アトランティス号に乗って、単独での有人探査を敢行し、消息を絶つ。
だがその直後、大赤班からカハルルィーク博士の乗ったニュー・アトランティス号が現れたことで、超空間ゲート『木星バイパス』と推定される領域が確かに大赤班内部に存在しているとの確証が得られた。
すでに通過した実証があるにも関わらず、仮定で語られるのは、木星バイパスの向こう側とは、最新の量子力学によって作られた量子通信でさえ通じず、また、カハルルィーク博士自身が帰還しなかったことで、帰還船に残ったデータ以外に、その実在を証明できないからだ。
一瞬にして帰還したにも関わらずカハルルィークの帰還船には、別の木星へ出現し、そして再び大赤班に突入したことを記すブラックボックスが残されていた。
それゆえに、ニュー・アトランティス号は光速を超えたとも、当初の想定通り、超空間ゲートを通ったとも言われているが、いずれも未だ、仮設の域を出ていない。
木星は今も、表面大気層でも時速六百キロメートル以上の暴風が吹き荒れている。
更に大赤班の中は、軌道上からも観測できるほど巨大な低気圧、暴風の渦。
二十一世紀に縮小傾向だった木星のこの逆旋回サイクロンは、カハルルィーク博士の突入以後、再び巨大化し、そして現在は地球の直径にして三個分ほどの大きさにまで大型化している。
どうしてそのような低気圧構造体が、木星観測史上、高エネルギーで安定した状態を維持し続けているのか。
二十一世紀時点では、これは低気圧のように近く消滅する周期に入ると考えられていたが、しかし二十二世紀に至った現在でも、その木星の瞳のようなサイクロンは存在し続けている。
この中心核にまで到達すると考えられている木星大赤班は、木星表面の大気層から先、超臨界流体に達した水素の海を抜け、マントルに相当する金属水素層の向こうが、量子的超空間ゲートとなっていると予測されていた。
この不可視領域のサイクロンの深度は、巨大ガス惑星である木星の金属水素層を貫き、中心核にまで達していると考えられるのだ。
これらを証明する事実は、木星プラットフォーム・ゲートウェイ建造開始から、四十年が経過した現在も、無人で大赤班から現れた『カハルルィーク博士の帰還船』の存在だけだった。
現在までに分かっていることは、不可視領域による量子的超空間ゲートか、あるいは、それに類する何かが、確かに存在していること。
その先はどこか、未知の星系、或いは別次元の宇宙へ繋がっているという可能性。
また、量子通信を確立出来なかったこと。
帰還した探査船のデータから、その先は木星と同様の大赤班を持つ巨大ガス惑星に繋がっており、そこでケイ素古細菌という、初の地球外生命体と接触したこと。
向こう側から、帰還が可能であること。
そして、帰還した探査船にカーライン・カハルルィーク博士は乗っておらず、無人であったこと。
「ワタシはねレイフ、あの瞳の向こう側……カーライン博士が目撃した、もう一つの木星をこの目で確かめたいんだよ」
その時は、そのように熱っぽく語るクリスに、レイフは説得を諦めたのだったが、のちに何としても引き留めていればと後悔することになった。
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