第8話 今度は逃げないで

「赤組、頑張れー!」


 校庭を埋め尽くす応援の声。体育祭は午前中の競技が一通り終わり、昼休みに入っていた。現在の総合順位は、赤組が僅差で2位。1位の青組を逆転するには、午後のリレーでの優勝が不可欠だった。


「拓海、お前絶対1位取れよ!」


 クラスメイトたちが拓海を取り囲み、励ましの声をかけていた。彼は赤組男子リレーの最終走者。勝敗を決める重要な役割だ。


「任せろって」


 拓海は自信満々に答え、クラスメイトたちを安心させていた。

 一方、奏太は影のように静かにテントの隅で水分補給をしていた。彼は補欠要員であり、本番で走る予定はなかった。


「秋津くん」


 声をかけられて振り向くと、結月が立っていた。女子リレー用のゼッケンをつけ、髪をポニーテールにまとめている。普段と少し違う姿に、奏太は思わず見とれてしまった。


「あの……」結月は少し戸惑ったように言った。

「私、最初の走者なんだけど、アドバイスあったら欲しいんだ」

「え? 俺から?」奏太は驚いた。

「俺なんかより、拓海とか聞いた方がいいんじゃ……」

「でも、前世であなたはリレーのアンカーだったじゃない」


 結月の言葉に、奏太は息を呑んだ。


「覚えてるんだな……」

「うん」結月は微笑んだ。

「体育祭で見事な逆転勝利をした時のこと。あなたはすごく誇らしげだった」


 その記憶が奏太の中でもよみがえる。中学2年生の時、病気が悪化する前の最後の体育祭。クラスのエースとして最終走者を務め、見事な追い上げで優勝した。あの日の喜びは確かに覚えている。


「スタートダッシュが大事かな」奏太は少し考えてから言った。

「最初の加速で差をつければ、後は楽になる」

「なるほど」結月は真剣に聞いていた。

「他には?」

「あとは……」奏太は言葉を選んだ。

「楽しむこと、かな」

「え?」

「俺、あの頃は純粋に走るのが楽しかった」


 彼は少し照れながら言った。


「だから力が出せたんだと思う」


 結月は目を丸くしたあと、柔らかく微笑んだ。


「ありがとう。その言葉、大切にするね」


 彼女が去った後、奏太はなぜ彼女があえて自分に聞きに来たのか考えていた。前世の記憶を共有できる相手だからこそ、意味のある会話だったのかもしれない。彼はふと、この特別な繋がりを少し大切に思う自分に気づいた。



「続いて、男子リレー予選第1組! 各クラス代表選手は集合してください!」


 校内放送が響き、リレー選手たちが集まり始めた。赤組のメンバーも整列する中、突然、拓海が顔をしかめた。


「どうした?」クラスメイトが尋ねる。

「さっきの競技で足をひねったみたいだ……」


 拓海は右足首を押さえていた。


「大丈夫だと思ったけど、痛みが引かない」


 クラス担任が駆け寄り、「無理は禁物よ」と言って保健室行きを勧めた。しかし問題は、代わりの走者が必要なことだ。


「代わりがいないと棄権になっちゃうよ……」


 誰かが不安そうに言った。


「秋津くんが走ればいい!」


 その時、結月の声が響いた。

 視線が一斉に奏太に集まる。彼は息を呑んだ。


「秋津?」拓海が疑わしげに見た。

「走れるのか?」

「う、うん……」奏太は口ごもった。

「でも、さすがに最終走者は……」

「今度は逃げないで」


 クラスメイトたちの間で、結月の小さな声が奏太だけに届いた。彼女の瞳には、前世の記憶と、今を生きる決意が映っていた。


「分かった……やるよ」


 奏太の返事に、クラスは沸いた。拓海は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに「頼むぞ」と言って背中を叩いた。

 急きょ最終走者を務めることになった奏太は、緊張で手足が震えていた。

 しかし、結月が「あなたなら大丈夫」と励ましてくれたことで、少し気持ちが楽になった。

 予選は何とか3位でフィニッシュ。準決勝では2位に上がり、決勝進出を果たした。


 そして、ついに決勝レースの時が来た。


「赤組、頑張れー!」


 クラスメイトたちの声援が響く中、奏太はスタート位置につく最終走者たちを見つめていた。彼の順番は4番目、最後だ。

 第1走者が走り出し、バトンが次々と渡されていく。赤組の第3走者はトップとはかなりの差がついていた。


「秋津、頼む!」


 第3走者が近づいてきた。奏太は深呼吸をし、右手を後ろに伸ばす。バトンが手に渡った瞬間、彼は全力で走り出した。

 風を切る感覚。踏み出す足に込める力。前世では病に奪われたこの感覚を、今、全身で味わっていた。


「追いついけるぞ!」

「秋津、頑張れー!」


 クラスメイトたちの声が遠くに聞こえる。1人、また1人と追い抜き、あと1人でトップだ。しかし距離はわずかに離れており、このままではわずかに届かない。

 その時、奏太の視界の端に結月の姿が見えた。彼女は必死に声援を送っている。その姿に、奏太は前世で感じたことのない力が湧いてくるのを感じた。


「奏太くん、頑張ってー!」


 その声にラストスパートをかける奏太。僅差でテープを切ってゴールを駆け抜け、勝利に歓喜するクラスメイトたちの輪の中で揉みくちゃにされた。

 奏太は呼吸を整えながら結月を探した。

 彼女は少し離れた場所から、じっと彼を見つめていた。前世の彼はこんな風に輝いていなかったと感じているかのような、複雑な表情だった。

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