第38話

 夜十時。

 颯真は自宅のリビングでソファーに身を沈めていた。

 磨き込まれたローテーブルの上に置かれているのは――

 一見すると、傷だらけの古い携帯電話。


 だが、それは“ポット”だった。

 異世界での旅を想定して自作した、彼だけのAI端末。

 漆黒の外装に細かい傷が走り、画面にはところどころヒビがある。

 見た目は骨董品だが、内部は最先端をはるかに超えた演算能力を秘めている。


 颯真が軽くタッチすると、淡い青白い光が室内を照らした。


ポット「先生、今日はずいぶんお疲れのようですね」


 機械的な声色に、どこか柔らかな響き。

 この端末は、誰に何と言われようと颯真を「先生」と呼び続ける。

 工場の職人たちが皆そう呼ぶのを聞き覚え、学習したらしい。


颯真「ポット。何度も言ったろう、“先生”はやめていい」

ポット「いいえ、先生。皆さんがそう呼ぶので、私も続けるのが自然です」


 小さく首を振りながら、颯真は笑った。

 AIというより、まるで言葉を覚えたての子どもだ。


颯真「今日のデータ解析、進みは?」

ポット「納豆菌の分解シミュレーション、一次解析完了。

明日の実験条件なら、重金属吸着率は平均12.3%向上します」


 さらりと告げられる数値に、颯真は軽く目を細める。

 工場の古びたプレハブ実験室と、この小さな端末。

 誰も想像しない組み合わせが、世界の常識を少しずつ変えつつあった。


 ふと、端末が震えた。

 着信表示──田島社長。


 颯真が応答すると、受話口からいつもの無骨な声が響く。


田島「先生、もう寝てましたか」

颯真「まだ。どうかしました?」

田島田島「先生、今日は一日で問い合わせが五件。どこも“研究所だから安心だ”って口を揃えてる。滅菌器とかストレッチャーとか、ステンレスの検査台……

こういうの一式まとめて処理してくれって話ばかりだ。」


 颯真は片眉をわずかに上げる。

 昼間のクラウドファンディング説明会が頭をよぎった。

 研究所としての論文発表と“納豆菌計画”――

 それが思わぬ副次効果を生んだらしい。


田島「驚いたのは値段だ。

医療機器はスクラップでも単価が桁違い。

正直、これだけで経営はしばらく安泰だ」

颯真「想定外ですね。研究所という名が効いたか」

田島「ブランド力ってやつか。ただの町工場じゃ、こうはいかなかった」


 受話口の向こうで、社長が低く笑った。

 颯真も小さく息をつく。


颯真「こちらは研究を進めます。廃棄物処理は今まで通り、無理のない範囲で」

田島「ああ。こっちは任せてください、先生」


 通話が切れ、部屋に静けさが戻る。

 ポットの青い光が再び穏やかに灯った。


ポット「先生、ブランド力とは、人が抱く“安心”と“期待”の総和です。

皆さんは、先生の知識に安心し、未来に期待しているのでしょう」


 颯真は思わず笑った。

 AIらしからぬ温かい言葉に、心の奥がわずかに揺れる。


颯真「お前、いつの間にそんなことまで学んだ」

ポット「先生のお話と、皆さんの会話から。

それが私の“成長”です」


 窓の外には、運河の夜景が静かに広がる。

 スクラップ工場、研究所、そして納豆菌。

 ひとつひとつが無関係に見えて、確かに繋がっていく。

 颯真は青い光を見つめながら、ゆったりと息を吐いた。

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