第37話
夕方六時。
油と鉄の匂いが漂う休憩スペースに、いつもの顔ぶれが集まっていた。
長机を囲むのは田島社長と職人五人。皆、40〜50代。
作業着の袖には今日一日の汗と粉塵が染みついている。
コーヒーサーバーから立ちのぼる香りだけが、この空間をわずかに柔らかくしていた。
「……で、先生。わざわざ集めたってことは何かあるんだろ」
田島社長が無骨な声で切り出した。
白髪まじりの頭をタオルで拭きながら、鋭い目が颯真を射抜く。
颯真は、いつもの黒いスーツに無駄のない仕草で立ち上がった。
「研究所として、初めての論文を発表しました」
――論文。
一瞬、休憩所の空気がぴたりと止まった。
「……ロンブン?」
「いま何て?」
「先生、ここスクラップ屋ですよ」
職人たちが顔を見合わせ、低い声が重なる。
笑いとも呆れともつかないざわめきが広がった。
「論文って……大学の先生が書くやつだろ」
「オレら、鉄くず切ったり溶かしたりしてるだけだぜ」
「なんで論文が出てくるんだよ」
コーヒーカップがコトリと揺れた。
「ええ、ここはスクラップ工場です」
颯真は淡々と答え、しかし口元にわずかな笑みを浮かべる。
「でも“神谷研究所”でもあります。今日からは、その名にふさわしい動きを始めます」
職人Cが頭をかきむしる。
「研究所って看板、冗談じゃなかったのかよ……」
「冗談なら、わざわざ登記しません」
颯真の声は静かだが、妙な説得力を帯びていた。
「で、その論文とやら、何を書いたんです?」
田島社長が腕を組み、低くうなる。
「都市型スクラップ再資源化における環境微生物の応用についてです。
微生物を利用して重金属やプラスチックを分解し、資源化する理論研究。
掲載誌はオープンアクセスなので、誰でも読めますよ」
職人Bがぽかんと口を開けた。
「重金属を……微生物で?」
「先生、それ理科室の話じゃないっすか」
「スクラップから学会に行った人、初めて見たわ」
笑いがどっと起きる。
颯真はその波を受け止めるように、ポットを指先で軽く叩いた。
「そして、次の計画です。
全国から“納豆菌”を集めるクラウドファンディングを始めます」
再び沈黙。
今度は長かった。
「……納豆?」
「え、食うやつ?」
「クラウド……何?」
田島社長が眉をひそめ、唇の端を引きつらせる。
「先生、オレら納豆屋になるんじゃないよな」
「違います。納豆菌は非常に強い分解力を持っています。
重金属を吸着し、土壌を改良する力がある。
その地域ごとの菌の違いを調べれば、環境修復の鍵になります。
目標金額は一千万。
全国から納豆を少量送ってもらい、菌株を解析し、
最終的に“全国納豆菌ロードマップ”という冊子にまとめ、出資者全員に贈ります。
高額支援者には特別版データと研究所見学も予定しています」
職人たちの表情が一斉に崩れた。
「全国から納豆……?」
「この工場、納豆まみれになるじゃねぇか」
「冷蔵庫増やさなきゃな」
「宅配便の兄ちゃんが毎日“また納豆です”って言うんだろ」
「工場の鉄の匂いと納豆の匂い……想像しただけで腹減るな」
笑いと戸惑いが入り混じり、休憩所が小さな渦に包まれる。
颯真はその真ん中で、微笑を絶やさず淡々と続けた。
「この土地の土壌改良テストも同時に行います。
スクラップ工場の敷地には重金属が沈着している可能性がある。
納豆菌で分解できれば、ここ自体が実証実験場になる。
研究結果は再び論文として公開し、環境改善事業にもつなげます」
「先生、冗談抜きで学者じゃないっすか」
「いやもう、学者っていうか……魔法使いか?」
「スクラップ屋が世界を救うってか」
田島社長が鼻で笑い、ゆっくり腕を組み直した。
「……なるほど。俺たちはいつもどおり鉄を切ってりゃいいんだな」
「はい。皆さんは変わらずスクラップの仕事を。
問い合わせが来れば、対応をお願いすることになるかもしれませんが、
基本的には何も変わりません。
ただ、工場に納豆がたくさん届くかもしれません」
職人Aが肩をすくめる。
「納豆食べ放題か。悪くねえな」
「ビールのつまみには最高だ」
「朝飯が豪華になるな」
笑い声が再び弾けた。
颯真は淡い光を放つポットを見つめながら、
その喧噪を静かに受け止めていた。
――スクラップ工場。
しかし今、ここは確かに研究所として動き出している。
誰もがそのことを、笑いながらも感じ始めていた。
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