第35話
深夜。
神谷はひとり敷地へ出た。
空は雲に覆われ、街灯の少ない工場は深い蒼に沈んでいる。
足元の砂利がわずかに鳴った。
空間魔法と鑑定を同時に起動すると、視界に淡い光が走る。
周辺の土壌データが静かに浮かび上がった。
——想像していたよりも、数値は低い。
長年の操業にもかかわらず、鉛や亜鉛の濃度は環境基準をわずかに下回っている。
工場の管理がいかに丁寧だったかを物語っていた。
ただ一か所だけ、旧ドラム缶置き場の周辺にわずかな赤い揺らぎがあった。
神谷はしゃがみ込み、指先をかざす。
空間がゆるやかに収縮し、汚染された土だけが音もなく切り取られ、
別の空間へと吸い込まれていった。
作業を終えると、そのまま研究棟へ戻る。
無人の廊下を抜け、静まり返ったラボに入る。
壁面に埋め込んだ巨大パネルが静かに光を放っていた。
机の上には特製の演算機とモニター。
白灰色のコンクリートと、圧縮されたフローリングの床に、それらが冷ややかな存在感を示している。
しかし、この部屋にはまだ足りなかった。
空間魔法で硬さと柔らかさを調和させた繊維を何層にも重ね、張りを持たせながらも身体を沈み込ませる感触を作り出した。
深いグレーの布地で覆われたソファーが、部屋の片隅に形を成す。
試しに腰を下ろすと、しっかりと身体を受け止めながらも包み込むような弾力が広がった。
これなら長時間横になっても疲れは残らない。
ベッドの代わりに使っても十分だった。
隣には低めのテーブルを配置する。
木材を圧縮し、重厚な天板に仕上げる。
その表面は無駄な装飾を持たず、シンプルで、何を置いても映える静かな存在感を放っていた。
机とモニター、巨大パネル。
ソファーとテーブル。
これで部屋はようやく、人が働き、休むことを前提とした「場」になった。
颯真は再び中央に立ち、ゆっくりと見回す。
コンクリートの壁と天井。
圧縮フローリングの床。
壁際の作業机と収納。
巨大パネルに光が走り、数列の数式が映し出されている。
ソファーとテーブルが柔らかい余白を添えていた。
外から見れば、ただの煤けた小屋。
だが内側には、未来を生み出すための研究所と、夜を静かに過ごせる居場所が同居している。
「……これでいい」
柔らかな繊維張りのソファに、颯真は深く腰を沈める。
遠くに鉄の匂いだけを残して瞼を閉じ、意識を空間の奥へと滑らせる。
無音の暗がりが広がり、淡い光の棚がひとつ、またひとつと浮かび上がる。
空間魔法の中。
そこでは時間も温度も意味を持たない。
まずは工場の従業員たちの装備から。
夏用と冬用、それぞれ6着ずつ。
厚みのある高機能繊維は、火花や金属粉を弾きながらも驚くほど軽い。
色は深いチャコールグレー。光を吸うようでいて、薄明かりでも輪郭が浮かぶ。
縫い目には反射糸が縫い込まれ、暗所でも動きが分かるよう工夫されている。
高耐久の手袋。
掌側には耐切創性のある複合繊維、指先は細かい作業ができるよう薄く、
内側には吸湿速乾素材を重ね、長時間でも蒸れない。
触れた感触はしなやかで、手を入れると吸い付くように馴染む。
足元を支えるのは作業ブーツ。
外装は軽量の合成レザーに防水加工、
つま先には強化樹脂のセーフティキャップを内蔵。
ソールは油分と鉄粉に強く、グリップ力を保ったまま長時間の立ち仕事を助ける。
空間魔法が静かに光り、
一着ごとに社員の名前が淡く刻まれていく。
「これで、全員が安心して動ける」
それぞれのネームプレートに「神谷研究所」の文字が淡く光った。
次に、自分の装備。
黒を基調としたスーツは、防塵性を完全に近づけ、
高温も極寒も体温を揺らさない複合繊維で仕立てる。
耐熱・耐冷に加え、理論上は魔法攻撃さえ散らす。
繊維が重なり合い、肌に沿うように形を定める。
その上に羽織るフード付きマントは、
防御力を最優先にしながらも見た目に重さを残さない。
風を吸い、光を飲み込み、裾だけが静かに揺れた。
革手袋、軽量ながら高強度の靴も同じ調子で組み上がっていく。
さらに生活に必要な細かな品々を思い描く。
極薄のインナーは、最新のナノ素材を織り込み、
着心地を損なわずに微細な筋肉信号を補助する。
着用すると体の安定が増し、体力は通常の七割増しで保たれる。
吸湿速乾の靴下がそれに連動し、足首から膝までを軽く支える。
歩きやすいウォーキングシューズ型の靴は、
街道でも山道でも足を疲れさせない軽さでありながら、
外殻は刃物と衝撃を弾く強度を持つ。
真っ白なシーツが重なり、
大判タオルやフェイスタオルが静かに積み上がった。
どれも触れればすぐに温もりを帯び、洗いたての清潔さを保ったまま。
空間は再び静まり返る。
光の棚はゆるやかに明滅を繰り返し、
作業服も生活用品も、ひとつ残らず整列した。
颯真は目を開け、ソファの繊維の手触りを確かめる。
指先にわずかな温もりが残るだけだった。
工場の明日が始まる前に、すべては揃った。
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