第17話
二日後、颯真は再び喫茶店の扉を押した。
午後の日差しがやわらかく差し込み、コーヒーの香りが漂う。
カウンターの向こうに立つ彼女が気づき、少し驚いたように笑みを浮かべた。
「こんにちは。また来てくださったんですね」
「ええ。今日はちょっとお返しを」
颯真は紙袋を差し出した。中には選んだブルーミング中西のハンカチが丁寧に包まれている。
「先日のハンカチ、こちらを代わりに受け取っていただけますか?」
彼女は袋を受け取り、目を丸くした。
「わざわざ……ありがとうございます。気を遣わせてしまいましたね」
「いいえ。お礼をしたかったんです」
ふと彼女の足元に視線を落とす。少しだけ歩き方にぎこちなさが残っているように見える。
「その後、足の調子はどうですか?」
彼女は恥ずかしそうに笑った。
「ちゃんと病院に行きましたよ。やっぱり軽い捻挫で、湿布をして安静にって言われました」
「そうでしたか。それなら良かった」
「どうかしました?」
「いえ、安心しました」
颯真は軽く首を振り、コーヒーを注文した。
カップを手にしたタイミングで、彼女がふと尋ねる。
「そういえば、この前“医者の卵”っておっしゃってましたよね。どうしてお医者さんを?」
颯真は一瞬言葉を探し、それから自嘲気味に笑った。
「この年で今さら医者なんて、変ですよね」
「いえ、そんなことないです。立派だと思います」
「……ありがとうございます。ただ、正直に言うと体力的に限界で。以前の仕事を続けるのは難しくなったんです。退職に追い込まれて……それで、一から考え直しました」
言葉を区切り、少し目を伏せる。
「思い浮かんだのは、両親のことです。早くに病気で亡くなったので……その経験が、ずっと心の奥に残っていたんでしょうね」
彼女は静かに頷き、カップを両手で包んだ。
「……そうだったんですか」
「それに……あなたに助けていただいた時も、ちょうどそういうタイミングでした。自分の弱さを思い知って、変わらなければと思ったんです」
彼女の目が少し大きくなり、やがて柔らかい笑みが浮かんだ。
「なんだか……すごく真剣な理由なんですね」
「真面目すぎて、柔軟さがないとも言われます」
颯真は苦笑する。
「でも、そういう人だからこそ、医者になろうと思ったんでしょうね」
彼女はテーブルに両手を重ね、じっと見つめてきた。
「人のために生きようって思えるのは、簡単なことじゃないですから」
彼女は何も知らない。
自分の命が限られていることも、彼がそれを知ってしまっていることも。
——人のために生きる。
彼女の無邪気な評価が、鋭く心を刺した。
だがその痛みを悟られまいと、彼はわずかに笑みを作った。
「……そうでしょうか。世の中には、優しい人に心を打たれて、“じゃあ医者でも目指してみるか”なんて軽い気持ちで進路を決める人もいるかもしれませんよ」
「えっ?」
彼女は一瞬きょとんとして、それから思わず吹き出した。
「そんな人、いるんですか?」
彼女は首をかしげて笑った。
颯真は一瞬だけ考えるふりをして、静かに言葉を返した。
「……もし私が将来、面接官の教授の立場で評価するとして。実際、その答えは悪くない動機だと思いますよ」
彼女は思わず吹き出した。
「え、それって……本気で言ってます?」
「ええ。動機なんて、きれいごとを並べてもすぐに見抜かれます。むしろ“誰かに心を動かされた”というほうが、ずっと人間的で、説得力がある」
「……なるほど」
彼女は頬杖をついて、じっと彼を見た。
颯真は苦笑し、黙ってカップに口をつけた。
その沈黙の中にも、不思議と温かな余韻が残っていた。
◇
勘定を済ませ、店を出ようとしたとき、颯真はカウンターの奥にいたマスターへ声をかけた。
「実は……前回も気になっていたんですが、ここのコーヒー、後で思い返すととても美味しくて。最近、家でも淹れるようになったので、豆を分けていただけませんか?」
マスターは驚いたように目を細め、やがて笑った。
「おや、あんたもコーヒー中毒の仲間入りか。いいさ、持っていきな。家でも楽しんでくれ」
彼女も横で小さく笑い、颯真は軽く会釈して店を後にした。
午後の光の中、手にした豆の袋がほのかに香りを放ち、歩調に合わせて揺れていた。
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