第12話

運河に面したデッキテラスは、木目の落ち着いた色に陽がやわらかく戻っていた。

 質の良い椅子に腰を預け、丁寧に落としたコーヒーをひと口。香りが肺の奥まで降りて、心拍が静かに整う。


 頭の中で、線がひとつに収束する。

 ——今夜で、仕上げる。


 カップを置き、ガレージへ降りる。シャッターを上げると、白いボディが光を受けてゆっくりと目を覚ました。コスモスポーツ。

 見た目は当時のまま。薄いライン、低いノーズ、細く端正なメッキ。だが、細部はすべて再構築されている。


 ドアを開けると、まず空気が違う。

 床下とバルクヘッドに隠した多層の制振材が“響き”だけを残して雑音を消し、ピラーとルーフの内部には薄い断熱層が走っている。ガラスは当時の面影のまま、見えない層で遮音と断熱を持たせた。

 空調は小型のインバーター式コンプレッサを奥に忍ばせ、風量も温度も静かに追随する。真夏でも、真冬でも、呼吸が楽だ。


 肝心の心臓は、ロータリー。

 オリジナルの姿を保ちながら、内部は徹底して詰め直した。

 サイドハウジングの平面度は魔法で“理想面”へ近づけ、微細な歪みを押し消す。ロータのバランスは回転体としての芯を取り戻し、シャフトの共振点は狙って外した。

 アペックス/サイド/コーナー各シールは材質と表面処理を最適化し、シール溝のクリアランスを温度域ごとに追い込む。ミクロン単位の気密が、燃焼のロスを減らし、吹き抜けを抑える。

 点火は当時の雰囲気を壊さない外観のまま、内側はマルチポイントの電子制御。負荷と回転に応じて点火時期を3次元で緻密に引き、失火の境目を避けながらトルクの谷を埋める。

 燃料は見た目こそキャブレターだが、内部は極小インジェクタで微粒化。始動時と巡航時で噴霧の粒径を変え、壁面への付着を減らす。

 燃焼室とポートの表面は熱の流れを邪魔しない粗さへ整え、必要なところだけに薄い熱障壁を乗せた。結果、熱は仕事へ回り、無駄な排熱は減る。

 その積み重ねが、ロータリーの泣きどころとされた燃費を静かに押し上げる。数字で言えば驚かれるだろうが、口にする必要はない。アクセルをわずかに踏んだときの“軽さ”が答えだ。


 足回りも、外からは分からない。

 ブッシュは素材を新しくし、ダンパは減衰を薄く積層させるようにチューニング。ボディは見えない位置に補剛を点で加えて、硬さではなく“コツ”を上げた。

 ブレーキは当時の意匠のまま、内部だけ現代的な耐フェード特性。ペダルを踏めば、初期も奥も素直に返る。

 配線は全部引き直した。コネクタは見えない場所で新規格に置き換え、発電も静かに余裕を持たせた。

 総体として、空調・防音・断熱・剛性——どれを取っても、今の車と正面から比べて引けは取らない。計算上だけではない。「触ったとき」に納得できる仕上がりだ。


 イグニッションを回す。

 電気が巡り、スタータが短く歌って、ロータが目を覚ます。三角の鼓動が、布を撫でるような柔らかさで始まり、すぐに澄んだアイドルへと落ち着く。

 ガレージの空気がわずかに震え、メーターの針が静かに立ち上がった。


 ハンドルを握る。

 細いリムは掌になじみ、軽すぎない電動アシストが、体力[1]の腕でも自然に回せる重さに留めてある。クラッチの踏力も、当時の感触を損なわずに、長く付き合える硬さまで落とした。

 シートの中身は新しい。外観を変えずに、背骨に沿って薄いクッション層を差し込み、長時間でも腰が逃げないようにしてある。


 アクセルをわずかに触れる。

 回転がするりと上がって、音がひと段明るくなる。音量ではなく質で“軽い”。

 ——できた。


 頬に息が落ちる。

 デッキへ戻り、冷めきらないコーヒーをもう一口。

 運河の向こうで風が白く揺れ、腕の上のグランドセイコーが正確に刻む。


 通学は列車でもできる。だが、この車で行けたら、歩く距離は減る。疲れずに、頭をまっすぐ講義へ運べる。

 何より、過去をそのまま引きずるのではなく、オリジナルのまま、内側だけを今に合わせて生かす——自分が選んできたやり方を、道具にも暮らしにも通すことができる。


 カップを置き、ガレージの灯りを落とす。

 白いボディが闇の中に静かに溶け、代わりに胸の内側に明かりが灯る。

 やっと、ここから走り出せる。


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