第10話
医者になると決めてから、颯真は綿密に準備を重ねた。専門書を開き、過去問を解き、面接想定問答を繰り返した。願書を提出した瞬間から、すでに心はこの試験の一点に集中していた。
そして迎えた試験当日。午前中の筆記試験を終え、答案用紙を提出したとき、胸の内には確かな手応えが残っていた。英語も生命科学も、自分の積み上げたものを十分に出せたはずだ。だが、気を緩めるわけにはいかない。これからが本番――面接試験が控えているのだから。
面接室は静かだった。
三人の教授が並び、机越しに颯真を見つめている。
経歴、志望動機、基礎知識に関するやりとりは順調に進んだ。
だが、やがて一人の教授が眼鏡を押し上げ、声を低めた。
「先ほど“助けたい人がいる”と仰いましたね」
「はい」
「その方のご病気は何ですか? 病名をお答えいただけますか」
部屋に重い間が落ちた。
颯真は真っ直ぐに教授の目を見据え、静かに言葉を置いた。
「……申し訳ありません。それはお答えできません」
「答えられない、とは?」
「私が見ているのは、医師としての正式な診断ではなく、あくまで——個人的な推察に過ぎません。
ごく初期的な症状から、最悪の場合を想定して懸念を抱いている。それだけです」
教授たちがわずかに表情を動かす。
颯真は続けた。
「私はその方と血縁もなく、赤の他人です。
そして、赤の他人が根拠の乏しい推察をもとに他人の人生に介入することは、倫理的に許されないと考えています。
いかに助けたいという気持ちがあっても、それは独りよがりでしかありません」
声は静かだが、一語一語がはっきりと響いた。
「だからこそ、私は学びたいのです。
正しい知識と技術を積み重ね、倫理を備え、人の生に関わる資格を持つ——そのために医師になりたいのです」
面接室に沈黙が広がる。
教授の一人がペンを置き、軽くうなずいた。
別の教授が腕を組み、じっと颯真を見つめる。
「……つまり、今のあなたは介入しないと決めている」
「はい。今の私には、その権利も資格もありません。
ですが、将来その立場を得たとき、もし必要とされる場面が訪れるなら——私は全力で応えたいと思います」
その言葉に、部屋の空気がわずかに和らいだ。
面接の日から、ルーティンのような日々が過ぎていった。
朝は散歩と基礎的な体力づくり。
昼は専門書と医学教科書の網羅に努め、頭の中に体系的な地図を描いていく。
夜は少しずつ、父の残したコスモスポーツのレストア。
同じサイクルの繰り返しのようでいて、一日ごとに確かに積み重なっていく。
知識は枝葉を広げ、身体はわずかずつ持久力を取り戻し、埃をかぶっていた車も輝きを取り戻しつつある。
秒針が一目盛り進むごとに、すべてが僅かずつ前へ進んでいた。
そして、その日が来た。
ポストに封筒が一通。大学の校章が印刷されている。
颯真は封を切り、文面を目で追った。
——合格。
声は出なかった。ただ息を吐き、椅子に背を預ける。
心臓の鼓動は静かだった。
だが胸の奥で、確かなものがひとつ固定されるのを感じた。
窓辺に目をやると、季節はすでに移り変わり、空気は澄んでいた。
思考はすぐに次の現実へと移る。
通学。距離。体力。——そして、車。
父のコスモスポーツ。
最初は埃をかぶった古い鉄の塊にしか見えなかった。
だが、部品を磨き、交換し、空間収納を駆使して補修を重ねるうちに、その姿は甦りつつある。
まだ完全ではない。だが、エンジンは息を吹き返し、車体の艶も戻り始めていた。
体力のない自分にとって、この車で大学まで通えたら、どれほどありがたいだろう。
ここから通うことができるかもしれない。
もしそれが難しいなら、現地で部屋を借りるのも一つの方法だ。
いずれにしても、選択肢はある。
あとは準備を積み重ねていくだけだ。
「……まだ先は長いな」
呟きは静かな決意を帯びていた。
ルーティンはこれからも続く。
だが、一歩ずつ確実に進んでいけばいいのだ。
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