第4話
玄関を開けると、まだ朝の湿った空気が流れ込んできた。
門前仲町の通りは、いつも通りのはずだった。
電線にとまった小鳥が鳴き交わし、川の方から湿った風が吹き抜ける。
遠くでは都営バスのエンジン音が低く響き、近所の誰かがホウキで路地を掃く音が規則的に耳に届いた。
見慣れた町並みのはずなのに、世界は以前と違って見えた。
建物の輪郭、石畳のひび割れ、人々の歩く仕草までもが妙に鮮明で、立体感を帯びている。
知力が跳ね上がったせいか、景色そのものが濃くなったように思えた。
だが、その中で自分は存在していなかった。
すれ違う人々は誰1人として彼に目を留めず、まるで風景の一部として通り過ぎていく。
ごく稀に視線が交わっても、相手は眉をひそめ、理由のない不快感に突き動かされたように距離を取った。
——嫌悪。
以前の自分なら、その反応に同じ感情を返していたに違いない。
だが今は違う。不思議と腹は立たなかった。
(魅力 [ 1 ]に加えこの格好じゃ、そう思われても当然だ……俺だって、かつてならそう感じただろう)
自分の服に目を落とす。
皺の寄ったシャツ、くたびれた靴。
かつて気にも留めなかっただらしなさが、今ははっきりと映る。
(清潔感ぐらいは保つべきだな。ただ、この体力でまともに着飾るのも難しいが)
苦笑がこぼれる。矛盾を受け入れるしかない現実に、かえって冷静さが増していた。
そのとき、通りすがりの若い女性と肩が触れた。
瞬間、反射的に「鑑定」が発動し、視界に半透明の板が浮かぶ。
名前。年齢。職業。
望んでもいない情報が、鮮明に流れ込んでくる。
——しまった。
慌てて意識を切り替え、画面を消す。
人の内側を覗くなど、失礼以外の何物でもない。
そもそも、知りたいとも思わなかった。
(……2度とやるべきじゃない)
歩きながら、背筋に冷たいものが走る。
魔法は確かに便利だ。
だが、人の情報が勝手に見えてしまうなら、それは恐怖に近い。
制御できなければ、日常にさえ支障をきたしかねない。
便利さと危うさは、常に隣り合っている。
人の世は、得たものの分だけ失うものがある。
そのことを、あらためて痛感せざるを得なかった。
やがてスーパーで最低限の買い物を済ませ、袋を提げて歩き出す。
牛乳と卵とパン。たったそれだけなのに、腕はすぐにだるくなり、肩に食い込む重みが骨に響いた。
家までのわずかな距離が、果てしなく長く思える。
(……やはり、この体力ではどうにもならない)
理屈の上では何でもできる。
だが肉体は、牛乳1本にさえ振り回される。
その矛盾を冷静に見つめ、結論を下す。
(最低限だが、魔法に頼って生きるしかない。使うべき時は、ためらわずに使う……それが今の俺の現実だ)
人通りの少ない路地に入り、周囲を確かめる。
誰も彼に注意を払っていない。
袋を持ち直し、リュックに移し替えるような仕草で指先を動かす。
淡い光が袋を包み込み、次の瞬間、牛乳も卵もパンもすべて空間に消えた。
重みから解放され、身体はわずかに軽くなる。
だが、脚の疲労は確かに残っていた。
それでも颯真は歩き続ける。
人目を避け、目立たず、静かに。
今の自分に許された生き方を、冷徹に受け止めながら
家に戻ると、まず冷蔵庫に買ったばかりの食品を収めた。
ほんの数分の買い物だったのに、肩と腕にはまだ重みの感覚が残っている。
椅子に腰を下ろすこともできたが、なぜか今日は家の中を歩き回りたくなった。
階段を上がって2階の部屋を覗く。
母が選んだレースのカーテンが、色褪せたまま窓辺に掛かっている。
陽の光に透けて、細かな刺繍が浮かび上がるのを見て、こんな模様だったのかと初めて気づく。
廊下を進めば、父の本棚がそのまま残っていた。
専門書や雑誌が乱雑に積まれ、埃をかぶっている。
背表紙に触れると、指先にざらつきがまとわりついた。
1階に戻って居間を歩けば、古い時計が静かに針を刻んでいた。
止まっていると思い込んでいたが、まだ動いていたことに驚く。
この家は、自分が思っていたよりずっと多くを残していた。
長い間 閉じたままだった ガレージのシャッターを持ち上げると、湿った空気の中で白い車体が現れた。
厚い埃をかぶってはいるが、丸みを帯びた独特のシルエットは隠しきれない。
「……コスモスポーツ」
父が若い頃に乗っていたマツダの名車。
長らくここで眠っていたそれは、颯真にとってただの古い鉄の塊にすぎなかった。
片付けもせず放置され、処分するのも面倒で、そのままになっている「ゴミ」だと思っていた。
だが、今の眼で見ると違った。
丸みを帯びたボディラインは優雅で、未来を夢見た時代の息吹を今も残している。
父の笑顔、助手席に座った幼い日の記憶が、不意に蘇る。
知らない間に、自分は何かに追われるように生きてきた。
成績に、出世に、周囲の評価に。
休むことも許さず、ただ前へと駆り立てられてきた。
けれど目の前の車は、何十年もここで眠っている。
走ることを忘れたわけではない。ただ、待っているのだ。
いつか再び道を駆け抜けるその日を。
胸の奥に、小さな熱が灯るのを感じた。
(……生き返らせてみたいな)
意外なほど自然に、そんな考えが浮かんできた。
今の自分ならできる。知識も調べられる。理屈も組み立てられる。
そして何より——外を歩くたびに息が切れるこの身体では、まず欲しいのは車だった。
人混みの中を消耗しながら歩くのではなく、自分の手で蘇らせた車に乗って、自由に移動できたら。
その想像は、思いがけず心を躍らせた。
颯真はもう一度、埃に覆われたボディに触れた。
ひんやりとした感触の奥に、父の息遣いと、自分のこれからの時間が重なって見える気がした。
白いボディは、まるで忘れられた存在のように沈黙していた。
かつては人々の目を引いたであろう車も、今は埃をまとい、ガレージの隅に取り残されている。
颯真は、その姿に妙な親近感を覚えた。
会社に埋もれ、誰にも必要とされず、存在を無視されてきた自分。
魅力[1]という数値に象徴されるように、世界の中で「居てもいなくても同じ」な存在。
けれど今の自分には、時間がある。
やりたいことをやればいい。
やめたくなったらやめればいいし、失敗したら失敗で構わない。
そう考えると、胸の奥に小さな解放感が広がった。
この車を生き返らせたい——そう思った。
だが、冷静に周囲を見渡す。
床は割れ、壁はひび割れ、天井からは蜘蛛の巣が垂れている。
このままでは、直した車を保つことすら難しい。
(……まずは、このガレージを整えないとな)
家の中なら人に見られる心配もない。
魔法を使う制約も、ここでは緩やかでいいだろう。
颯真は目の前のコスモスポーツに手をかざした。
同時に、工具箱や棚、オイル缶など、ガレージにあるものすべてを意識に収める。
「——収納」
淡い光が走り、次の瞬間、車も備品もすべて消えた。
がらんどうの空間に、埃だけが舞い残る。
視界の裏側に、もうひとつの「倉庫」のような空間が広がっていた。
そこには取り込んだ物たちがきちんと並んでいる。
しかも、それぞれの状態までもが情報として伝わってくる。
棚の足はぐらつき、工具箱の蝶番は錆びて硬く、オイル缶の底は抜けかけている。
そのうちいくつかに「修繕可能」と浮かんでいた。
(……補修できるのか?)
意識を向けると、棚の木目が滑らかに整い、工具箱の蝶番が軽く動くようになった。
オイル缶の底は黒く光を帯び、ひびが塞がれていく。
颯真は小さく目を見開いた。
収納するだけではなく、中で「直す」ことができる。
予想もしなかった機能だった。
白い車体を思い浮かべる。
今なら、あのコスモスポーツにも何かできるかもしれない。
胸の奥に、微かな期待が芽生えた。
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