1話 信じられなくても守る者
森は、まだ眠っていた。
梢の間に張られた薄い網のような霧が光を分解し、地面にこぼす。途切れ途切れの斑の光は、苔むした倒木を斜めに縞模様に染め、根の露出した巨木の足元では黒い影を濃くしていた。鳥は高い枝で小声で囁き合うだけで、足元では蟻の列が濡れた葉をまたいでいる。
村のはずれから続く獣道は、ここでいったん消える。代わりに、鹿の蹄の跡と、人の靴底の浅い痕跡が新しい土に残っていた。誰かが最近、ここを通ったのだ。
森を抜けた先にあったのは、焼け焦げた匂いのする小さな集落だった。
屋根は崩れ、井戸の縁には灰が積もり、柵の支柱は炭のように黒くなっていた。つい昨日か一昨日、瘴の繭が触れたのだろう。人の気配はない。あるのは、消え残った炎の名残と、ひどく冷えた風だけだった。
「……ここも、飲み込まれたんだ」
ミアがペンダントを握り、祈るように呟く。彼女の声は風に消えそうで、それでも震えを押し殺していた。
その静寂を裂くように――低いうなり声。
黒い毛皮に瘴の光沢。狼に似ているが、肩が不自然に盛り上がり、背中に針のようなものが並ぶ。目は赤く濁り、鼻孔からは白い湯気が漏れていた。
カイは反射的に剣の柄に手をかけ、鞘から半寸、刃をのぞかせる。冷たい光が霧をはね、狼の片目に刺す。その瞬間、獣が低く唸り、横に跳んだ。早い。カイは身をひねって躱すが、肩口をかすめる爪が、布と皮膚を一緒に削いだ。熱い痛みが遅れてやって来る。
その瞬間。
――別の光景が脳裏に閃いた。
灰に包まれた集落、獣に襲われる自分。だがその時、剣を振るって前に出たのは、自分ではなかった。
幼馴染の誰か――ミアのような姿。袖をつままれる代わりに、逆に彼女の背を追いかけていた記憶。
「カイ!」
ミアの声。袖が引かれ、視界が狭まる。カイは一歩、獣から距離を取り、呼吸を整える。剣を――振り下ろすのではない。置くのだ。師がそう言ったのか、自分がどこかで学んだのか、記憶は曖昧だが、身体が先に知っている。
獣がもう一度、地面すれすれに滑るように迫る。カイは踏み込みの拍を遅らせ、刃を横に流す。切るのではない、通す。獣の首筋に刃が「置かれ」、次の瞬間、重さだけで肉が割れた。血が霧と混ざって黒い雨粒になる。
倒れた獣の横で、ミアが彼の袖を強くつまんだ。
「大丈夫?」
「……ああ」カイは答え、遅れて肩の痛みに顔をしかめた。軽い傷だ。血は滲むが、動ける。
それで終わりではなかった。瘴の気配が、森の奥からもう一つ、二つと増えていく。狼の形を借りた何かが、彼らの存在に引かれて集まってくるのだ。カイは息を整え、歩を進める。刃は重い。けれど、重さは敵ではない。重さは頼りだ。彼はそう言い聞かせる。
次の一体は、倒木の陰から飛び出した。カイはわずかに体をずらし、根の隆起に足をかけて高さを取り、振り下ろすかわりに、下り斜面の重力を刃に預けた。置く。置けば、通る。狼の背に刃が触れた瞬間、肉が自ら裂け、骨が刃を導いた。
息が荒くなる。霧が濃くなり、世界の輪郭が溶ける。誰かの呼吸の音が遠のく――そのとき、袖口が引かれた。ミアだ。
「こっち、戻ってきて」
彼女の声は驚くほど近く、温度があった。カイは目を閉じ、そして開く。霧の中で、ミアの瞳だけがはっきりしている。琥珀の灯が、彼の拍に合わせて揺れる。
森は再び沈黙した。倒れた獣の体から瘴が蒸発し、黒い煙が空へ薄く溶けていく。残るのは湿った血の匂いと、斬られた草の青い匂い。カイは剣を布で拭い、鞘に戻した。柄の木目が汗で少し滑る。手のひらを握り直し、指の節で現実を確かめる。
「大丈夫か」
低い声がした。
声のするほうを見れば、銀の短髪に無精ひげを生やした大男だった。皮鎧は擦り切れていたが頑丈で、人の背丈ほどもある大剣を片手で軽々と握りしめていた。彼の眼は鋭く、ただ一点を射抜くようだった。
「……誰だ?」
「通りすがりの護り手だ」
大男は大剣を背に戻し、腰の袋から布を取り出す。
「肩の傷、見せろ」
有無を言わさぬ声音に、カイは戸惑いながらも袖をずらす。森で受けた傷が赤く腫れ、血が滲んでいた。男は薬草を布に染み込ませ、迷いなく押し当てる。
「っ……!」
「我慢しろ」
痛みに顔をしかめるカイを、彼は一瞥もせず手際よく包帯で覆った。その手は粗野だが、熟練の兵士の動きだった。
「俺はガイル。……命じられなくても守る」
短い名乗り。だが、その一言にすべてが宿っている気がした。
その時、森の奥から再び唸り声。狼の異形が二体、三体と現れ、靄をまとって取り囲む。
「来るぞ」ガイルが剣を抜く。
カイも剣を構える。だが胸の奥に、再び妙なざわめきが走った。
――この場面、どこかで見た。誰かの背中を追い、守られていた記憶。
けれど、今は自分が剣を握っている。役目が入れ替わってしまったかのように。
「カイ!」ミアが袖をつまみ、名を呼んだ。
その声で靄がはらわれ、彼は前に踏み出した。
「俺も戦う!」
「なら――守り切れ」
ガイルと声が重なり、戦いが始まる。
ガイルの大剣は、まるで大地そのものが振り下ろされたかのように重厚だった。振るうたびに空気が押し潰され、異形の体を裂いた。カイはその背に続き、細かい隙を突くように刃を差し込む。動きは拙い。だが、守られているからこそ踏み込めた。
「カイ!」
ミアの声が飛ぶ。袖の感触が幻のように胸に残り、意識をつなぎとめる。
獣が一体、飛びかかる。カイは剣を置くように斬り、力任せではなく重みを預けて肉を裂いた。
血と靄が舞い散る。息が荒くなる。視界が狭まる。
しかし、その背中には常に大剣の唸りがあった。
最後の一体が崩れ落ち、灰となって風に散ったとき、集落には静けさが戻った。
ガイルは剣を肩に担ぎ、息を吐いた。
「市場へ向かうなら、俺も同行する」
「どうして……?」ミアが問う。
「命じられなくても、守る。それが俺の役目だ」
その言葉は無骨で、それでいて力強かった。
英雄ではない。自分はまだ迷う者だ。
けれど――「守る」という言葉に、カイの胸の拍は確かに応えた。
答えはまだ霧の中にあった。
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