夜明けは遅れてやってくる

渋沢あぐち

プロローグ「夜明けは遅れてやってくる」

 夜明けは、今日も少し遅れてやってきた。

 群青と墨のあいだで迷う空の底に、細い橙の糸が差し込み、ほどけかけた布を縫い留めるみたいに地平を縁取っていく。風はまだ眠く、露は草の穂先で震えたまま、鳥の舌打ちのようなさえずりさえ起きていない。世界全体が一拍分遅れて呼吸している――そんな気配の朝だった。


 少年は草原の斜面に腰を下ろし、手のひらで土の温度を確かめながら、その遅れを数えていた。

 一拍。二拍。三拍。胸の奥で拍を刻み、耳の裏で響く自分の鼓動に合わせる。それが癖になったのはいつからだったろう。彼は自分の間を思い浮かべ、舌の上にそっと置く。


 ――カイ。

 確かに、そうだ。たぶん、そうだ。だが言葉は小石のように口内で転がり、噛みしめても形が定まらない。昨日のことは覚えている。野営の火の色や、焦げたパンの縁の苦さ。けれど一歩だけ過去に足を伸ばすと、そこは靄だ。輪郭のない霧が広がっていて、手を伸ばすほど指先が濡れ、つかみかけたものがさらさらと崩れていく。


「また考え込んでる」


 背後から声が降ってきた。柔らかい綿のような響き。袖を、くい、と惹かれる。

 振り向くと、栗色の髪を肩で切り、朝の露を一筋だけ拾ったように光らせる少女がいた。彼女の瞳は琥珀色で、夜の名残を集めたみたいに深く、まっすぐこちらを見る。


「……ミア」


 呼ぶと、彼女は小さくうなづいた。

「うん。呼ばれないと、不安になるの。ね、カイ」


 袖口から除く指先が、もう一度、彼の袖をつまんだ。確かめるように、合図のように。指先は温かいのに、振れたところが少しだけひやりとするのは、露のせいか、それとも彼の胸の奥底にある空白のせいか。


「それ、また……」

「うん。癖になっちゃったみたい。……戻ってこないときがあるから、カイ」


 戻ってこない。

 その言葉が、彼の胸に小さな波紋を生んだ。誰かの呼吸に合わせ損ねると、世界の拍から落ちてしまうのだろうか。彼は自分の手の甲をさすり。指の節をぎゅっと握る。皮膚のきしみ、筋の張り――それは確かに「ここ」にいる感覚だった。


 東の遠い雲端で、ようやく光が薄く濃くなり始める。足元の草が一本、また一本と影を伸ばし、朝という名の糸がこの世界を縫い合わせていく。


 世界は今、瘴(しょう)と呼ばれる黒い靄に蝕まれている。

 町の角や井戸の底、森の切り株の年輪と年輪の隙間、海の底の渦――布の裏で糸が切れるみたいに、目に見えないところから繕いがほどけ、黒い繭が膨らんでいく、人々は繭の前で泣き、祈り、あるいはそれを見ないふりをして暮らす。けれども見ないふりをしても、繭の縁は日ごとに広がり、昨日の道が今日にはなくなり、見慣れた屋根が明日には消える。


「英雄さえこれば、って言う人、いたよ」

 ミアがぽつりとつぶやく。

「英雄って、ほんとに来るのかな」

「さぁ」カイは答えかけて、のどに何か引っかかった。「……わからない」


 英雄。

 その二文字が、彼の舌の上でひどく重く感じられる。誰かがそれを彼に押し付けたのか、自分がそれを掴みにいったのか。どちらなのかが、まるで分らない。


 ミアは肩の小さな袋から布に包んだものを取り出し、彼の手に押し付けた。

「パン。焼いたばかり。冷める前に」

「ありがとう」

「どういたしまして」


 彼はパンの端をちぎり、口に運ぶ。ぬくもりは、確かだ。温かいものは、世界にまだ残っている。彼はそう思い、噛みしめた。


 遠くで牛の鈴が鳴り、だれかが畑で鍬を打つ乾いた音が、遅れて風に乗って届く。人の生活は、瘴があっても続くのだ。だからこそ、人々は誰かを待つ。誰か――名前のある、顔のある、故事の中で語られる「英雄」を。


「……俺は」

 カイは言いかけて、空を見上げた。

 夜と朝の境が、ほつれを残したまま、少しづつ縫い寄せられていく。ちく、ちく、と針が進む気配。誰の手なのかは見えない。


「俺は、本当に英雄なのか?」


 声に出すと、たちまち風がその言葉をさらう。ミアは眉を寄せて、そしてためらいなく彼の袖をつまんだ。

「英雄じゃなくてもいいよ。カイはカイだから」

 短い言葉が、彼の胸の奥の空白に落ち、そこに水がしみこむみたいに広がっていった。胸骨の裏で、拍が一つ、確かに鳴る。合わせて、彼女の指先がそっと力を抜く。


「行こう」ミアが言う。「遅れると、朝が怒る」

「朝が?」

「うん。ほら、遅れてやってくるのに、追い越されるの嫌いだから」


 理屈になっているような、なっていないような。カイは思わず笑い、立ち上がった。背負い袋の紐を締めなおし、腰の刃の重さを確かめる。柄は手に馴染む。けれど、どこか「借りている」感覚が拭えない。


 草の斜面を降り、二人は村を背に歩き出した。木立の入り口で、朝の光がようやく額に触れる。遅れてやってきた光は、しかし確かだった。


 世界の縫い目を探す旅がここから始まる。

 彼が自分の名前を取り戻す旅も、同じ場所から始まる。


 夜明けは遅れてやってくる。だが、必ず来る。

 その遅れに、希望の余白はいつも残されているのだ――。

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