第2話

入学式の朝、私はぎりぎりまで駅のホームで鏡を覗き込んでいた。


制服のスカートが長すぎる気がして、ソワソワして仕方なかった。



新しい環境、初めてのクラス、新しい名前の人たち。


どれも楽しみだったはずなのに、正直、緊張で頭は真っ白だった。



校門の前は人であふれていて、同じ制服を着た見知らぬ誰かが、笑ったり、写真を撮ったりしていた。


私はその列の中に、ぽつんと立っていた。



そのとき――ふいに、誰かの気配が横に立った。



「あっち、まだ空いてるよ」



明るい声がして、ふと隣を見ると、見知らぬ顔があった。


いや、見知らぬ――はずなのに、どこかで会ったことがあるような気がした。



すらっとした背格好。


ちょっと乱れた制服。


そして、私を見るその目が、なぜか「知ってるよ」と言ってるような、不思議な感じがした。



「……ありがとう」



そう返すと、その子はにこっと笑った。


そして、何も言わずに隣を歩きだした。



初めて会ったはずなのに。


まるで、何度も言葉を交わしてきたような安心感があった。



不思議だった。


でも、なんだか…あの瞬間から、私は少しだけ安心していた。



なんでだろうって、ずっと思ってた。


まだそんなに話してないはずなのに、彼は最初から、私にだけ妙に親しげで。



他の子には距離を置いてる感じなのに、私にはいつも気軽に声をかけてきて、気づけば、いつも隣にいた。



気がついたら、それが“当たり前”になってた。



廊下ですれ違うとき、目で合図してくる。


お昼を食べるときも、気がついたら横に座ってる。


どこにいても、なんとなく彼の気配が近くにあると、ほっとしていた。



――あの、教室でふたりきりだった日のこと。



放課後、みんなが部活や用事で教室を出ていったあと、私は忘れ物を取りに戻った。


彼はなぜか、自分の席でぼーっと窓の外を見ていた。



「帰らないの?」と聞いたら、


「……ちょっとだけ、静かなのもいいかなって」と、彼は笑いながら言った。



そして、少し間をあけて、急にこんなことを言った。



「俺さ――男の子が好きなんだ」



その言葉が、ふわっと、教室の空気に溶けた。


私は一瞬、意味がうまく飲み込めなかった。



「……え?」



「前から言おうと思ってたんだけど、タイミングなくて」


彼は、真面目な顔をして、でもどこか肩の力を抜いたような目で続けた。



「たぶん、気が合いそうだなって思って。


恋愛とかじゃなくて、女の子の友達として、仲良くしたかった」



そのとき、なんだか、すとんと胸に落ちた。


ああ、だから――って。



彼が私のことを特別に扱ってた理由も、なんとなく居心地がよかった理由も。


全部、繋がった気がした。



私は笑って言った。



「そっか。……うん、なんかちょっと嬉しいかも。


私も、親友になれそうな気がする」



彼は、少し驚いた顔をして、でもすぐに笑った。


安心したように、優しく。



夕方の風が、少しだけ涼しくなってきた。


もうすぐ夏が終わる。制服のシャツの袖も、また長くなっていく季節。



その日は、部活も補習もなくて、久しぶりにのんびりした放課後だった。



「帰り、遠回りしてこうか」



彼がふと、そんなことを言った。



「え、なんで?」


「なんとなく。まだ帰るのもったいない気がしてさ」



そう言って、彼はいつものように私の鞄をひょいと持って歩き出す。


当たり前のように並んで歩く帰り道。


すっかり日課みたいになっていたけれど、ふと気づくと、私は彼の隣にいるのが“心地よすぎる”と感じていた。



夕暮れの中、人気の少ない遊歩道を歩きながら、彼が唐突に話し出した。


                                           「来年の文化祭、どうせまた委員やるんでしょ?俺、絶対巻き込まれる気がするんだけど」



「え、うそ。まだ今年のも始まってないのに」



「だってさ、鈴木って人、絶対仕切るタイプだもん」



「えー、やだなぁ。なんでそういうとこだけ当ててくるの」



「うん、俺、けっこう君のことわかってるから」



その言い方が、妙に自然で、でも少しだけ胸にひっかかった。



“わかってる”――



私のことを、ここまで当たり前みたいに理解してくれる人って、他にいただろうか。



でも、私はその違和感に蓋をした。


だって、彼は“親友”だって言ったから。


私もそう返したから。



だから、これは“恋”じゃない。



――はずだった。



その日は、ちょっと嫌なことがあった。


友達とのちょっとしたすれ違い。


大したことじゃないのに、なぜか胸の奥にずっと引っかかっていて、情けなくなるくらい気分が沈んでいた。



放課後、いつもの帰り道。


彼は、私が口数少ないことにすぐ気づいた。



「なんかあった?」



そのひと言だけで、私は目が熱くなった。



「……ちょっとね。大丈夫だけど」



「うん、大丈夫じゃない顔してるけどね」



そう言って、彼はコンビニに立ち寄った。


出てきた彼の手には、小さなチョコパンがあった。



「甘いもの食べたら、ちょっとだけバカになるよ。そういう時はそれでいいんだよ」



半分ちぎって渡されて、思わず笑ってしまった。



それでも、言葉にはしなかった気持ちが、全部見透かされてるようで、どこか恥ずかしかった。



そしてその帰り道。


横断歩道を渡る時、ふいに後ろから小さく肩を引かれた。



「危ない。車、来てたよ」



その声が、すぐ耳元で響いた。


触れた指先の温度が、思ってたよりもずっとあたたかくて、私は思わず、立ち止まりそうになった。



親友のはずなのに。


彼は“女の子の友達”として私のそばにいるって言ったのに。


なんで、こんなにドキドキしてるんだろう。



英語の小テストで、まさかの赤点をとった。


そんなこと、今まで一度もなかったのに。


プリントを見た瞬間、恥ずかしくて、なんだか泣きたくなった。



自分って、思ってたより全然ダメだな。


なんでこんなことで落ち込んでるんだろう。


自分で自分に幻滅して、余計に気持ちがぐちゃぐちゃになった。



放課後、机に顔を伏せたまま帰る気にもなれずにいたら、


カツン、と誰かが机の脚を蹴る音がした。



顔を上げると、彼が立っていた。



「ねえ、ひとつだけ言っていい?」



「……なに」



「赤点取ったからって、自分のことまで“落第扱い”すんなよ」



そう言って、彼はぽん、と私の頭を軽く叩いた。


全然重くない、むしろちょっと笑えるくらいの力加減。



「人ってたまにダメなとこ見せるから、ちゃんと“人”なんじゃん」



「……何それ」



「うん、いいこと言ったでしょ」



にやっと笑う顔が、なんか悔しいくらいかっこよく見えた。



ありがとう、って言いたかったのに。


なんだか照れくさくて、ただ「うるさい」って返すのが精一杯だった。



文化祭の準備は、思っていたよりもずっとバタバタしていた。


装飾の打ち合わせ、衣装の調達、班ごとの分担。


みんなの声が重なって、教室は連日騒がしかった。



その日も、放課後遅くまで残っていた。



教室の隅で、装飾用の段ボールを切っていたら、



「それ、俺がやるよ」



と彼が声をかけてきた。



「え、大丈夫?」



「大丈夫じゃなかったら来ないし」



それを言うときの彼の目が、少し優しすぎて、私は目をそらした。



気づけば、みんな先に帰っていて、教室には、私と彼だけになっていた。



カッターの刃を交換しようとして、私の手が止まる。



「……ねえ、あの時のさ」


「ん?」


「“人ってダメなとこ見せるから人なんだ”って言ったじゃん」


「うん、言ったね。なに、名言すぎて泣いた?」


「違うよ、あれ……」



私は言葉を探していた。



本当は、“あのときから、ずっと気になってた”って言いたかった。


“あの一言で、私はあなたに恋をしたのかもしれない”って、伝えたかった。



でも言葉にならなくて、代わりに出てきたのはこんな言葉だった。



「……あれでちょっと救われた」



彼は、一瞬驚いた顔をして、それから小さく笑った。



「よかった」



その笑顔が、あまりにも自然で、優しくて。


“親友”の顔のまま、私の胸を簡単に刺してくる。



ふと、手元のカッターが少し滑った。


慌てて指先を押さえると、ほんの少しだけ血が滲んでいた。



「大丈夫?」


「うん、ちょっと切っただけ」



彼は私の手を取った。


ティッシュを取って、そっと巻いてくれるその手が、


なんでもない仕草なのに、あたたかくて。



私は、心の奥で確信していた。



――ああ、私、この人のことが好きだ。



それでも、言えなかった。


言ったらきっと、何かが壊れる気がした。



「この曲、聴いたことある?」



そう言って彼がMDプレーヤーを差し出してきた。



タイトルは、最近人気が出てきたバンドのラブソング。


名前は知ってたけど、ちゃんと聴いたことはなかった。



「ないかも」



そう言うと、彼はイヤホンを取り出して、片方を私の手に乗せた。



「じゃあ、一緒に聴こう」



心臓が、一瞬だけ変な音を立てた。


手が、ほんの少し震えた。



差し出されたイヤホンを耳に入れると、


もう片方を彼がつけて、再生ボタンを押した。



音楽が流れた。



静かなイントロ、優しいギター。


そして、少しかすれたような歌声。



歌詞が、ゆっくりと胸に落ちてくる。


“たったひとつだけ変えられるなら


君の涙に気づける僕でいたい”



その瞬間、私は横顔を見てしまった。



イヤホンをつけた彼は、ただまっすぐ前を見ていた。


けれど、その横顔があまりに穏やかで、あたたかくて、


私は息を止めたくなった。



恋だ。


これは、恋だ。


きっと、ずっと前から。



でもそれを、私は言えない。


彼のとなりにいられなくなるのが、こわいから。 

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