君が親友だった頃

小箱

第1話

それは、恋の始まりであり、終わりだった。


高校生の“初恋”は、きっと特別なものになる。お弁当を詰めながら、なんとなく息子の様子を見ていた。

高校2年生。反抗期は一応通り過ぎたらしく、最近はよく喋る。けど、今朝はやけに落ち着きがない。


髪をいじって、スマホをちらちら見て、ニヤけて。

何かをごまかすときの、あのわかりやすい態度。

「…あんた、彼女できたでしょ」


ピタッと動きが止まる。

そのあと、頬がじわっと赤くなって、息子は無言で私から目をそらした。


ああ、やっぱり。


私は笑った。

嬉しそうに、でもちょっとだけ胸の奥がきゅっとなった。


――彼女か。

その言葉が、自分の記憶の底をゆっくり撫でていく。


「じゃ、行ってくる」

玄関で靴を履きながら、息子がふと振り返った。


「今日、駅で待ち合わせだから。迎えに来なくて大丈夫」


その言い方に、私は思わず笑った。

“彼女と会うから放っておいてほしい”って、そう言ってるのに等しい。


「はいはい。仲良くね」

「うっせー」

返事は照れ隠し。ドアが閉まる音が、少しだけ軽やかだった。


私はキッチンに戻り、使ったまな板を洗いながら、ぼんやりと流しの向こうを見つめる。

恋か――


そして、私にも、

どうしても忘れられない人がいたことを思い出す。

思い出してしまう。あの頃、ちゃんと伝えられていたら違ったのかな?


そんなことを考えていた時、スマホが震えた。

画面には、「母」の文字。


「……もしもし?」


電話の向こうで、母の声は少し沈んでいた。

「シュウくんのお母さん、亡くなったんだって」

「え……?」


心臓が、どこか深い場所で跳ねた。

秀――

高校のとき、いつも一緒にいた“親友”。

でも本当は、それ以上の存在だった人。

いまだに、名前を聞くだけで胸が締めつけられる相手。


言葉が出なかった。

母の声だけが、淡々と耳に届いていた。


数日後、私は彼の実家を訪れた。

お葬式には行けなかったけれど、せめてお線香だけでも――そう思っていた。


彼のお母さんには、高校時代、本当にお世話になった。

部活帰りに寄っては、ごはんを食べさせてもらって。

あの優しい笑い声は、今でも耳に残っている。


玄関を開けてくれたのは、彼のお姉さんだった。

少しやつれて見えたけれど、私を見ると穏やかに微笑んでくれた。


「来てくれてありがとう」

「こちらこそ…急なことで、信じられなくて」

「ね、私も。なんだか、まだ夢の中にいるみたい」


仏間に通されると、

お母さんの遺影が飾られていた。

その横には――彼の写真も、静かに並べられていた。


あの頃のままの笑顔。

優しくて、ちょっと不器用で、それでも誰よりも私を気にかけてくれていた、あの人。


私は思わず息を呑み、二つの遺影に静かに手を合わせた。


少し沈黙が流れたあと、お姉さんがぽつりと話した。

「この家、近いうちに壊すことになってて。

誰も住まないし、荷物も少しずつ片づけてるの」

「……そうなんだ」

「でも、シュウの部屋だけはね…

あの子が亡くなってから、手をつけられなくて、まだそのままなの」


彼の部屋。

最後まで、彼が生きていた場所。


その言葉を聞いた瞬間、

胸の奥で、何かがゆっくりと、目を覚ましたような気がした。


「もしよかったら、見ていって。

多分、シュウも喜ぶと思う」


私は、小さく頷いた。


引き出しの奥に、ぴたりと収まるように置かれていた一冊のノート。

表紙には何も書かれていない、黒いリングノート。

ただ、それを見た瞬間、私はすぐに思い出した。


――日記、つけてたよね。

昔から、彼は些細なことを文字に残す癖があった。

「忘れちゃうのがもったいない」とか言って、

何でもメモして、気が向くとびっしりとノートに書いてた。


「それ、読み返すの?」って私が聞いたら、

「読み返さないかも。でも、書くと安心するんだよ」って笑ってた。


あの笑顔が、ふっと蘇る。


私の指先が、ゆっくりノートの端に触れる。

表紙をめくると、最初のページに見慣れた字が整然と並んでいた。


そして、冒頭に書かれていた言葉。


「これで5冊目のノートになる。」


その一行を見た瞬間、心の奥で何かが小さくはじけた。

まるで、遠く離れた彼からの“返事”を受け取ったような――そんな気がした。


私はしばらく、そのノートを開いたまま、じっと見つめていた。

何かが書かれている。きっと大事なことが。

だけど、どうしてもページをめくる勇気が出なかった。


怖かった。

何が書いてあるのかを知るのが。

今の自分が、それを“受け止めてしまいそう”なのが。


私はそっとノートを閉じた。

ページの縁が、ほんの少しだけめくれていた。

それが、誰かがそこに触れていた証のようで、たまらなく胸が痛んだ。


バッグの中に隠すように入れる。

声をかけられたら、どうしようかとも思ったけれど――

お姉さんは、仏間でまだ誰かと話していた。


私は深くお辞儀をして、彼の部屋を出た。

ただの“ひとつのノート”として。


ノートは、バッグの中で重たく沈んでいた。

家に帰ってから何度も開こうと思った。

でも、そのたびに、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。


開けたら、戻れない気がした。


彼がそこに“いた”ことを、

彼がもう“いない”ことを、

どちらも、はっきりと知ってしまう気がして。


だけど、その夜。

ふと部屋に漂った柔軟剤の匂いに、心がざわついた。


彼の部屋で感じた匂いと、同じ。

なぜ今この匂いがしたのか、不思議だった。

私の記憶を一気にさらっていった。


彼の笑い声、ふざけた声、たまに見せた真面目なまなざし。

「やめろよ」って肩を揺らしたときの手の温度。

全部が、まるで昨日のことみたいに、体に戻ってきた。


私はノートを取り出して、膝の上に置いた。

まだ、開けない。だけど、もうわかってた。


――私は、彼を想ってた。

ずっと。

言葉にできなかっただけで、ちゃんと、ずっと。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る