第44話 キミが笑うなら、それでいい

 修学旅行が終わり、あっという間にもうじき冬休みになる。志保と藤原は、いつものように放課後の図書室にいた。

 窓の外はもうとっくに冬。黄色く色づいていた校庭のイチョウはすっかり葉を散らしてしまい、それが冬の寒々しさをより感じさせている気がした。

 図書室は、当たり前だけれどとても静かだ。

(時間がゆっくり流れる感じで、とっても心地いいんだよね)

 時折藤原と会話をしながら、志保はこのノンビリとした静寂を楽しんでいた。

「藤原くんといると、なんだか落ち着くね」

 志保はふと、そんなことを言ってしまった。藤原はちょっとビックリしたように見えたけれど、すぐにすごく嬉しそうな顔で微笑んだ。

「あ、あの、私、ちょっと違う本を取ってくるね」

 彼の笑顔に志保はちょっと照れてしまって、そう言って席を立った。


 図書室には雑誌も置いてある。

「あ、これって」

 志保が手にしたのは一冊のサッカー雑誌。良樹が毎週買ってる雑誌だ。

「そういえば、今年のワールドカップはアルゼンチンが優勝したんだよね。よしくんアルゼンチンのファンだから喜んでたっけ」

 志保は、テレビ中継を真剣な顔で見ていた良樹の横顔を思い出した。

(決勝戦は生中継だからって、深夜なのに眠い目をこすりながら見ていたよね)

 その時は志保も、サッカーのことはよくわからないくせに、良樹と一緒に見たくて頑張って起きていたのだった。

「サッカーの雑誌?」

 いつの間にか彼女の後ろに藤原が立っていた。

「あ、ご、ごめんなさい。これは、なんでもないの」

 志保はあわてて雑誌を元の場所に戻した。別に悪いことをしているわけじゃないのに、どうして自分はこんなに慌ててるんだろう……。

「……川島くん、サッカー部だったよね。練習頑張ってる?  部活、最近どうなのかな?」

 そう言った藤原の目は、なんだか何もかも見透かしているような、そんなふうに志保には見えた。だが、だからといって彼は何を言うわけでもない。

 藤原はずっとそうだった。志保に告白したあの日から、彼女はいまだに返事をしていないのに、彼は一言もそのことに触れない。

(ずっと、私からの返事を待ち続けていてくれてるんだよね……)

 薫子と瑞樹に背中を押されたあの日、良樹を好きなままでいいんだよと言われたあの日。すごく嬉しかったけれど、そうは言っても良樹は渡辺と付き合っているわけで、何をどうすることもできない。

(このままずっとよしくんを想い続けるの? それとも、もう諦めて藤原くんと付き合うの?)

 良樹が他の女の子と付き合っているのではどうしようもないし、それでは今まで通り志保の片想いのままだ。

(早く自分の気持ちをハッキリしなくちゃ……)

 でも、ダメなのだ。もう諦めた方がいいって思う自分と、諦めきれない自分がいて、どうしても決められない。

 それがどれほど藤原を傷つけているか……でもどうしても踏ん切りがつかない……。


(ごめんなさい、か……)

 藤原がサッカー雑誌のことで声をかけた時、志保はまるでいけないものを見つかった子供のように慌てていた。

(謝ることなんて何もないのにね)

 その姿を見るだけでもう十分だった。彼女の心が今どこにあるのか、本当は藤原も最初からわかっていた。

(槙原さんの瞳が本当に輝くのは、いつも川島君の姿を追っている時だもんな……)

 良樹が渡辺と付き合い始めたと聞いた時、彼の中に黒くて小さな喜びが生まれたのを否定はできない。その時、もし万にひとつでも可能性があるなら、と彼は願ってしまった。

(自分でも最低だとは思うよ。でも、それくらい僕は本気で槙原さんのことが好きなんだ)

 だから彼は待とうと思った。いつまでも待つつもりだった。彼女が自分の優しさに気づいて、いつかこちらに振り向いてくれる日が来るかもしれないと、そう信じたかった。

(でも、違うのかもしれないな)

 今の彼女は、自分と良樹の間で悩み苦しんでいるだけだ。

(僕が待ち続けることは優しさなんかじゃなくて、もしかしたら、ただ彼女をこの膠着状態に縛り付けているだけなんじゃないかな……)

 手に取ったサッカー雑誌。それを見つめる志保の横顔は、切ないくらいに恋する女の子の顔をしていた。おそらく自分には、決して向けられることのない表情だ。

(……もう、終わりにしなくちゃいけないかもしれないな)

 それは自分のためじゃない。

(それは、僕が本当に好きになったこの優しい女の子が、もうこれ以上自分を責めて苦しまないようにするためにだ)

 そして、彼女が自分の本当の気持ちから目をそらさず、ちゃんと前に進めるようにだ、と藤原は思った。

 そのための役は、自分が引き受けるしかないのかもしれない。結果的にそれで、幸せだったこの片想いを自分自身の手で終わらせることになったとしても……。


 帰り道、藤原は静かに息を吸い込んでから、志保にこう言った。

「ねえ槙原さん。僕はいつまでも待つつもりだよ。でもね、僕のためじゃなくて、槙原さん自身のために、区切りは必要だと思うんだ」

「え……?」

 彼の突然の言葉に、志保は明らかに戸惑っていた。その態度で彼女が今も真剣に悩み続けていることが、藤原には痛いほど理解できた。

「だから、1つだけ、約束してくれないかな。冬休みが終わったら聞かせてほしい。 槙原さんの本当の気持ちを。それがどんな答えでも僕は受け入れるから。もし答えが出ないのなら諦めるつもりだ。だからそれまでは、うんと悩んでいいよ。でも最後には、自分が一番笑える道を槇原さん自身で選んで欲しいんだ」

 

 自宅に戻った藤原は、部屋で一人窓の外に広がる冬の夜空を見上げた。

 (これで、よかったのかな……)

 彼の言葉を聞いた時の、志保の苦しそうに戸惑った顔が脳裏に浮かんで、胸がチクリと痛んだ。

(僕はただ、さらに彼女を追い詰めてしまっただけじゃないのかな。優しさの仮面を被って、残酷な最後通牒を突きつけただけじゃないかな)

 彼は何度も自問自答を繰り返した。しかし答えはやっぱり同じだった。あれが自分にできる、唯一で最善の選択だったはずだ。彼女が以前のような心からの笑顔を取り戻すためには……。

(こうするしかなかったんだ)

 自分への遠慮や良樹への罪悪感に縛られて、自分の本当の気持ちから目をそらし続ける。そんな彼女の姿を、藤原はもう見ていたくなかった。見ていられなかった。

(……川島君、キミは本当に幸せ者だよね)

 あんなにも一途に、あんなにも深く一人の女の子に想われている。

(でもキミはその価値に、今もまだ気づいていないんだろうな)

 藤原が喉から手が出るほど欲しい志保のその心を、良樹は当たり前のように、そして当然のように最初から手にしている。

(少しだけ、いや、本当はすごく……羨ましいよ)

 ドクン、と心臓が嫌な音を立てた気がした。自分のこの恋はきっと、冬休み明けと共に終わる。彼女が選ぶ道は、もうわかっているのだから。

 でも、それでも彼は後悔しない。

 本当に好きになった女の子が最後に笑ってくれるのなら、この幸せだった片想いの終わりが、そのためのほんの少しのきっかけになるのなら……。

「もうそれでいいじゃないか」

 藤原はそう呟いて、静かにカーテンを閉じた。

 冬の夜は、どこまでも静かだった。

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