第24話 決勝戦の選択
決勝戦の相手は、市原慎司のクラスとなった。春のソフトボールに続き、秋のバスケでも二人は決勝の舞台で相対することになったのだ。
だが体育館に満ちる熱気とは裏腹に、二人の胸にあの春のような心躍る高揚感は、もはや欠片もなかった。あるのはただ、凍てつくような緊張と、決して交わることのないそれぞれの想いだけだ。
試合開始直前、体育館につながる渡り廊下で良樹と市原は偶然すれ違った。
「……手加減すんなよな」
先に口を開いたのは良樹だった。その声には相手を挑発するような響きはなく、どこか自分自身に言い聞かせているように市原には思えた。
(川島って、こんなだったっけ)
市原は、一瞬だけ足を止めた。
目の前に立つ男は、彼が知っている「川島良樹」ではない。焦りと苛立ちと、そしてどうしようもない孤独でその身を鎧のように固くしている、見知らぬ誰かだ。
春の大会で、満員の観衆の前で満面の笑みを浮かべながら拳を高々と突き上げた、あのヒーローの面影はどこにもなかった。
「……当たり前だろ」
市原の声は、静かで冷たかった。
「川島こそ、少しは周りを見たらどうなんだ? コートに立ってるのは、オマエ一人じゃない。オマエはチームメイトたちの顔を、ちゃんと見てるのか?」
「……言ってろよ。最後に勝つのは、俺だ」
勝つのは俺たちだ、ではなく「俺だ」と良樹は言った。その言葉を聞いて、市原の心の底から落胆した。
(……そうかよ)
もう、何も言うことはない。
市原は内心で、深く、深くため息をついた。初戦であれほどの醜態をさらし、チームメイトから総スカンを食らっても、まだ何もわかっていないのか。
(なんで、気づかないんだよ、バカヤロウ……。オマエの失くしたものが、どれだけデカいもんだったのか、どうして気づかないんだよ。槇原さんのことだけじゃない。オマエは、いつまで自分だけの世界にいるつもりなんだよ……)
込み上げてくる怒りと、それと同じくらいの、どうしようもない虚しさ。市原は良樹に背を向けると、吐き捨てるように言った。
「……せいぜい一人で頑張れよ。元ヒーローさん」
その痛烈な皮肉の言葉だけを置き土産に、市原は決勝のコートへと歩き出していった。
コートに立ち、ボールの感触を確かめながら、良樹はぐるりと観客たちを見回した。無数の顔、顔、顔。その中に志保の姿を探そうとして、すぐに自嘲気味に首を振った。
脳裏に、春のソフトボール大会の記憶が、鮮やかな残像となって蘇る。乾いた土の匂い。突き抜けるような青空。カキーンという、軽快な金属音。そして、バックネット裏から聞こえた志保の「よしくーん! 頑張ってー!」という声。
たくさんの声援に混じっているはずなのに、なぜかあの声だけは、クリアに、真っ直ぐに自分の耳へ届いた。
――見てろよ志保。絶対に打つからな。
あの時の全身が燃えるような高揚感。無敵感。世界が全て自分のために回っているような、あの感覚を今もハッキリ良樹は覚えている。
ひるがえって、今。
鼻をつくのは、体育館特有の汗とワックスの混じった匂い。耳に響くのは、天井に反響する雑多な応援の声とシューズの軋む音。
「川島くーん! 頑張ってー!」
渡辺の、甲高い声援が聞こえる。カノジョが、自分のためだけに送ってくれる、特別な声援。
嬉しいはずだ。力になるはずだ。なのに。
(……なんでだ? どうしてなんだよ)
その声は、春に聞いた志保の声のようには良樹の心の中心まで届かない。まるで厚い壁を隔てた向こう側から聞こえてくるように、どこか遠く、そしてぼやけて聞こえる。
(カノジョが応援してくれてんのに……全然、気分が上がんねえ……)
わからない。自分でも、わけがわからない。
(あの時と……何が違うんだよ!)
ただ一つ確かなのは、春の大会で自分の全身を駆け巡った、あの魔法のような力は、今の自分にはもう宿っていないということだけだった。
ピーッ!
試合開始を告げる、無情なホイッスルが体育館に鳴り響いた。
試合が始まると市原は、ディフェンスの要として徹底的に良樹をマークした。藤原が回したパスから良樹は何度も強引突破を仕掛けシュートを繰り出すが、どれもことごとく市原の厚い壁に阻まれて失敗に終わる。
「オマエのバスケは、独りよがりなんだよ」
市原はプレー中にもかかわらず厳しい言葉を良樹に投げかける。
「なんだと!」
「誰にもパスしないで全部自分で決めに来るってわかってるなら、守るのも楽だってことだよ。そんなことも忘れちゃったのかよ」
「うるせぇよ!」
良樹はますます焦り、視野が狭くなり、独りよがりなプレーに拍車がかかる。
(マズいな。川島くんと市原くん抜きの4対4か。これじゃこっちの分が悪いぞ)
今までの試合を見た限りでは、5対5なら互角だが、4対4では向こうの方が上だと藤原は考えていた。
(やっぱり、なんとかして川島くんに決めてもらわないと勝てないぞ)
藤原は必死でリバウンドを拾い、ルーズボールに飛びつき、チームを繋ぎ止めようと奮闘する。チームメイトを叱咤激励し、自らゴールを決め、良樹に何度もパスを回す。まさに八面六臂の大活躍だ。
彼のその献身的なプレーに、他のチームメイトたちも少しずつ心を動かされていく。だが球技大会の試合時間は短い。残り時間はもう少なかった。
渡辺は良樹に向けて懸命に声援を送る。
「頑張って、川島くん!」
「負けないで!」
しかしその声援は、空回りしている良樹には、もはやプレッシャーにしか感じられない。
試合終了間際、良樹たちは1点ビハインド。残り時間から考えて、おそらく最後のプレーだった。
ボールを持ったのは藤原だったが、目の前には相手ディフェンスがガッチリ壁を作っている。
「こっちだ!」
この時、一瞬市原のマークを外してフリーになった良樹が叫んだ。今パスを出せば、位置的に良樹なら3ポイントシュートを決められるだろう。そうすれば逆転した瞬間に試合終了だ。
(どうする……)
しかし、藤原は良樹にパスを出さなかった。彼は相手が良樹に気を取られたその一瞬に、良樹とは逆サイドでフリーになったチームメイトへ渾身のパスを出した。彼もまた3ポイントシュートを決められる位置にいたからだ。
パスを受けたチームメイトのシュート。だが、それは無情にもリングに嫌われた。
ピーッ!
試合終了の笛が鳴った。あと一歩及ばなかった。
試合終了と同時に、良樹は藤原に駆け寄った。
「なんで、俺に出さなかったんだよ! フリーだったろ! 3ポイントで逆転だったのに!」
藤原は、汗だくのまま良樹を見つめ返しながら言った。
「……ごめん。でも、僕はあれがベストの選択だと思ったから」
その言葉に、良樹は何も言い返せなかった。藤原の瞳があまりにも真っ直ぐで、そこには一片の私情も言い訳もなかったからだ。
あれはチームを勝たせるための冷静な判断だった。その事実が、良樹の最後のプライドを粉々に打ち砕いた。
そう、藤原は正しかったのだ。
あの時、良樹は確かに一瞬フリーになった。しかし、それは市原が仕掛けた巧妙な「罠」だった。
最後は良樹にパスが出ると確信していたであろう市原は、わざと一瞬遅れて進路を空け、良樹をシュートコースへ走らせた。だが、そこはすでに別の選手が守っていた。そう、市原はその場所に良樹が走りこむよう誘ったのだ。
もしあのままパスを出していれば、良樹のシュートはブロックされ、無残に叩き落とされていたことだろう。あるいはパス自体がカットされていたかもしれない。
藤原は、コートの誰よりもその真実が見えていた。だからこそ彼は、より可能性の高い逆サイドのフリーの選手を選んだのだ。
決められなかったのは結果でしかない。しかし良樹には見えていなかった。ただ自分のことしか、彼には見えていなかった。
勝者である市原のチームが歓喜の輪を作る。その輪の中心で市原は、コートの反対側で立ち尽くす良樹の姿を、静かに、そしてどこか悲しげな目で見つめていた。
藤原は、シュートを外してしまったチームメイトの肩を叩き、「惜しかったな。ナイスシュートだったぞ」と、声をかけている。他のチームメイトたちも、次々と彼のもとに集まってくる。
「藤原、すごかったぞ!」
「お前がいなかったら、とっくに負けてたよ」
負けたはずのチームなのに、そこにはなぜか不思議な一体感が生まれていた。
だが、そのどちらの輪にも、良樹の居場所はなかった。
渡辺が、心配そうにコートサイドから駆け寄ってくる。
「川島くん……大丈夫……?」
しかし、良樹の耳には、もう何も届いていなかった。
「……ゴメン……ほっといてくれ」
彼は、カノジョであるはずの少女の手を力なく振り払うと、誰にも見向きもされず、一人コートを後にした。
その全てを志保は、観客席から、ただ黙って見ていた。良樹の孤立、藤原の献身、そして最後の藤原も全て見ていた。
「……藤原くん、すごいじゃない。キャプテンシーあるわね」
「……うん」
志保の瞳は、藤原の姿を尊敬の眼差しで見つめていた。だが、同時にひとりコートに立ち尽くす良樹の姿を見て、胸の奥がチクリと痛むのも確かだった。
試合を終えた藤原と観客席の志保の目が合った。彼は、やりきったというような、穏やかな笑みを浮かべ、 志保も彼に微笑み返した。
だが、やはり良樹のことが気になって仕方がなかった。
春。サヨナラホームランで満場の喝采を浴びた、あの太陽のようなヒーローの姿。
秋。誰からも声をかけられず、俯いて独りきりでコートを去っていく、傷ついた少年の小さな背中。
(どっちも同じよしくんなのに……)
そのあまりにも痛々しい光景に、志保は胸が張り裂けそうになるのを必死で堪えていた。その隣りで藤原の健闘を称える美咲の声が、やけに遠くに聞こえた。
球技大会を終えた後、渡辺との待ち合わせ場所に向かう良樹は、偶然バッタリと志保に出くわした。
「あ、あの、よしくん」
「……なんだよ」
「あの、バスケ、惜しかったね。もうちょっとだったのに」
「……見てたのかよ」
「……うん」
「……ダッセえとこ、見られたな」
「……そんなこと、ないよ。カッコよかったよ、よしくん」
久しぶりに聞いたその心からの優しい声に、良樹は顔を上げることができなかった。そして志保もそれ以上は何も言えなかった。ふたりの間に長く気まずい沈黙が流れる。秋の冷たい風が、その間を吹き抜けていった。
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