第21話 あふれ出る想い

 新学期が始まっても、志保と藤原は昼休みや放課後の図書室で一緒に過ごす時間が多かった。その様子を、美咲は少し離れた場所から、微笑ましそうに見守っている。

「うまくいってるみたいじゃない、藤原くんと」

「う、うん……まあ……」

 志保の曖昧な答え方は、照れているだけではない。

「藤原って誠実で優しそうだよね。 大事にしなさいよ」

 うん、と頷く志保だったが、その表情には照れと戸惑いと迷いが、ない交ぜになっている。


 数学の授業。担任の奥田が「ここ、テストに出すぞ」と宣言した部分を、良樹は全く聞いていなかった。赤点の悪夢が脳裏をよぎり、彼は焦っていた。

(ヤベェ、赤点になったら地獄の追試が待ってる……)

 それならば普段からちゃんとしておけば……という正論は良樹に通用しない。彼は基本的に学校での勉強が好きではないのだ。だからスキがあればサボり癖が顔を見せる。

 放課後、良樹は真っ先にカノジョである渡辺に頼んだ。

 「渡辺!  頼む、今日の数学のノート、見せてくれ!」

 「いいよ、どうぞ」

 渡辺は、にっこり笑ってノートを差し出した。

「……でも、ちょっと意外だな」

「ん?  何がだよ」

「川島くんが私に頼ってくれるなんてさ。てっきり、こういうのは全部、まず槇原さんに聞きに行くのが『ふたりのいつも』なのかと思ってたから」

「俺のカノジョは渡辺だろ?  だったら、真っ先に頼るのはオマエに決まってんじゃんか」

「そっか。嬉しいな。じゃあ約束ね?  これからこういうのは、まず最初私に頼ってくれるって」

 良樹は、何も考えずに「おう」と答えた。渡辺の言葉の意図も、自分が答えたことの意味も、何もわかってはいなかった。


 渡辺のノートは、綺麗だった。しかし、良樹には理解できなかった。あまりにも簡潔にまとめられすぎていて、途中式や、先生が口頭で言っていたはずの補足が、全て抜け落ちている。

「渡辺さぁ、これでちゃんと理解できんの?」

「うん。なにかヘンかな?」

 渡辺は不思議そうな顔をした。

「ダメだよ、渡辺。これじゃ俺には暗号だ……」

 書いた本人はこれでよくても、良樹にはこれでは役に立たない。

「えぇー、そうなの? 私のノート、わかりにくいかなぁ」

「あ、そうだ! 渡辺が俺に教えてくれりゃいいんじゃん」

「えぇー? 私、人に教えるの苦手なんだよね。頭ではわかってても上手く説明できないから」

「そっかぁ。うーん。なら仕方ない、他のヤツに頼むか」

 彼はクラスの男子何人かに声をかけたが、返ってきたノートは、ミミズが這ったような文字の羅列か、意味不明な落書きで埋め尽くされているかのどちらかだった。

(こいつらの頭の中、どうなってんだよ!)

 自分のことを棚に上げて、良樹は心の中でそう毒づいた。

(市原は……もういないか)

 市原はもう教室にはいなかった。いや、いたとしても最近の市原に頼み事は少々しにくい。

 万事休す。赤点の悪夢が、もうすぐそこまで迫っている。

(……結局、志保しかいねえのかよ)

 良樹の脳裏に、志保のノートが浮かび上がった。重要なポイントが赤い線で引かれ、わかりにくい公式には、彼女らしい丁寧な文字で補足が書き込まれている、あの完璧なノート。良樹は今まで何度もそのノートに救われてきたことを、今さらながらに思い出した。

(わかりやすいんだよな、あいつのノートは……)

 渡辺の顔が頭をよぎる。気まずい。だが、背に腹は代えられない。

「結局、志保のノートじゃないと俺には理解できねえんだな……」

 良樹は不本意ながらも、最後の望みをかけて志保を探しに図書室へと向かった。彼女はそこにいるはずだから。


 図書室で、志保はすぐに見つけることができた。

(やっぱりここにいたか)

 声をかけようとした良樹だったが、次の瞬間彼は目撃した。窓際の席で、藤原と楽しそうに笑い合っている志保の姿を。良樹の知らない、穏やかで幸せそうな笑顔を。

 良樹の胸に黒い炎のようなモノが燃え上がった。彼は、二人の穏やかな空気を破壊するように、ずかずかと近づく。

「……志保。わりい、今日の数学のノート、見せてくんねえか?」

 良樹のその声は、あからさまに不機嫌だった。

「あ、川島君。ごめん、槇原さんは今……」

「なんだよ藤原。オマエ、最近いつも志保と一緒にいるな。もしかしてオマエ、志保に気があるわけ?」

 その言葉に、志保の中で何かが切れた。

「……やめて、よしくん。そういう言い方、藤原くんに失礼だよ」

「は?」

「それにノートなら、自分でちゃんと授業を聞いてれば、人に見せてもらう必要なんてないでしょう? テストに出るって、奥田先生ちゃんと言ってたよ」

 良樹はぐうの音も出なかった。言葉でやり込められたということ以上に、志保が今まで見たことがない勢いで自分に食ってかかってきたことに驚き、そして困惑していた。

「な、なんだよオマエ……」

「ノートは貸さないよ。自分のことは自分でして。都合の良いときだけ私を利用しないで!」

 志保はキッパリとそう言い放つと藤原の手を引いた。

「行こう、藤原くん」

 良樹は何も言い返せず、呆然と立ち尽くすしかなかった。


(……言っちゃった。私、初めてよしくんに言い返したかも……。でも、なんだろう。少しも怖くないや)

 おそらく初めて良樹に反抗した彼女は、その解放感に自分自身でも驚いていた。

 藤原は、先ほどの志保の毅然とした態度に心を強く打たれていた。彼女はやはり尊敬すべき女の子だとあらためて思う。

「……槇原さん。さっきは、ごめん。僕がいたせいで、川島くんと……」

「ううん、違うの。藤原くんは何も悪くないよ。私が言いたくて言っただけだから気にしないで」

 その少しだけ強くなった彼女の横顔を見て、藤原は決意した。

(今しかない。言うなら今だぞ……)

 彼は志保をこれ以上一人で戦わせてはいけないと強く思った。良樹が今まで担っていた役割を、これからは自分が担いたい、担わせて欲しいと。ボクがキミを守りたい、と。

 そのあふれ出した想いは、もう止めることなどできなかった。

「槇原さん……好きです」

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