第7話 江藤美咲と渡辺一美
球技大会からだいぶ日にちが経った、ある日の放課後。他に誰もいなくなった教室に、江藤美咲と渡辺一美の2人が残っていた。志保はもうすでに良樹と帰った後だった。
「で、私に話ってなに? 江藤さん」
渡辺がそう口火を切った。
「急に、話があるから残ってくれって……私、江藤さんとほとんどしゃべった記憶ないんだけど」
渡辺が冷静な口調でそう言うと、美咲はいきなり本題を切り出した。
「話ってのはさ、川島のことなんだけど」
「川島くんの?」
「そう。アンタ、最近川島とずいぶん仲良いみたいだけどさ。あんまり志保のこと、振り回さないであげてくれない?」
「……まさかそれ、槇原さんから頼まれて言ってるの?」
「まさか。あのコがそんなこと頼むわけないじゃない。人一倍周りに気を遣うコなんだから」
「じゃあ、これは江藤さんの独断ってことね。でもさ、私が誰と仲良くしようと、江藤さんには関係なくない?」
「関係あるよ。志保は、アタシの親友だから……アタシはね、小学校の頃からずっとあの2人を見てきてるの。だからわかる。特別な時間と絆が、あの2人にはあるの。それは最近来たばっかりのアンタが、土足で踏み荒らしていいような、そんな安っぽい関係じゃないんだよ」
「……なにそれ、意味わかんない」
「アンタは知らないだろうけどさ、志保と川島はただの幼馴染じゃないんだよ。川島は、志保にとって命の恩人みたいなもんなんだから」
「……命の、恩人?」
「そうだよ。志保が今までどんなに辛い思いをしてきたか、アンタは知らないでしょ? でもアタシは知ってる。まだ小学生なのに他人を諦めて自分を諦めて、自分の殻に閉じこもって心を固く閉ざしていた志保を、あのコのその心を救ったのが、川島とその家族なんだよ。アタシには出来なかったことを川島はやったの」
「ふうん……何があったか知らないけど、大変だったんだね、槙原さん」
渡辺は一瞬だけ、たしかに同情するような表情を見せた。だが、次に彼女の口から吐き出された言葉は、同情とはほど遠いものだった。
「でもさ、それって、全部、過去の話でしょ?」
「……何が言いたいのよ」
「江藤さんが言うその、特別で安っぽくない関係? それって、本当に今もそうなのかな? 少なくとも今の川島くんが一番楽しそうに話して一番特別な笑顔を見せる相手は、槙原さんじゃなくて私みたいだけど?」
「……っ!」
「昔の思い出がどれだけ美しくても、人の気持ちって変わるんじゃないかなぁ。槇原さんは過去の思い出に縛られて、今の川島くんの気持ちから目を逸らしているだけなんじゃないの?」
「……そうかもね。アンタの言う通り、今の川島は、アンタに夢中なのかもしれない。あいつバカだから、可愛い女の子に言い寄られたら、そりゃ嬉しいだろうし」
「……分かったんなら、もうそれでいいじゃん」
「でも、ひとつだけ覚えときなよ。川島はさ、バカだし鈍感だしでどうしようもない奴だけど……本当に守らなきゃいけないものが何なのか、それを絶対に間違えるようなヤツじゃないの」
「あのさぁ、そもそもなんだけど、川島くんと槇原さんは付き合ってるの? 恋人同士なわけ?」
「っ……それは……違う……けど」
「だったらさ、江藤さんが今していることって、単なるおせっかいじゃん。付き合ってるならともかく、そうじゃないのに仲良くするとか、そんなこと言われる筋合いないと思うんだけど」
ぐうの音も出ないほどの正論に、美咲は言葉を失った。渡辺の言っていることは正論だ。自分がおせっかいだという自覚もある。
(でも、アタシは志保が悲しむ顔なんか見たくないの)
美咲は唇を噛んだ。
渡辺の言う通り、これはただのお節介なのかもしれない。でも、だからといってこのまま引き下がるわけにはいかなかった。
「……そうだよ。アンタの言う通り、アタシはただのお節介な部外者だよ」
美咲は、ふっと自嘲するように笑うと、真っ直ぐに渡辺の瞳を見つめ返した。その瞳にはもう、さっきまでの怒りはなかった。ただ氷のように静かで、深い色をしていた。
「でもさ、渡辺さん。アンタもいつか、分かる日が来ると思うよ」
「……何が?」
「川島にとっての本当の『特別』が誰なのかってこと。そして、その『特別』には、アンタはどうしたってなれないんだってこと」
それは、予言だった。あるいは、呪いの言葉だったのかもしれない。
「さっき、川島が一番楽しそうに話して一番特別な笑顔を見せる相手は自分だ、みたいなこと言ったけど、その川島の『特別』はさ、とっくの昔に全部志保が持ってるんだよ。アンタが川島からもらってる優しさなんて、志保があいつから何年も何年ももらい続けてきたものの、おこぼれみたいなもんなんじゃないの?」
「だから、それは過去の話なんじゃ」
「過去なんかじゃないよ!」
美咲は突然語気を荒くし、渡辺は一瞬ひるんだ。
「過去なんかじゃない。志保は誰よりも川島のことを見てきたし見ているの。今をちゃんと見ていないなんて、そんなことあるわけない。昔も今も、川島のことを一番知っているのは志保なの。志保しかいないの!」
美咲のあまりの迫力に、渡辺は何も言い返すことができなかった。
「言いたいことはそれだけ。とにかく、本気で川島のことが好きならともかく、そうじゃないなら志保を振り回すようなことだけはしないで」
美咲はそれだけを言い残すと、渡辺が何かを言い返す前に静かに踵を返し、カバンを持って教室を出て行った。一人教室に残された渡辺はしばらくの間、美咲が出て行ったドアをただじっと見つめていた。
彼女の脳裏で、先ほどの言葉が、何度も何度も反響している。
―― その特別に、アンタはどうしたってなれない。
その言葉が、なぜだか自分の心の一番柔らかい場所を、チクリと刺したような気がした。
渡辺は、その小さな痛みを振り払うように小さく首を振ると、「……関係ないし」と、誰に言うでもなく呟いた。しかしその声は、いつもよりもほんの少しだけ力がなかった。
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