二日目
朝。勝手に洗面所を借りて顔を洗って歯を磨いてから、昨日買ってきた菓子パンをもそもそと食べる。先生はまだ起きてこないようだ。昨日はそこそこ早めに二階へ上がっていったけれど、だからといって早く寝たとは限らないし。そう思いながらとりあえず課題を片付けようと、食べ終わったら課題表を出して、宿題達を並べる。数学は昨日少し進んだ。今日は化学と生物のプリントを片付けよう。理系科目はあんまり得意じゃないから早めにやっつけておきたい。
そう思いながらも、目を引くのは課題表の蛍光ペンの黄色だ。
と、トントントン、と奥から音がする。先生が階段を降りてきた音だ。「おはようございます」と声をかけてくださったので、「おはようございます!」と返す。先生は食パンをトースターに突っ込んで、焼き上がりを待つ間にヨーグルトとジャムを冷蔵庫から出してくる。「食べます?」と聞かれ、正直菓子パンだけではお腹が足りていなかったので、いただくことにした。テーブルの上を食事のために空くように課題を端に除ける。それが先生の目についたようで、「宿題ですか?」と問われる。
「そうです。結構量が多くて」
ちょっと困り笑いで返す。うちはまあまあの進学校なので、宿題の量もそこそ子ある方だと思う。大学受験を勝ち抜くためには今からこんなに勉強しないといけないのかと思うと少し嫌になる。
「見てもいいですか」
「どうぞ! 別に面白みはないですけど」
手を出す先生に課題表を渡す。プリントに目を通す先生は、ちょっと見れば塾の先生でもやっていそうな理知的な感じがある。
「理数の課題が少なめなところを見るに、文系コースですか?」
「はい。数学も化学もあんまり良くわかんなくて」
「文系で適当な大学に行くと『文系が得意な人』ではなくて『理系が苦手な人』の集まりに入ることになるので、行けるのであれば大学のレベルは高い方がいいですよ」
個人的な意見ですが。そう付け加えてから私に課題表を返して、先生はヨーグルトをひとさじ口に運ぶ。なるほど……と思っていると、チンとトースターが跳ねる音がする。立ち上がった先生はこんがり焼けたトーストを持って戻ってきた。
「読書感想文にマークされていましたが、何か特別な課題があるんですか」
「あっ、これは、その……個人的に、今年は頑張ろうと思っていて」
「へえ」
再びテーブルについた先生はトーストにかじりつく。
私は、少し躊躇った。実は、自分の夢を、小説家になりたいということを人に話すのがあまり得意ではない。中学生の頃からの夢だから、家族は知っている。でも、どこまで本気にしているかは分からない。同じ部活の友達には打ち明けたりもしているけれど、私の周りには趣味程度で書いている人ばかりだ。本気でクリエイターになろうとしている友達はいないので、応援はしてくれても仲間はいない。だからこそ、中村さんに背中を押してもらえたのはすごく嬉しかった。遊びじゃない。ただの課題でもない。本気なんだと、その世界にいる人に認めてもらえた気がして。でも実際憧れの先生にそれを打ち明けるのは、少し勇気がいることだった。
目をあげると、黙り込んだ私を先生はいつもの少し温度の低い目で見ていた。トーストを食べながら。その目は少しだけ私の言葉を促している、ような気がした。
「来年は受験なので」
私はゆっくり口を開く。
「今年、賞を取りたいんです。この読書感想文で。私が小説家になれるのか、力試しのつもりで」
言ってから、何だかムズムズと恥ずかしくなった。本当の夢を打ち明けるは、本気であればあるほど恥ずかしいのだと思い知る。私だけかもしれないけれど。そんな私を見ながら、先生はトーストをひとかけ飲み込んだ。
「へえ、いいじゃないですか。力試し。口だけで書かない人よりずっといい」
少し赤くなっている自覚のある私とは対照的に、先生は何でもないというようにそう言った。その言葉はスッと私の頬を冷ましていく。現実を知ってる人の、気を使ったりしたわけではない真っ直ぐでひんやりとした言葉。私は冷たいナイフをひたりと首筋に当てられているような心地になった。
「本は何で書くんですか」
「先生の『御嶽』です」
そう答えると先生はトーストを食べる手をピタリと止めて、少し難しい顔をした。
「……まあ止めはしません。賞を取りたいのであれば文豪と呼ばれる方々の名作や文学賞を取ってるような、社会的に評価されているもので書くのが王道ではありますけど」
「先生も賞取られてるじゃないですか。山影社文学大賞」
「直木賞とか芥川賞とかもっと大きな賞ですよ、社会的評価っていうのは」
そう言いながらトーストを食べ切った先生はお皿の上で少し手を払ってから、スプーンをとってヨーグルトにまた手をつける。
「……まあいいんじゃないですか。そのために来たんでしょう、ここに」
ヨーグルトをあむと口に入れて、また平素の表情に戻る。そうだ。私はそのためにここに来た。それを先生にちょっとだけ、認めてもらえた気がして、胸がいっぱいになりそうだった。
「はい! なので先生が作品を書かれた時に見た御嶽に実際に行ってみたいんですけど、自転車で行けますか?」
「急に元気になりましたね……御嶽は本来地元の方の祈祷場なので、本島の観光地になってるような御嶽以外は、本来は何の関係もない余所者が入っていい場所じゃないんですよ」
「『御嶽』の中でも主人公が最初に迷い込みそうになって地元の方に怒られてましたもんね。あとは地元のお年寄りの方に案内してもらってますよね。先生もそうだったんですか?」
「作者と主人公をそうやってすぐ結びつけるのすごく無粋だと思うんですよね」
スと先生の目が細められて冷たくなる。失言だった、と慌てるとはぁとため息を一つ落として先生が続ける。
「御嶽に行ってみたいならチエさんのところに行くといいですよ。私もあの人に地元の御嶽を案内してもらったんです」
「ほ、本当ですか! 行きます! 絶対行きます!」
「ただし、私の監督下にある以上勉強しないのはナシです。午前中に宿題を片付けて、午後にチエさんが来たときに話してみればいいんじゃないですか。多分あの人今日も来ますので」
「はい! そうします!」
『御嶽』の主人公の追体験ができるなんて、すごい! 本当の意味でも聖地巡礼だ。ワクワクしながらヨーグルトを口に運ぶと、甘みと酸味が広がって、普段食べるものよりもずっと美味しい気がした。
食事の後に先生は二階に戻って行った。私は午前中は先生に言われた通り、課題を片付けた。いつもは進みが遅い理系科目もスイスイ進んで、化学と生物のプリントついでに日本史にまで手がつけられた。日本史のちょっと難しい記述問題に頭を悩ませていたらピンポーンとインターホンが鳴って、ガラガラと窓を開けてチエさんがやってきた。
「こんにちは〜未来の大先生! 原稿?」
「こんにちは、チエさん。残念ながらこれは宿題です」
ご飯運びますね、と声をかけてチエさんから昨日と同じ、少し浅めの鍋を受け取る。あらありがとう、と言って上がってくるチエさんと一緒に台所に向かう。鍋をコンロに置いたら階段に向かって呼びかける。
「先生ー! チエさんいらっしゃいましたー!」
先生を待ちながらチエさんは鍋に火を入れる。今日のお昼ご飯は煮魚らしい。魚の頭がゴロゴロしている鍋の中をおっかなびっくり見ていると先生が二階から降りてきた。
「いつもありがとうございますチエさん」
「いいのよぉ好きでやってるから」
「先生、今日のお魚すごいです! 頭ごとなんです!」
テンションが上がっている私を冷たく見ながら「そうですか」と、先生はクスリと笑った。先生の含みがあるような微笑みは、私の情緒をごちゃごちゃにかき混ぜる。先生を見上げたまま顔が赤らむのを感じて、「あの、えっと、お茶碗だします!」そう言って戸棚へと逃げた。その間に先生が、昨日食べ尽くしてしまったご飯を炊いた。今時の炊飯器の性能はすごくて、早炊き機能を使ったらあっという間にご飯が炊けてしまった。昨日のようにみんなでテーブルを囲んで食事を始める。
「チエさん、私御嶽に行ってみたいんです」
「あら、やっぱり作家さんはそういうの気にしてくれるのかしらね。いいわよ、一緒に行く?」
「よろしくお願いします!」
「失礼がないように仕込んであげてください」
ご飯を口に運びながら先生が私の後からチエさんに言う。「任せといて!」と胸を叩くチエさんは心強い。
お昼ご飯のお魚は、身がふかふかしていてとても美味しい。一緒に炊いている生姜が効いている。ニコニコしながら口に運んでいたら、チエさんに頭を勧められた。
「これ、脳に効くのよ! 物書きの先生は絶対食べなきゃダメ!」
「脳って……これほとんど骨じゃないですか? どこを食べればいいんですか?」
「目玉とその裏にあるゼリー状の部分を食べるといいですよ。栄養素が詰まってて美味しいです」
そう言いながら先生は煮魚の頭をほじくってプルリとしたゼリー状のものに包まれた目玉を取り出す。それをそのまま口に放り込むとついでに白米も頬張る。少し幸せそうに目を細める先生にふわりと視線を奪われる。そんなに、そんなに美味しいのかな。私はチエさんに勧められた頭から目玉を掬い出して、えいと口に入れる。
食感はプルプルとした中に少し固めの層があって、魚の旨味が凝縮された煮凝りのようで。これはご飯が欲しい。
「目の真ん中の水晶体は固いから出してねぇ」
こくりと頷いて見せる。ゼリーの中に包まれた目玉を食べて、最後に残った硬いところを出すと、それは透明でビーズのようだった。
「どう? 美味しい?」
「はいっ! 初めて食べたんですけど、お魚の一番美味しいところじゃないですか、これ!」
「そうよ、目玉が一番栄養満点なんだから。ぜーんぶ詰まってるのよ」
嬉しそうに笑うチエさんも魚から目玉をほじくって、食べてみせる。みんなして魚の目玉をほじくるのは少しグロテスクなような、滑稽なような気がしたけれど、命を食べるってきっとこういうことだ。
食事を終えて後片付けを始める先生を手伝おうとしたら、また断られてしまった。「自分でやった方が早いので」と言いながらシャカシャカとお皿を洗っていく先生の手際はとても良いので、私も手が出せない。うぐぐと唸っている間に後片付けは終わってしまって、洗った鍋を先生がチエさんに渡す。
「さて、じゃあ行きましょうか」
「え、あ、はい、お願いします!」
今からだと思っていなかった私は慌ててバタバタと身支度をする。と言っても、サコッシュを引っ掴んでスマホを充電器から引き抜いてポケットに突っ込むだけだ。先生に「いってきます!」と声をかけると「はい、いってらっしゃい」と冷ややかに返してくれた。
チエさんの運転するファミリーカーは、よく掃除されていて快適な乗り心地だった。
「愛生ちゃんは弟子入りするくらいだから、先生の小説が好きなのよね」
「はい! もう話すと止まらなくなるくらい大好きです!」
「いいわねぇ、私も好きよ。愛生ちゃんはどの本が一番好き?」
「王道にはなるんですが、やっぱり『御嶽』が一番好きです!」
平子珠紀先生のデビュー作、「御嶽」。
アイドルが好きな女子大生が単身宮古島に卒業旅行に来て、散策をしている時に沖縄の祈祷場である御嶽と出会い、その謂れなどを調べつつ、自分のアイドルへの想いと結びつけながら「信仰」について考えるという内容だ。
私はこのお話がとても好き。自分はアイドルについてそこまで詳しいわけではないけれど、主人公の語る「信仰」には、物語を愛する私にも通じるところがあった。
この物語を通して主人公が大きく変わることも、世界が大きく変わることもない。ただ静かに、「信仰」というもののあり方について私にもわかる視点で切り込まれているだけだ。でもそれがすごい。平子先生の文章は淡々としていて、それでいて読者を突き放すような冷たさではなく、万人に読みやすい、理解しやすい言葉だ。テーマの重さと視点・文体の易しさのギャップが「児童向け純文学」と言われている。そして、その通りだと私も思う。
先生の「御嶽」について私が語ると、どうも早口になってしまう。オタク特有の圧縮言語早口というやつだ。そんな私の話をチエさんは笑って聞いてくれて、実際の御嶽について教えてくれた。
この宮古島だけでも900箇所ほどの御嶽があるらしい。ほとんどは地元の人の祈祷所で、基本的には地元の人の中でもツカサと呼ばれる御嶽での祭事を司る女性しか入れないのだそうだ。男性や観光客が立ち入ることを許されることはかなり稀らしい。物語の中では民宿の管理人さんが知り合いの宮古島の霊能者、ユタの方に連絡を入れて特別に入らせてもらったけれど、先生の時もチエさんがユタの方に連絡をして入れてもらったそうだ。
「先生も『呼ばれて』宮古に来た人だからねぇ。ユタのオバアがそう言ってたわ」
「呼ばれて、かぁ……」
宮古の神様に呼ばれる。『御嶽』の主人公は神様に呼ばれて宮古に来たのだと、ユタのおばあさんに言われていた。そんなの物語の中だけのことかと思っていたけれど、本当にそういうことがあるんだ。私もその地元の御嶽に行ってみたかったけれど、そのユタのおばあさんはご高齢で、もう亡くなっているらしい。あとを継ぐ人もいなかったそうで、そうやって祀られない御嶽が最近は多くなっているのだという。
「悲しいことだけどね。時代の移り変わりっていったらそれまでかもしれないけど、ご先祖様や神様が私達を見守ってくれているのは昔も今も変わらないのよ」
寂しげなチエさんの声。でも、次に口を開いたチエさんの声は明るかった。
「先生の小説、『御嶽』ね。読んだ時に、『この人はこの島の神様を見つけてくれたんだ』って思ったのよ。この小説を書くために、先生は宮古に『呼ばれた』んだって。はっきりわかったわ」
運転するチエさんの横顔は柔らかかった。
先生の小説は、こんな風にも人を救うんだ。
自分以外もの先生の小説を好きでいる人の話を聞くのは新鮮だ。ただ好きなだけじゃなくて、心の中の特別な場所に、先生の小説がある。それを分かち合えるのは、とても幸せなことだった。
「さあ、着いたわよ」
チエさんにそう言われて降り立ったのは、大通りから一本入った路地にある、雰囲気の違う神社のようなお社だった。
漲水御嶽。宮古島で唯一、男性や観光客でも入ることのできる御嶽だ。
パッと見は小さな神社のようにも見えるけど、違っているのは低い石垣に囲まれていて、赤瓦の屋根でできているところだ。後ろにある大きなガジュマルの木の存在感が強い。
先に祈りを捧げている人を敷地の外で待って、入れ替わり中に入る。お社の前には賽銭箱が置いてあって、お社の中には少しのお供えものが置いてあるだけ。神社やお寺なら御神体や仏像が置いてあるような場所には、何もなかった。
「お祈りの仕方はわかる?」
「はい。叩かないで手を合わせて、心の中で自分の名前と干支を神様に教えて、お願いをするんですよね」
「うんうん、流石ね」
そう言ってチエさんと二人、手を合わせて目を閉じ頭を下げる。
城田愛生。未年。初めまして、宮古の神様。私の願い事は、小説家になること。先生みたいな児童向け純文学が書ける、たくさんの世界とたくさんのキャラクターを生み出せる、すごい小説家になることです。できるならこの宮古島にいる間だけでも、あの読書感想文を書く間だけでも、力を貸してください。
心の中でそう唱えると、少し強い風が吹いてスカートがはためき、ガジュマルの木がざわざわとなった。御嶽の中の清涼な空気が、ざあという音と共に空高く舞い上がる。
「御嶽」の中でも、主人公がこの御嶽で祈りを捧げた時、風が吹いてこのガジュマルの木が揺れる描写があった。私は思わず目を開けてお社を見上げ、その向こうにガジュマルの木を見た。すごい。物語の中と一緒だ!
少ししてチエさんが顔を上げて、目を合わせてから敷地を出る。車に乗り込んでから「どうだった?」と聞かれ、私は興奮気味に返した。
「すごいです! お祈りしてる時に風が吹いて、ザワザワーってガジュマルの木がなって! 本当に本の通りみたいで! なんか感動しました!」
「そう、よかったわぁ」
チエさんは嬉しそうにニコリと笑った。
「愛生ちゃんはこの後予定ある?」
「いえ、特にはないです」
「そう、じゃあうちの民宿に遊びにこない? あそこも『御嶽』に出てきたし、平子先生が大学生の時に実際に泊まりに来たとこよ」
それを聞いて私は飛びついた。
「行きます! いいんですか! 是非行かせてください!」
車で十五分くらいいった、先生の家よりも空港に近いところに、チエさんの民宿はあった。「御嶽」の中にも出てきた、白地にネイビーのデザインの入ったおしゃれな外観。民宿というよりゲストハウスって感じだ。塗装も宮古の他の建物よりも真新しくて、本の中でも綺麗な外装だと書いてあったから、多分こまめに塗り直しているんだろうと思う。
「入って入って」と促されるまま、中に入る。多分共有スペースなのだろうリビング。赤や黄色のカラフルな椅子が配置されている室内に、ベンチの置かれた芝生のテラスが続いている。リビングでは二人の人が椅子に座って雑談していた。突然入ってきた私達に目を向ける。
「えー制服!? 女子高生!? ナニナニ地元の子?」
元気そうな女子大生っぽいお姉さんに声をかけられた。普段接点があるタイプの人間じゃないので、ちょっと怯んでしまう。
「こちら未来の大先生だから! みんないじめたらダメよ」
「こ、こんにちは……」
そうだ。お客さんがいるんだ。このシーズンを考えれば満員でもおかしくない。チエさんがリビングを見回してから彼女に話しかける。
「あら、他の子たちは観光?」
「そうですそうです。もう朝から泳ぎに行くぞー! ってすごい勢いで出て行きました。私もうあんな元気ないなー。この子とゆったり二日酔い中です」
ねー、と隣に座る女の子に同意を求める。うんうんと頷く別の女の子。二日酔い。確かに頷いたお姉さんはあまり顔色が良くない。話しかけてくれたお姉さんは元気そうだけど。
「私は看病役ってことで残ってて。ほら、お茶持ってくるから座って! チエさんも女子高生ちゃんも!」
顔色がいい方のお姉さんがお盆にお茶を入れて配ってくれるので、ご厚意に甘えていただく。座って座ってーと勧められて、いつの間にかリビングの黄色い椅子のひとつに座っていた。チエさんに助けを求めるというか、いいんですか? という目線を送ると、ニコニコしながら台所に立っている。仕方なく私は、この民宿に泊まっている二人と「ゆんたく」する流れになった。「ゆんたく」とは、誰かと集まってお茶や食べ物を囲んでのんびりおしゃべりをすることだと、「御嶽」で読んだのを思い出した。
「ただいま帰りましたー」
鍵が開きっぱなしの窓をガラガラ開けて、チエさんと二人で先生のお家に帰ってきた。今日は深い鍋と浅い鍋の二つで汁物付きの夕飯だ。さっき作ったばかりなのでまだ温かい。鍋をコンロに置いてから手を洗って、炊飯器を覗く。ふむ。これならご飯は足りそうだ。確認していると先生が上から降りてきて、顔を覗かせる。
「おや、チエさん。こんな遅くまでお世話になりました」
「いえいえ〜、こっちこそ未来の大先生夜までお借りしちゃってごめんね。とりあえずお酒入る前には連れて帰ってきたから!」
アハハと笑うチエさんに私も乾いた笑いを返す。チエさんと一緒にご飯を作って、出来上がったことを告げた途端に民宿の皆さんは「ご飯だー! 飲も飲も!」とビールを持ち出してきたので、酒盛り会場になる前に連れ出してもらったのだった。
「じゃあごめんですけど私は帰るわね。今日の子達、目を離すとすぐ飲みすぎちゃうから」
「お疲れ様です。晩ご飯、ありがたいです」
「お鍋はまた明日のお昼でいいから。洗うのだけお願いしとくわね」
「了解しました」
そう言ってチエさんは帰っていった。残された私達はお茶碗にご飯をよそい、汁物をお椀によそい、おかずを大皿に盛ってテーブルへと持っていく。今日のメニューはヘチマのお味噌汁と、ゴーヤーチャンプルーだ。食卓に着くと先生は苦い顔をして言った。
「ゴーヤ、ですか」
「私ゴーヤ料理するのも初めてだったし、食べるのも初めてなんですよ!」
私がウキウキしているところに、先生はゲンナリと水を差す。
「愛生さんは苦いのイケる方ですか」
「えっ、いけないです。でもなんかチエさんと一緒に苦味抜き? しましたよ」
「苦味を抜いても苦いものは苦いです。別名苦瓜ですよ。私卵とスパム食べるので愛生さんは自分で苦味抜きしたゴーヤを食べてください」
「そんなぁ! 私もスパム食べたいです!」
先生と私が睨み合う。そして席について、手を合わせて。「いただきます」と言った後からは戦争だった。とにかく小皿にスパムを盛る。卵は後。大事なのは肉だ。そうして箸使い対決みたいになって大皿にスパムがなくなるとお互いになんだからスッと冷静になって、仕方なく卵の絡んだゴーヤも小皿に運ぶ。一口あむと食べると、少しシャキっとしたゴーヤの食感の後にじわりと苦味が広かった。食べられないというほどではないけれど、口の中が不快感で満たされる。
「うーん、これは……」
「ここでスパムを投入するんですよ」
そう言いながらスパムをひと欠け口に放り込む先生を真似て、私もスパムを一切れ頬張る。口の中の苦味が一気に肉の旨味でかき消される。
「おっ、これなら! これならいけます!」
「でしょう。これは私が編み出したチエさんのゴーヤチャンプルー攻略法です」
「でもこれつまりはチエさんのゴーヤと卵とスパムの割合がとてもいい具合だって話じゃありませんか?」
「……」
黙り込んだ先生は素知らぬ顔でスパムを食べた。
「あっ先生ずるいです! 1スパム1ゴーヤですよ!」
「なんですかその謎ルール」
「今作りました! チエさんのゴーヤチャンプルーを美味しく食べるためのルールですよ」
スパムは白米にも合う。何にでも合うなこれ。完全食品かもしれない。そんなことを思いながら食卓は楽しく進んでいった。
「で、御嶽はどうでしたか」
食後、食器を片付けてから(「今日は私が片付けます!」と意気込んで見せたら「そうですか、ではありがたく」とあっさり譲ってくれた)、テーブルに戻って一息ついたら、先生が口を開いた。
「漲水御嶽ですよね。宮古で観光客が行けるのはあそこくらいのはずですけど」
「そうです! 凄かったんですよ、お祈りしてたら風がブワーって吹いて、ガジュマルの木がざわざわーってなって、物語の中に立ってるみたいな気分になりました! 『御嶽』の中でもそういうシーンありましたよね!」
そう興奮気味に話すと、先生は「そうでしたか」とポツリと言って私から目を逸らし、何も映っていないテレビの方を見た。何か考えているようだったけれど、テーブルの角を挟んで斜め向かいに座っている私は、その目から何も読み取ることはできない。
先生の瞳の中には、先生の世界の中には、何があるんだろう。二日間こうして一緒にいるけれど、先生の世界に触れられたと思う瞬間はない。こうやって同じ部屋にいても先生と私の間には見えない壁があって、お互いに触れられないようになっているような気がした。
宮古島に来れば、先生に会えば、先生と話せば、先生の世界に触れられる。勝手にそう思い込んでいたけれど、そんなに簡単に先生の世界には触れられないんだ。私はそんな当たり前のことに、今ようやく気付いた。じゃあ、先生の世界に触れるために、私は何ができるだろう。
少し考えてみても、「いっぱい話す」くらいしか私には思いつかなかったし、それくらいしかできない。いっぱい話しかけて、先生が返してくれた言葉を繋ぎ合わせて、先生の世界の形を探す。私にできることは、許されていることは、それくらいだ。なんとか話題を探して、私は口を開く。
「今日本当は先生の実際に行った別の御嶽にも行ってみたかったんですけど、チエさんの知り合いのおばあさん、もう亡くなってて案内してもらえないって聞いて」
「そうですね。あのおばあさん、この間亡くなったと聞きました」
「なので、代わりにってチエさんが民宿に連れてってくれたんです。先生も泊まった宿なのよって」
「へえ、そうですか」
「それで、民宿に泊まってる皆さんとお話してたんですけど、なんていうか普通に生活してたらお話する機会がないなーって思うような人ばっかりで。『御嶽』にも、泊まってる皆さんで「ゆんたく」するシーンがあったし、先生もこういうところでインスピレーション受けて作品を書いたのかなって」
半分、自分は何を言っているんだと思いながら、先生に今日私が得た「何か」を投げかけたくて、必死に話題を探しながら話した。先生の様子を伺っていると、気分を害したわけではないようで、ふーむと考えながらその頃の記憶を思い返しているようだった。
「基本的には部屋にいたかったんですけど、夕飯を食べるとなるとあのゆんたくに巻き込まれるんですよ。それで仕方なくそこにいましたけど」
あまり好ましくないことを思い出すように、先生は少し苦い顔をしていた。でも一息ついてから、ゆっくりと話し出す。
「でもまぁ、作品の中に出すくらいですし、少なからず影響を受けたんでしょうね、私も」
そう話す先生は、静かな水面のような、鏡の中に自分の姿を探すような、透き通った瞳をしていた。ああ、先生はこうやって自分の心の中に深く潜って、作品を書いているのかもしれない。その世界に、私も潜っていけたらなぁ。そう思った。
先生が二階に上がって行った後、こんなに現地取材してきたんだからスマホでネタを纏めておこうと、メモ帳アプリを起動して今日の日記みたいに文章をまとめる。簡易的なものなので、ほぼ箇条書きだ。書き出してみると、今日は本当に聖地巡礼って感じだったな。正しい意味でもそうだし、オタク的な意味でもそうだ。
このテンションなら、かけるかもしれない。
そう思ってシャープペンをとり、タイトルは後回しにして書き出しを書いてみる。でも、これだと思う書き出しが出てこなくて、書いては消し、書いては消し、結局何時間かかけて原稿用紙の初めの方を少し汚しただけだった。
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