神様の呼ぶ島

秦野優

一日目

 何もないところで手を合わせ、形のない、目に見えない神様に祈る。それはとても原始的で、始まりの頃から人間が生きるために繰り返して来たことだ。

 色んなモノや人に溢れたこの時代に、誰かを神様にしないで、何もない場所で祈りを捧げる宮古の人たちは、とても強く思えた。

 私は、そんな強さを手に入れられるだろうか。

 平子珠紀「御嶽」


 ◇◇◇


 ごうごうと鳴るジェットの音。私を乗せた飛行機は、羽田空港を離れて南の島、沖縄は宮古島へと向かっている。

 混み合った機内で、セーラー服を着た自分は少し浮いているような気もするが、気にしないように努めた。春より少し伸びて肩に触れる髪を撫でつけて、ちょっとだけ落ち着く。

 高校生活始まってから貯めたバイト代を使って、旅行代理店で買ったチケットを眺める。羽田発宮古行き。シロタアキ様とカタカナで表示された私の名前。

 ああ、本当に宮古島に向かっているんだ。

 初めての飛行機ならと代理店のお姉さんが取ってくれた前寄り窓際の席からは、真っ青な砂漠のような海がよく見えた。

 楽しさで心がちくちくと突かれるような。足がふわふわと雲を踏むような。早く早くと急く風に背中を押されるような。今の私の気持ちを表すのはどんな言葉になるだろう。

 いてもたってもいられなくて、パタパタと狭い椅子の中でこっそりと足をばたつかせながら、機内誌を手に取って読んでみることにする。足元の鞄の中にもちろん文庫本は入っているけれど、旅の中で読める活字はいくらでも欲しいくらいの活字中毒だ。ひらりとめくった目次のページの中に、見知った名前を見つけた。

 平子珠紀。今ちょっと本が好きな人間なら誰でも知ってる、と言ったら大袈裟かもしれないけれど。四年前にひとつの文学賞を取ってデビューした、新進気鋭の作家さん。その人が今回の私の旅の目的地である宮古島についてのエッセイを寄せていた。これを読むためにわざわざLCCをやめて少し値の張るこの航空会社を選んだと言っても過言ではない。初めての飛行機で長旅になるならと代理店のお姉さんが勧めてくれたこともあるけれど。

 ともかく、私は平子先生のエッセイまでページを飛ばして、綺麗な写真と美しい文字組みで飾られた紙面に没頭する。柔らかな文面で綴られる南の島での気ままな一人暮らしを綴ったそのエッセイは、夏の旅行のお供にぴったりの、どこかのんびりしたバカンスを思わせるものだった。

 どんな人なんだろう。読み終えた紙面から目を離せないまま、思いに耽る。私は平子先生に会うために、この飛行機に乗っている。

 私の中の平子先生は、長い黒髪をさらりと揺らして耳にかけてから、本がたくさん詰まった本棚のある静かな書斎で、資料の本をたくさん机に積み上げながら、アイスティーを飲みつつ優雅にカタカタと薄いノートパソコンで原稿を仕上げていく。美しい、大人の女性。文学を志す少年少女の夢を全部詰め込んだような、そんな人。そんな人に、これから会いにいくんだ。そう思うだけで、なんだか胸がきゅっと苦しくなるくらい、幸せでいっぱいになって頬が緩む。

 いや、実際どんな人かは見たことがないのだけれど。でも、こんな美しい文章を書く人は心も身体も美しいに決まっているのだ。

 ふと気付けば、飛行機は最終の着陸態勢に入っていた。外を覗くと、東京の海の色とは違う、淡いエメラルドブルーの珊瑚礁が広がっていた。外側の深いところはその色も深い青色をしていて、波が寄せながらサンゴ礁にぶつかって淡い碧に色を変える。真夏の太陽の光を透かしながらキラキラと輝いていた。

「わあ……!」

 静かな機内で、ひとり声を上げる。それなりに混み合った機内でそれはちょっと恥ずかしかった。パッと口を手で押さえて隣の人の視線を感じながら、もう一度外に目をやる。

 少しの街並み。サトウキビ畑だろうか、青々とした緑と赤茶色の畑の土のコントラストが目に入る。私のイメージする田舎ともまた違う、けれどどこか懐かしくなる風景が眼下に広がっていた。

 ああ、この夏を私はこの島で過ごすんだ。

 まだ見ない時間に私は心を躍らせながら、ドキドキと着陸の衝撃に備えた。

 

 空港からタクシーに乗って、編集さんに頂いた住所を伝える。沖縄の住所は読み方が難しくてわからない。辿々しく読み上げると、運転手さんはスラスラと正しいと思われる住所の読みを復唱する。動き出したタクシーの中からまず見えたのはサトウキビ畑の向こうにある不思議な建物。あれなんだろう。手前の緑とのアンバランスさが強かった。そこここに茂るサトウキビは、本当にざわわと音がするようになびく。すごい、沖縄って感じだ。

 もうしばらく進んでいくと道が細くなって、サトウキビ畑の向こう遠くの方に見えるのは水平線。海だ。朝の光に照らされた海は私の知る海とは違う、明るい青色をしている。東京の港から見える海の色は本当の海じゃなかったんだ。そんなことを思ってしまうくらい、まるで違う水に見える。

 タクシーはそのまま市街地に入り、煤けた白の四角いコンクリートで固められた家々が並ぶ、まるで異国のような街並みの中を進んでいく。しばらく車に揺られてたどり着いた目的地である平子先生の家は、やはりコンクリートで固められた古ぼけた白の四角いお家だった。

 表札もなにもない。でもタクシーのおじさんに聞けば確かにこの住所で合っているとのことだったので、緊張する指先でインターホンを押した。

 ピンポン。くぐもった音が家の中で響くのが聞こえる。しばらく待っても答えがない。住所、違ったのかな。今日の日付も飛行機の時間も編集さんとやりとりしたから伝わってる、はず。念のためタクシーのおじさんには待ってもらっているから、万が一違ったらもう一度編集さんに連絡して、住所をもらえばいい。

 大丈夫、大丈夫。心の中でゆっくり十数えて、もう一度インターフォンを押した。ピンポンとなり終わる前に、玄関の横にあったリビングの掃き出し窓だと思われたところが開く。

「どちら様ですか、こんな朝から」

 顔を覗かせたのは、真っ黒な髪をボーイッシュに短く揃えた、少し背の高い眼鏡の女性だった。

「あ、あの、山影社編集の中村さんとご連絡とって平子先生に弟子入りさせて欲しいとお伝えした者です。城田愛生、愛に生きると書いてアキと読みます。これから一週間お世話になります! よろしくお願いします!」

 頭を下げた私と後ろの荷物を見て、ああ……と呟いてから彼女は額に手を置き頭が痛いような仕草をした。

「今日でしたか……すっかり忘れてた。とりあえず上がってください。散らかってますが」

 そう言って彼女は掃き出し窓を開け放して奥へと戻っていった。私はまだうるさく鳴る心臓を押さえながら、タクシーのおじさんにお礼を言って別れた。少し重たい荷物を持ちあげて、とりあえず窓から中へ上がった。廊下はなく、今立っている部屋から右と正面に部屋が続いていて、外からダイレクトに生活空間に繋がっていることに、少し戸惑う。

「すみません、あのこれ靴ってどこに置けば」

「窓の下のその辺に置いておいて構わないです。盗難が心配でしたら入って右側に玄関があるのでそちらにどうぞ」

 お茶の用意をしているのか、コポコポと水音と一緒に返事が来る。とりあえず入ってすぐのフローリングを傷付けないように、よいしょっとキャリーバッグを横たえて床に置く。気に入っているけどどうせ使い古したローファーだし、盗む人もいないだろう。ということで靴は軒下に置かれたサンダルの隣に揃えて置いておく。

 キョロキョロと見回すと、部屋の中央には低くて大きいテーブルがある。そばにあるソファの上には雑に新聞が置かれている。散らかっていると言われたけれど、新聞以外にはこれといって出しっぱなしになっているものもなく、生活感と共に整えられた部屋だった。玄関の前、隣の部屋は畳の座敷になっているようで、そこからは真新しい井草の香りがした。

 奥の部屋から彼女が片手でコップを二つ器用に持って、もう片方の手にお菓子のたくさん乗ったお皿を持ってきてリビングの大きなローテーブルの上に置く。折角ソファがあるのにそこには座らず、床にぺたりと座り込むと手で麦茶の入ったコップを指してどうぞ、と勧める。

「改めて、私が平子です。で、貴方ですか。編集部に毎回手紙を出して電話をかけまくって作家の住所を聞き出すなんてコンプライアンス違反を起こした猛者は」

 思ったより暑さで喉が渇いていた私は、テーブルのそばに座って、ゴクリと勧めらた麦茶に口をつけて先生を伺いみる。

 私の中では髪の長い、穏やかな女性ってイメージがあったけれど、すっきりと切りそろえられた真っ黒のショートカットは私の中のイメージとは違う。でも思っていたよりも「平子先生らしい」のかもしれない。Tシャツとスウェット姿なのは理想とは少しズレているけれど、まあ朝だし。先生にとっては突然の訪問だったので仕方ないのだろう。眼鏡の奥の瞳はひんやりとした温度を纏っていて、涼しげどころか冷たささえ感じる。もしかして、怒っているのだろうか。

 ゴクリと麦茶と生唾を一緒に飲み込んで、私は口火を切った。

「私、先生の作品が本当に好きで! デビュー作の『御嶽』から刊行された本は全部読んでます。平子先生の柔らかくて読みやすい文体と取り扱うテーマの重厚さのギャップがとても好きで! 中村さんとお電話していて本当に共感したんですけど、児童向け純文学っていう新ジャンルを開拓できるのは先生だけだと思うんです! 宮沢賢治の童話性とはまた違った世界観が、」

「話はだいたい伺ってます」

 私の語りにエンジンが掛かろうとしたところで平子先生がストップをかけ、麦茶を一口含んだ。いけない、喋りすぎただろうか。何か失礼があっただろうか。心がしゅんと萎びる気配を感じたけれど、それではいけない。ギュッと掌を握り直して、先生の言葉を待つ。

「要は私の本が好きで、私の仕事模様を見てみたい、と。そういうことでしたね」

「そ、そうです!」

「全く、中村さんも何考えてるんだか……」

 眉を顰めて小さく呟く先生。私は恐る恐る問いかけてみる。

「……もしかしてご迷惑でしか?」

「迷惑も大迷惑です。人前でする仕事でもないっていうのに、私のところに話が来た時にはもう保護者の方からの同意書に菓子折と薄謝まで編集部に送られてきた後だっていうから、断りようがないじゃないですか。しかもエルメの焼き菓子詰め合わせ。中村さんの入れ知恵ですか?」

「いえ、以前あとがきの中に出てきたので、先生が固有名詞を出すなんて珍しいのでお好きなのかと思って」

「素晴らしい推測力ですね。探偵なんか向いてるんじゃないですか」

 はあ、とため息を吐いた先生は菓子皿に手を伸ばした。その話であっと思い出して持ってきた紙袋を取り出して先生に手渡す。

「これ、手土産です。こっちは中村さんにお伺いして、先生はマカロンがお好きだとお聞きしたので、バイト代奮発しました!」

 そういうと平子先生は目を丸くして、菓子皿に伸ばした手をそのまま私に伸ばして紙袋を受け取ってくれた。ピエール・エルメのマカロンボックスの一番大きいやつ。担当編集の中村さん曰く、「これがあれば多少先生がゴネてもなんとかなります!」だそうなので、慣れない百貨店で懐が痛むのも厭わず、頑張った。

 先生は袋の中身を確認すると、はーとまた長くため息を吐いた。そしてゆっくりと顔を上げて、私を見た。これでもかと眉を顰めながら、もみあげを揉んでいる。

「……一週間でしたね」

「はい! そうです!」

 険しい表情とは裏腹に、どうやら帰れと言われる訳ではないようだ。自分の目が輝くのを感じながら、大きな声で返事をする。

「まともな食事は夜しか作らないのでそれ以外は自分でなんとかしてもらう形になりますが」

「はい! 大丈夫です!」

「この島、交通の便が死ぬほど悪いので観光とかできないですけど」

「構いません! 先生のお仕事を見せていただくのが一番の観光です!」

「うちは観光地じゃないんですけど」

 先生はいかにも厄介だというのを隠さずに額に指をついてふー、と息を吐き出してから、「仕方ない」と呟いた。

「隣の和室に荷物を持ってってください。その部屋でしたら自由に使って構いません」

「は、はい! よろしくお願いします!」

 私は土下座するように頭を下げて、急いで立ち上がって荷物を隣の和室へ移した。

「一応家の中を案内しておきます」

 そう言って先生はリビングの奥の台所、二階への階段、台所の奥のトイレとお風呂場、さらに奥の勝手口と小さなお庭を案内してくれた。

「冷蔵庫の中は……まあろくなものは入ってませんが、好きに食べたり飲んだりして構いません。二階には入らないこと。何かあれば階段から呼んでください。あとは自由に過ごしてください。私はまだ眠いので寝ます」

 そう言うと先生は階段の闇の中へ消えていった。

「おやすみなさい……」

 消えていく先生の背中に、聞こえているかどうかわからないけれどそう呟いた。

 ど、どうしよう。ひとり残された私はどうしたらいいかわからず、とりあえず和室に戻ってスマホを取り出した。電話帳から中村さんの番号を選んで、電話マークに触れる。

「はーい、山影社の中村でーす」

「な、中村さん、城田です」

「あっ愛生ちゃん! どうですか、先生には会えましたか?」

「無事会えました! オッケーくださって、とりあえずお家に置いて頂けることになりました」

 やったー! と電話の向こうで嬉しそうに弾む中村さんの声が聞こえる。つられてこちらまでふわりと気分が浮かぶ。

「上がり込んだならこっちのもんですよ。愛生ちゃんの中の先生への愛、思いっきりぶつけちゃってください! ついでに平子先生せっついて新作のプロットあげさせてください」

「新作のお手伝いになるかはわからないですけど……頑張ります! 本当に中村さんには何てお礼を言えばいいかわかりません」

「いいんですよー、私そんな特別なことした訳じゃないですし。愛生ちゃんの熱意の結果で今愛生ちゃはそこにいるんですよ」

 自分の熱意の結果。そう言われると少しだけ胸が熱くなった。私には熱意しかない。それしかない。それが誰かを動かして、世界を動かして、今ここにいるんだとしたら、私はもう少し自分を信じられる。中村さんはこうやって人を乗せるのがとても上手だ。これが編集の手腕というやつなのだろうか。

「ありがとうございます。頑張ります!」

「あはは、折角の夏休みに宮古島にいるんだから、頑張るばっかりじゃなく目一杯楽しんでいい思い出にしてくださいね」

 それじゃあ! と中村さんは元気よく電話を切った。中村さんとの通話画面を眺めて、ふうと息をついてから、和室の壁に背を預けて座り込んだ。

 酷く大きい何かの貝殻と先生の今までの本が並べて置かれているだけで、あとは何もない床の間をぼんやりと眺める。本当は家族の思い出とか、お気に入りの美術品や掛け軸なんかを飾るためであろうその空間が殺風景だ。平子先生が頓着するものはここにはないのだろうか。ますます仕事場への興味が募っていく。

 さて、何をしよう。

 付近の散策に行こうにも、玄関(というか窓)に鍵かけられないし、先生は寝ちゃったし。できることなら先生の仕事部屋とか本棚とか見せていただいて、あわよくば先生の愛蔵書とかを読ませて頂ければと思ったりしたけれど、それも今は叶わない。うーんと頭を捻って、仕方がないので持ってきた学校の宿題をリビングの机の上に並べる。多分先生が使う時でなければテーブルを借りるくらいは大丈夫だろう。多分。

 並べた宿題達を前に課題表を眺めて、そのうちの一つに蛍光ペンでマークしたのを思い出す。

 読書感想文。この夏、私が一番頑張りたいもの。

 小説家になりたいという夢を掲げて、所属している文芸部ではそこそこ頑張って書いてはいる方だと思う。けれど正直なところ私はあまり書くのが上手ではない。私としては綺麗な言葉を一生懸命並べて、書きたいことが表現できるようにに言葉を尽くしているつもりだけど、あまりウケが良くないのだ。高校総合文化祭にも作品を出したりしているけれど、評価は県大会止まり。大きな賞をもらったことはない。

 だからといって書くことをやめたいと思ったことは一度もない。私は読むのも、書くのも、大好き。それなら編集とかを目指せば? と友達に言われたこともあるけれど、私は自分でつくりだす人になりたい。だから今は「なれなかった時」を考えないで、とにかく書くしかないと思っている。

 そんな伸び悩んでいる私が光を浴びる一大チャンスだと思っているのが、この読書感想文。去年も頑張って書いたけれど、結局学内選考にも引っかからなかった。来年には受験もあるからそこまで力をいれるのは自分の学力的にもあまり現実的ではない。今年が最後のチャンスなのだ。

 貴重品入れにしているサコッシュから一冊の文庫本を取り出す。平子先生のデビュー作、「御嶽」。私は今年、この本で読書感想文を書こうとしている。

 最高の読書感想文を書くために、この本についてもっと平子先生に聞いてみたい。私がファンレターではなく編集さんに電話をかけるきっかけになったのはそれだった。初めは中村さんを質問責めにしてしまって、「先生に確認しないと分からないです!」と困らせてしまった。やりとりをする中で先生から答えをもらえることはなく、それでも諦めきれず電話をかけ続ける中で、中村さんと仲良くなった。そして、こうして先生に会いに来ることを提案されたという訳だ。

 私は何としてもこの旅の中で、この本で、読書感想文を書き上げたい。平子先生が自身の卒業旅行を思い返して、この宮古島で「御嶽」を書き上げたという。私もこの島で、この作品と向き合って、取り組みたい。自分の才能を見つけたい。賭けてみたい。その思いでここに来たのだ。

 とりあえず、読書感想文に手をつけるのは先生に取材をしてからだ。手始めに私は、一番苦手な数学の問題集を手に取った。

 

 悶々と数学の課題と格闘すること数時間、ピンポンとインターフォンがなったと思うと、私が迷う暇もなくガラリと掃き出し窓が開かれた。

「せんせーい! 起きてるー……ってあら、お客さん?」

 見たところ六十代くらいの、少し背の低い肌の焼けた気の良さそうなおばさんが片手で浅めの鍋を抱えていた。先生といいこのおばさんといい、どうやらこの家の玄関の働きをなしているのはこの掃き出し窓らしい。

 どっこいしょっと掛け声と共に鍋をフローリングに置くとおばさんは上がり込んできて、鍋を持って奥の台所へと向かっていった。

「あなた先生のご親戚とか? 夏休みだから遊びに来たのかしら」

「いえ、自分は先生に弟子入りしに来た者です。すみません、先生さっき寝るって上に上がっていったきりで……」

「あーがい、まだ寝てるの。先生ー! もうお昼ですよー!」

 おばさんが鍋を火にかけながら階段へ向いて声を掛ける。よくわからないが、この家では日常茶飯事の光景のようだ。

「しっかし、先生が弟子ねぇ。こんな可愛い子ならいつでも大歓迎よ。あの先生の弟子なら未来の大先生ね」

 大きくアッハッハと笑いながら話す彼女にちょっと気圧されながら応える。

「あ、ありがとうございます……。えっと、今更なのですがどちら様ですか?」

「私? 私はこの近所で民宿をしてるの。先生とこにお昼とか夕飯とかちょこちょこ運んでるのよ。あの人だーいじなお仕事してんのに、放っておくとろくなもん食べないもんだから!」

 そういいながら彼女は火にかけた鍋を開ける。くつくつと汁気が音を出している。ぱっと見は野菜炒めのように見える。ツナの焦げる香りで私のお腹がクゥと鳴った。

「だいたいこの辺じゃチエさんって呼ばれてるから、あなたもそう呼んでね。あなたのお名前は?」

「私は城田愛生です。愛に生きるって書いてアキって読みます」

「へーえ、いい名前ね。ご両親センスあるのね」

「ありがとうございます、私もこの名前大好きです」

 そんな話をしていると、ペタペタと階段の方から音がして、見れば平子先生が降りてくるところだった。

「チエさん、おはようございます」

「早くないわよー、もう昼! 一時過ぎてるから! うちで炊いた野菜持ってきたからご飯にしましょ。お米残ってる?」

「多分、昨日炊いたので」

 あれよあれよという間にリビングのテーブルの上には、私の宿題を押し退けて美味しそうな野菜炒めと白米が三人分並んでいた。

「いただきます」 

 チエさんは元気に手を合わせる。その隣で静かに手を合わせる先生。私も倣って手を合わせて、いただきますと呟いた。一口皿から取って、自分の小皿に分ける。そして白米の上でワンクッションしてから、口へ運ぶ。人参に白菜に青菜。そこにツナと香ばしい醤油が絡んで出汁になってる。いかにも家庭の味って感じの野菜炒めだ。美味しい。

「そう言えば聞きたかったんだけど」

 チエさんが口に含んだ野菜炒めを飲み込んでから唐突に話始める。

「愛生ちゃんはなんで制服なの?」

「ああ、えっとですね。やっぱり弟子入りのお願いをするなら正装かなと思って。学生の正装は制服なので!」 

 胸元に結んだスカーフを整えながら胸を張ると、チエさんは口をクスクスと笑って先生は呆れた顔をした。

「典型的な形から入るタイプですね」

「いいじゃない。案外大事よ、形から入るって」

「安心してください! ちゃんと替えの制服も持ってきてます!」

「着替えも制服なんですか……」

「中村さんにも言われたので。『離島にセーラー服の女子高生ってだけで物語になるでしょ?』って」

「まったく中村さんは……あなたもあなたですよ、あの人のそんな口車に乗せられるなんて」

「ダメでしたか?」

 箸を止めて先生を見ると、先生は殆どなくなった野菜炒めのお皿に目を落とした。

「来てしまったものはどうしようもありません。あなたの服装は私には関係ありませんし」

 そう言いながら先生は野菜炒めをお箸で綺麗にさらって口へ運んだ。

 

 食事を終えてチエさんは鍋を持って帰っていった。先生はテレビをつけて、お昼のワイドショーをぼんやりと眺めていた。私は先生と話がしてみたかったけれど、一体何から話したらいいのか分からなくて、口を開きあぐねていた。

「……自転車には乗れますか」

 テレビを見たまま先生は突然口を開いた。一瞬私に話しかけられたんだと認識できなくて、ワンテンポ遅れてなんとか返事をした。

「は、はい! 乗れます!」 

「もうかなり使ってないですけど、表に自転車があるので使えるかみてみましょう。乗れそうだったらその辺を散策してきたらどうですか。十分も走れば海岸があります」

「えっ、ここから海そんなに近いんですか」

「こんな小さな島の中なのでどこからでも似たようなものですよ」

 そういうと先生は立ち上がって掃き出し窓から外へでた。慌てて靴を履いて追いかけると、言われた通り表に止められた軽自動車の隣に古ぼけたママチャリがあった。だいぶチェーンが錆びてるけれど、家の表に屋根があることもあって、思ったよりは痛んでいないようだ。触ってみたところタイヤも無事だ。自転車スタンドを立てたままチェーンの回る様子を見ながら先生が言う。

「乗れそうですね」

「そうですね」

「この道をまっすぐ行って、交番の角の道をそのまま行けば海に突き当たります」

「わかりました、行ってみます!」

 ぴしりと敬礼をして見せると、先生はクスリと笑みを零して、いってらっしゃいといってくれた。部屋から急いで財布とスマホの入ったサコッシュをとってきて、その勢いのまま自転車に乗って出発する。ちょっとこけそうになった。

 先生が、笑ってくれた。朝からずっと不機嫌そうだった先生が! ほんの少しこぼれただけであろう笑みだけど、冷たく見えた瞳にぽっと暖かさが灯った気がして、その暖かさに心がドキドキする。誰かに笑いかけられてこんなに嬉しかったことなんて、今までの人生でない気がした。

 見たことのないスーパー、どこかのんびりした構えの郵便局に交番。そして病院の横を抜けていくと、本当にすぐ海岸に辿り着いた。

 海水浴場なのだろう、海の中に防護ネットが張られていて、水着をきた観光客らしい人たちが楽しそうに遊んでいる。自転車を路肩に止めて、木々の間を抜けて砂浜へ駆け出す。コンクリートの階段を降りると小さな砂浜が波の間から顔を出していた。真っ白な砂が太陽を反射して、さらに海も透明な水がキラキラと青や碧の光をはね返して煌めいていて、目が痛いくらいだ。これはサングラスが必要かもしれない。

 波打ち際へ寄っていくと、白い波が立っては砂を平らに均しながら引いていく。ざざ、と柔らかく鳴る波音が心地良い。

 ああ、私の知っていた海は海じゃなかったんだと思い知った。私が知ってる海は青というより黒に近い、飲み込むような水の塊。全てを輝きに変換するような透明な細波は、テレビや写真の中にしかみたことがない。こうして目の当たりにして、やっと実在するんだと実感した。

 足をつけてみたかったけれど、ローファーに靴下を履いていたのでやめておいた。帰りにサンダルを買って帰ろう。もしかしたらそこのコンビニにも置いているかもしれない。

 波打ち際を歩いていくと木々の奥に遊歩道があった。虫や枝をかき分けて迷路のように分かれた道を進んでいけば、岬のように突き出た崖に東屋が佇んでいた。東屋の向こう側は海に続いていて、岩肌が覗く崖に腰掛けた。港のクレーンやホテル、さっきまで歩いていた砂浜まで海の向こうにあって、喧騒は遠くここまで届いてくることはなかった。ただ波音だけがあった。心がもやついていた訳じゃないけど、今ならもっと物事がクリアに見えるような気がした。

 心が洗われるってこんな感じなんだ。サワサワと流れている風に吹かれながら、そんなことを思った。音楽を聴きたいかもしれない。優しくて、なだらかな歌。あいにくイヤホンも思いつく曲ももないので、ゆらゆらと波の音で体を揺らす。海を「生命のゆりかご」と例えることがある。本来の意味とは違うけれど、私は今まさにそのゆりかごに揺られている気分だった。

 先生のエッセイの中で、近所の海岸は人と喧騒が煩くて海もあんまり綺麗じゃないって書いてあったけど、まさかここのことじゃないだろう。もしもここがそうなら、あのエッセイにあった先生のお気に入りの橋からみた海の青は一体どんな色なんだろう。車で橋を駆け抜けていくのはまるで空を渡っていくみたいだって書いてあった。行ってみたいな。自転車でも空を渡れるんだろうか。ぼんやりとそんなことを考えながらずっと海を眺めていた。

 気付けばあたりは抜けるような青から熱を帯びた橙に色を変えていて、水平線の向こうに真っ赤な太陽が沈んでいこうとしていた。あまりにも美しくて、まるで世界の終わりのようだった。

 ちょっとのつもりが思ったより長居をしてしまった。そろそろ帰ろう。そう思った時にスマホの存在に思い当たった。こんなにフォトジェニックなところにいるのに、写真の一枚も撮ってない。慌ててカメラアプリを立ち上げて、崖の向こうに太陽が沈んでいく様を収める。どうも私は写真を撮るのが下手で、カメラの画角に入れると何もかもうまく絵にならない。本物の方がずっと綺麗だな。そう思いながらも、この景色を思い出すためにもう一枚だけ写真を撮った。

 砂浜に戻ってみると、向こうに見える別の島にはポツリポツリと灯りがともり始めていて、丁度昼と夜の間に立っているような気分になった。なんだか、違う世界に迷い込んでしまったような気分だった。

 海岸前のコンビニでビーチサンダルを買って帰路に就いた。ゆるゆると坂を坂を登ってスーパーの方へ向かう。この辺りは島の中でも市街地のようだけど、私の知ってる『街』とは様相が違う。いそいそと目的地しか見えていないように脇目もふらず歩いていく人なんていない。もっとゆっくりと時間が流れているような、不思議な空間だ。ギイギイと音を立てるママチャリはこの空間にとても似合っているような気がして、私は自転車を貸してくれた先生のことがもっと好きになった。

 

「ただいま帰りました」

 帰ってみると窓の鍵は開いたままで、先生は二階の自室にいるようだった。

 あの後スーパーに寄って明日の朝ご飯にお昼ご飯、飲み物やちょっとしたお菓子などを買い込んで帰ってきた。スーパーの品揃えが東京とはかなり違って、地元感があった。ゴーヤーやパパイヤ、ヘチマが普通のスーパーに置いてあるなんてかなり変な感じだし、パンも知っている銘柄はひとつもなかった。

 外はまだ仄明るい。でも自転車のライトは故障していたので、あまり夜には出歩けないことがわかった。

 買ってきたものを勝手に冷蔵庫に仕舞わせてもらって、先生の夕飯時まで宿題の続きでもしようかと思っていたら、二階からトントンと先生が降りてきた。

「お帰りなさい」

「ただいまです!」

「そろそろ夕飯にしましょうか」

 そう言いながら先生は台所のテーブルに引っ掛けたエプロンを手に取って、すっと身に付けた。それから冷蔵庫を覗いて材料をいくつか手に取って手早く料理を始めた。

「あの、何かお手伝いとか」

「いいです。ひとりで支度する方が早いし楽なので」

「……わかりました」

 スパパと音がするような先生の手早さに私は出しかけた手を引っ込める。代わりに食事するであろう、テレビのあるリビングのテーブルを拭いておく。終わったらトコトコと先生の後ろ姿を見にいく。

「……見られていると作業がしにくいんですけど」 

「すみません、先生の手際がとってもいいので見ていて楽しくて」

 私には一目もくれずに手元だけを見て料理を進めていく先生。それでも私の視線で少し居心地悪そうにしているのがなんだか可愛くて、少しだけ笑みが溢れた。先生が汁物を温めると、ふわりと街中でよく感じる夜ご飯の匂いがした。

 ご飯ができたら支度をして、リビングのテーブルに食事を並べる。カツオの塊を人参やキャベツと炒めた野菜炒めに、お味噌汁。なんて言うか、よく言えば家庭的、悪く言えば質素だなと思った。でもとってもいい匂いで、お腹はペコペコだった。

 いただきますと先生が手を合わせたのに合わせて私も手を合わせて声に出す。テレビはつけっぱなしで、バラエティの楽しそうな笑い声が聞こえる。黙々と食べる先生を横目に、何か話題はないかとぐるぐる頭を働かせていた。

「先生って夜型なんですか?」

「なんですかいきなり」

「えっと、お仕事是非見学させていただきたいんですけど、いつお仕事してるのかなって思って」

 私がそう言うと先生は少し難しい顔をして、少し間を置いてから口を開いた。

「仕事は基本的に日中に済ませています。夜は自分の時間を取りたいので」

「えっじゃあ今日のお仕事は」

「もう済んでいます」

「えー! 先生のお仕事しているところを見学したくて来たのに!」

「迷惑です。業務妨害ですよ。そもそも毎日毎日書いてる訳じゃないです。ご想像とは違うかもしれませんが。今は次の作品について構想中なので。日中じゃないと編集さんと連絡もつきませんし」

「構想中……」

 その言葉を聞いて、なんだか本当にプロの方の仕事を垣間見た気がした。構想中。なんかかっこいい。

「構想中ってどんなことをするんですか」

「何もしません」

「えっ」

 わくわくと身を乗り出して質問した私をかわすように先生はもぐもぐと鰹を食べる。

「アイディア探しの段階なので、読書したりネットサーフィンしたりSNSを眺めたりとか、その程度です。たまに散歩したり車で出かけたりもしますけど」

「それって色んなところにアンテナをのばして次のお話に向けて自分の中に貯め込むことに集中してるってことですよね。すごい! やっぱりインプットって大切なんですね」

 プロのお仕事のお話に私が感動していると、先生は呆れたようなため息をついた。

「ものは言いようですね。実際ニートと変わりませんよ」

「ニートっていうのは勉強する意思も働く意思もない人を指す言葉ですから。先生のは執筆のための勉強でもありそれ自体がお仕事ですから、堂々とのんびりしっかりインプットしたらいいんですよ!」

 そういうと、ふわりと先生が私を見て、目が合った。どきりとしたけどそれはふいと自然に逸らされて、先生の目線は無表情でテレビへ移っていった。

「あなたは人生楽しそうですね」

 冷たく言い放たれたその言葉に、少し意味を捉えかねた。多分、皮肉だ。でもまあまあ楽しく生きている自覚があったので「はい!」と答えた。そうすると先生はキョトンと私を見て、それから堪えきれないというふうに笑い出した。何か変なことを言っただろうか。私の頭の上にはハテナが沢山浮かんだけれど、先生が楽しそうに笑っているのは私の想像とも出会ってからできたイメージとも違って、でもそれがなんだか素敵に思えて、どうでも良くなってしまった。

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