1話 僕、黒猫ショタになりました

いや――――――――


――――――先輩!


――――


ダメ――まだ―――気持ちも!


――――――――――――――

――――――――

――――

――





「おぎゃああああ!!!」


「(ほーら、よしよし!もうすぐママが来ますからねぇ!お乳はもうちょっとだけ待ってね……」


 目が覚めると、あれほど耐え難かった腹の痛みは消えており、謎の男性が僕のことを見下ろしていた。


「(マーちゃん!泣いてるよ!よしよし、もう少しの辛抱だよぉ!)」


 おかしい……さっきまで僕は夜の街を歩いていて、不審者に襲われた後輩を庇っていたはずだ。


 なんならその拍子にナイフが腹に突き刺さり、血がドバドバと流れていたのを覚えている。


「(あ、きたきた……マーちゃん!ご飯の時間だからあげて!)」


 それだというのに、今は腹の痛みも血も跡形もない。


 いったい何なんだ……もしかしてここは病院か?

 それともさっきまでの出来事はすべて夢で、居酒屋かどこかで酔いつぶれてしまい介抱されているだけなのだろうか?


 あまりにも不可解な状況に、まったく状況を飲み込めない。


「(なんだよまた泣いてんのか?ったく……こっちは体が鈍らないよう稽古で忙しいってのに……なぁ、別に乳じゃなくて肉を食わせれば済むだろ?)」


「(ダメだよ!まだ歯すらさえてないのに固形物なんか!離乳食ですらまだ早いんだから!)」


「(はいはい……冗談だって)」


 急すぎる展開についていけず、ただただ呆然としていると、猫耳の生えた筋骨隆々の女性が近づいてきた。


……何故に猫耳?


「(ほらダルク、乳をやるから口を開けな)」


 ボヨン!


「あぅ!?」


 なんとその猫耳女性は、上着を乱暴に脱ぎ捨てたと思うと胸を露わにした。


 しかも信じられないことに、その先端を僕の口へ押し付けるように迫ってくる。


「(飲まないのか?いつものやつだぞ?)」


 わかった……ここはエッチなお店だ!


 猫耳なんてふざけた格好に意味不明な言葉の応酬。雰囲気からして、外国人が運営する違法な風俗店とかなのだろう。


「(ダルク?飲まないと大きくならないよ?)」


 きっと泥酔して意識が朦朧とする中、そこのキャッチに捕まって入店したんだ。


 ああもう……酔った勢いで、僕はなんてバカなことをしてしまったんだ!


「(おかしいな……どうして飲まねぇんだ?お前の父親は毎晩楽しそうに飲んでるぞ?)」


「(うーん……あ、あれじゃない!さっきまでマーちゃん運動してたから汗臭いのが嫌なのかも。あと、子供の前で変なこと言わないで!)」


「めんどくせぇな……わかったよ。ちょっと汗拭いてくるから持っててくれ)」


 僕が授乳プレイを拒否し続けると、ケモ耳コスプレの女性は不満そうな顔をしてどこかへ行ってしまった。


 ユサユサ……!


 後ろ姿をよく見ると尻尾まできちんと生えており、歩くたびにゆらゆらと揺れている。


 地味に作り込みが細かい……まさかここは高級風俗なのではないだろうか。


 まずい……そんな大金持ってないぞ!


 後輩のことも心配だし、とにかく事情を説明して一刻も早くこの場から抜け出さなければ……!


「あうあうあう~~~!」


 意思を伝えようと必死に口を動かずが、思うように言葉が出てこない。


 それに口の中も変だ。いつも当然のようにあるはずの何かが、跡形もなく消えてしまっている。


「(ごめんねぇ……ダルク。お母さんはあんな感じでツンツンしてるけど、本当は不器用なだけだからね。ちゃんと愛しているからねぇ~!そーれ高い高い!)」


 困惑していると、突然ふわりと体が宙に浮かび上がり、男の背後に置かれた大きな鏡に自分の姿が映し出される。


「あえ?」


 その鏡に写る自分の僕の体は縮んでいた。


 頭からは獣の耳、腰からは黒い尻尾を添えて……



===================



「ダルク~!どこにいるの~」


 おそらく僕の名前を呼んでいる男性を遠目に見ながら、玄関近くの陰に隠れる。


 よし……状況を整理しよう。


 僕は飲み会の帰り道に謎の二人組に刺されて死んだ……と思う。


 あまり思い出したくはないけれど、あの全身から力が抜ける不快感はそういうことだったのだと思う。


 初めての経験だから、確証はないけど。


「ダルク~。悪い子は、大きい魔物が食べちゃうぞ~」


 そしてここは、元の地球ではなく異世界。言語が明らかに英語でも日本語でもないっていうのもあるが、何より……


 フヨフヨ……


「あうあうあう!(ああもう邪魔!)」


 何より決定的なのは、腰から生えた長い尻尾に、ふかふかの猫耳が生えていること。


 さっき引っ張ったら痛みを感じたので作り物ではない。正真正銘の僕の体の一部だ。


「ん……ふにゃ~!」


 今の僕は俗にいう狼人間……は違うか。ファンタジー作品でよく見る、獣人やワーウルフと呼ばれる存在に近いのだろう。


「あうあう?(これが異世界転生ってやつなのか?)」


 異なる世界で、別の姿として生を受ける――今こうして目覚めた僕は、間違いなく異世界転生を果たしたのだろう。


 はたしてこれが誰かの意図によるものなのか、それとも死ねば稀に起こる自然現象なのかはわからない。


 だが、正直なところそのことはあんまり気にしていない。


 前の世界に多少の未練は残っているものの、両親とは既に死別している。

 だから今のところ、比較的前向きに物事を考えられている状態だ。


「あう(それに……剣道で世界一を目指すっていう大事な夢も惨敗に終わったからな)」


【ザクッ!】


 きっと……これほど冷静でいられるのは、死ぬ瞬間をはっきりと体験したからだろう。


 あの腹を裂かれた瞬間の痛みや恐怖の記憶は、心に深く刻み込まれている。

 新しく生を受けた今でも時折悪夢となって甦り、夜泣きして家族を困らせてしまうくらいにはトラウマだ。


「あう(だからもう……元の世界はいいかな)」


 もし、唯一の未練を挙げるとすれば、後輩の玲奈のことくらいだろう。


 あいつとは長い付き合いだし、結婚式の祝辞くらいはしておきたかったな……でも、どういうわけかあいつ恋人を作らないだよな。


「96!97!98!99……」


 もう会えない後輩のことを考えながら窓の外を見下ろすと、あのとき胸を見せてきた女性がいた。


「はああぁぁぁ!!!!」


 ガタガタ……


 刀を振るたび、窓が大きく揺れる。


 僕と同じ色の耳や尻尾を持っているということは、あの女性はおそらく僕の母親なのだろう。


 遠くから見てもとても美人だ。


 整った顔立ちに、大きく見開いた緑色の目。腰まで伸びた髪と、筋肉のついた引き締まった体つきは、華奢な美人とはまた違う力強さと魅力を併せ持つ。


 いわゆる、“イケメン女子”と呼ばれる雰囲気をまとっていた。


「聖剣抜刀……疾風裂しっぷうれつ!」


 スパーン!


 母さんの持つ刀が大石を見事に一刀両断する……すご。


 てか、朝からずっと特訓しているけど、この世界には戦うべき相手でもいるのだろうか?


 バタン!


「え~ん!マーちゃん!ダルクが居なくなっちゃたよ~~~!」


「おい稽古の邪魔すんじゃねえよ!危ねぇだろうが!」


 お母さんを観察していると、玄関から背の低い男性が出てきてお母さんに抱きつく。


 あれが僕のお父さん。


 全体的に頼りなさそうで、なよっとした雰囲気を漂わせている。女々しいとでも言うのだろうか。そんなタイプの男性だ。


「だってだって!まだ1歳なんだよ!どこかで転んで怪我してるかもしれない……そう考えたら心配で仕方ないんだよ!」


「はぁ……ったく、しょうがねぇなぁ」


 なでなで……


「よしよし。私がついてるから大丈夫だよ。少しは落ち着けって……な」


 お父さんのあの感じで、どうやってオラオラ系のお母さんを射止めたのかとても気になる。

 僕が成長したら、二人の馴れ初めを詳しく聞いてみたいものだ。


 ガチャ!


「じゃあ、あいつの音を聞くから、ちょっと静かにしてろよ」


「うん!」


 家に入ってきたお母さんは剣を鞘に戻すと、玄関で動かずに目を閉じる。


「………」


 その姿は、まるで戦場をくぐり抜けた歴戦の戦士のようで、鋭い存在感と圧倒的な風格を感じさせた。


 ピコピコ……


 だが、そんな威厳ある佇まいを見せているのに、耳だけは落ち着かずにピコピコと動く。


 その可愛らしい仕草が面白くて、ついあのモフモフに手を伸ばしたくなる衝動に駆られた。


 さっき自分の耳を触ってみたけれど、なんか違うんだよな。

 まるでぬいぐるみの中の綿を直接いじっているみたいで、少し味気ない感じがした。


 ピコピコ……ツン!


「ふふふ……」


「おい、耳を触るんじゃねぇよ。集中できねぇだろうが」


「ご、ごめん、でもなんか面白かったから」


「そんなに私の耳が気になるのか?なら夜に好きなだけ触らせてやるから今は黙ってろ……な?」


「はい♡」


「聞き分けのいいワンチャンだ……いた」


 シュン……ガシ


「あう~!」


 一瞬で姿を消したかと思うと、隠れていた僕の体は宙に浮いていた。


「もごもごもごもごもごもご!」


「ちょ……マーちゃん!そんな運び方したら危ないよ!ちゃんと手で運んで!」


 お母さんはまるで子どもを運ぶ獣のように、僕の首根っこを口でがっちり咥えていた。

 牙が思いのほか深く食い込みちょっと……いや、正直かなり痛い。


「ぺ……獣人族はみんなこう運ぶんだよ。私も5歳くらいまではこれだったから平気だよ平気」


「ダメです!ダルクは男の子なんですから大切にしてください!」


 会話の内容はまだわからないけど、お父さんが何か言うたびに、お母さんはあからさまにめんどくさそうな表情を浮かべる。

 普段からよくこんな感じのやり取りしてるけど、もしかして仲が悪いのかな……。


 ギュッ!


 心配になった僕は、二人が離婚しないようにと願いながら、そっと二人の手をぎゅっと握りしめた。


 心機一転、この世界で生きていこうという決心も込めて……




 ギシギシ……♡ギシギシ……♡


 ちなみにその日の夜は、ベッドの軋む音が騒がしくてよく眠れなかった。

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