地獄無頼、川を渡る
友野 大智
序 我が息子、良き生まれ変わりを
等身大のカマキリのような、四本足と鎌を持った外骨格の生物が二頭並んでいる。二頭の首から垂れた鎖は四輪の神輿に繋がれ、その上に初老の男が座禅を組んでいる。足元は巨大な絨毯だ。
シェール・シャーは膝を付いた。
「そろそろご決断を、ジハーディ・バラバ」
そういってシェールは深く頭を下げた。
バラバは今夜のような悲しみを見せない男だ。その血走ったような深紅の目は、いつもなら全ての者をひれ伏させるような重い視線をシェールに投げかける。ジハーディの称号を持つに相応しい。
そのジハーディ・バラバが、俯いたまま
「ああ、そうだな」
などと小さく言うのだ。シェールは居たたまれなくなり、つばの広い愛用の帽子を深く下げるのだった。
バラバは今生の終わりのような大きな息を一つ吐いた。そして傍に立つ侍女に、手を伸ばした。皴の多いその手に、筆が手渡された。鉛筆ほどの太さの鉄の柄に、動物の毛皮が紐で巻き付けられたものだ。
シェールと侍女が見守る中、バラバは筆を立てて持ち、自らの額にゆっくりと近づける。筆が額に触れると、インクを付けずとも赤い光の点が浮かび上がる。
赤い光は筆の動きを追うように曲線を描き、次第にその輪郭を表す。
描かれた図形――その赤い目は、神の目だった。
「生きてる奴は道を空けろ!」
火山から赤く輝く液体が噴き上がる。爆音に彼の雄叫びが交わって、世界のあらゆるものを揺さぶった。
彼はカラスが飛ぶような高さの空に浮遊していた。熊のような巨体に虎のような筋骨を持ち、龍のような眼光が獲物を狙っていた。
地上には鉄の骸骨が一千体。魔術で動く機械兵だ。両目から赤い魔力の光が漏れている。頭蓋骨には同じく赤い光で描かれた手のひらの模様が、その自由を奪うように輝いていた。
同じ顔をして自らを見上げる骸骨たちを見て、彼は鼻で笑った。
「ふん、鉄屑が」
その鉄屑の群体に、一つのクレーターができている。半径五メートルに渡って機械兵が倒れ込み、立てる機械兵が周辺で押し合っていた。その中心に掴み合う二人――大砲を持った女と、持たない女だ。
「もういいでしょう、諦めなさい」
背中に波動砲を背負い込んだラニ・ハーヌムは、歯を食いしばりながら言った。筋肉の収縮で丸顔が強張っている。
「うるせぇ」
一方のチャンディ・クンワルは、自分よりやや大柄な相手を必死で押し返していた。腰にぶら下げた刀剣は錆びている。その代わり、黒い目の放つ眼光は鋭く輝いていた。
チャンディは不意に右半身の力を抜き、ラニを右側に受け流した。
横たわる機械兵の体に足を取られ、バランスを崩しかけるラニ。そこにチャンディの剣が一瞬だけ鈍い光を放つと、弾丸のようにラニを狙った。
反響しない金属音が鳴る。ラニが右腕に引き出した波動砲の背が、弾丸を押し止めた。
ラニは刀剣を押し返し、数歩下がる。兵士たちはわらわらと蠢き、ラニの下がる道を作った。
ラニの足が止まると、その等身ほどの波動砲がチャンディに向けられた。碌に照準も合わせない。白い光球が続々と飛び出し、逃げ回るチャンディの頬を掠めて機械兵をなぎ倒していく。
「味方がそんなに嫌いか」
チャンディは宙を回転して光球をかわし、足元の機械兵の破片をもぎ取ってラニに投げつけた。
破片はラニの左腕で弾き返される。波動砲は破片の飛んできた方を向き、今度は照準器がチャンディを捉えた。
チャンディは刀剣を逆手に持ち構える。そのまま光球と入れ違いに懐へ飛び込むつもりだったが、視界の端に微かな赤い光を認め、空を一瞥した。
空中に浮かぶ男。彼は機械兵の群れに向かって、左の掌を真っ直ぐ突き出している。その掌には牙を噛み合わせた口の模様が赤く光っていた。
口の模様が深い息を吸うように開くと、次の瞬間、その口から放たれた光線が機械兵の頭蓋骨に突き刺さった。飛散した鉄の骨片が周りの兵隊に降りかかり、ガラガラと音を立てる。
「バラバへ伝えろ。お前の息子の名はもはやバラバではない。その名は、アーグム・アッバースであるとな!」
彼は左腕に更に力を込めた。筋骨隆々の腕に太い血管が浮かび上がり、掌に一気に血流が巡ると、赤い光線は手と同じ太さにまで拡張された。
既に刺されていた機械兵は一瞬で骨格を四散させ、死の光線は更に円錐状に広がり、周囲の兵を次々と巻き込んでいった。彼らは命を知らない。逃げることもせず呆然と空を見上げ、仲間の破片を甘んじて浴び、そして自らも文字通りの鉄屑になっていった。標的を見失った光線は足元の岩を掘り崩し、礫岩はスクラップと混ざって噴き上がる。それら何も知らず突進してきた後続の機械兵に襲い掛かり、足を取られた兵士と共に再度光線を浴び、最後にはもはや原型のわからない屑になっていった。
あたり一面が白煙で覆われる。
「おいお前!」
煙の中から叫びと咽る声が同時に飛び出した。チャンディは口元を押さえたまま、伏せた体を立て直した。
アーグムは光線の出なくなった左手首を振りながら、チャンディを横目で見た。
「流石に生きていたな」
「何笑っていやがる!」
「それでいい、伏せていろ」
言うと同時にアーグムは、左腕を後方に伸ばした。
開いた掌にはやはり口のマーク。その向く先には古ぼけた荷台があり、中に丸い石盤が無造作に転がっていた。中央に緑の石が輝き、その周囲に迷路状の溝が掘られている。
「来い!」
アーグムが叫ぶと同時に掌の口が開き、虎を思わせる叫び声が響いた。同時に、石板の溝と緑の石が、血を流し込んだように真っ赤な光を放った。
光の迷路は一気に大きく広がると、その中心から巨大な影が飛び出す。
古今東西誰が見ても邪悪なものと分かるであろう、曲がった角に扇形の翼。尾は長く太く、脚はもっと太い。長い首、小さな目に大きく裂けた口、不揃いの牙に長い舌。
その影は大きくきりもみ回転しながら、まさにアーグムを丸のみにせんとするかのごとく突進した。
そのアーグムは宙を蹴ってひらりと舞い、その悪魔の背中に乗る。
右腕と左腕を突き出すと、それぞれの掌に口。そして悪魔には大口。
チャンディの小さな体が勝手に震えた。
「やべぇ!」
身を屈めた。正解だった。
地獄の挽歌のような不協和音と共に、三つの口から赤い光線が放たれた。三本のレーザーは触れるもの全てを業火の一部に変え、曲がりくねった炎の道が地面を駆け巡った。
散る火花に消し炭の臭い。ラニは波動砲の砲口をべったりと地面に付け、放心していた。
レーザーを吐きながら暴れるアーグムと悪魔は、シェールから見るとまるで有名な黄金の怪獣だった。
振り返ると、ジハーディ・バラバの筆は役目を終えかけている。額に第三の目を宿した男の周りには、円い魔法陣が囲っていた。前に口、右は鼻、左は耳、後ろは目が描かれている。そして両手の甲には、それそのものより少し小さい手の紋章が光っていた。
バラバは筆を侍女へ放り投げた。
「シェール、行ってくれ」
そして自らは本来の目を瞑り、額の目で前を見た。
恐らく、シェールの小さな首肯は彼には見えなかっただろう。
「仰せのままに、ジハーディ・バラバ」
シェールは静かに前を向き、帽子を整えた。そして黒手袋の両手を絨毯に添えると、絨毯は淵からふわりと浮き上がった。
巨大な神輿は絨毯と共に浮かび、ゆっくりと前進した。静かに、しかし強く加速しながら、悪魔を駆る息子に直進する。
シェールは強い風に帽子を押さえた。
バラバが両手の平を強く合わせると、周囲の魔法陣が赤い光を放った。
「
唸るようなバラバの叫び声。
チャンディは膝を落としたまま機械兵と組み合っていたが、その叫び声を聞いて天を仰いだ。頭上を通り過ぎる黒い影。
咄嗟に機械兵の側頭部を蹴り飛ばし、足元の瓦礫を踏んでアーグムの方へ駆け出した。
「おい、避けろアーグム!」
チャンディの叫びはアーグムに届かない。
悪魔に跨り機械兵を掃討するアーグム。その真下に神輿の影が重なったとき、魔法陣の赤い光が悪魔を捉えた。
赤白い光の柱が、悪魔と神輿を縦に貫いている。
チャンディは中空のアーグムに思わず手を伸ばした。
悪魔の影が一瞬で小さくなり、小さな流れ星になって石盤へ帰った。
光の柱に一人取り残されたアーグムの影は、声にならない叫びを上げて、すぐ下の父を振り返った。
「ジハーディ・バラバ!!」
その目は命をその体に押し留めんと、大きく見開いていた。
神輿はアーグムを残して前進した。光の柱は消え、男の影は落ちる。大男が落下した瞬間、大きな音と共に土砂と瓦礫が高く舞い上がった。
チャンディが駆け寄ってアーグムの顔を覗くと、まだかすかに息がある。
「何やってんだよお前!」
チャンディはアーグムの頬を何度も叩いた。
アーグムの息は鈍い。肩を上下させ、ゆっくりとチャンディの顔に手を伸ばした。
小さな声で言った。
「おい、まだだ……俺は……。お前……諦めるな……」
アーグムの手は、チャンディの左手の中に落ちた。
目は開いていた。
チャンディは右手で大地を殴った。
「あああクソっ! なんで、まじかよ!」
そして天を仰いだ。目が潤んでいた。
機械兵たちは動きを止め、直立不動になっていた。バラバの決死の呪文を邪魔しまいと、シェールが停止していたのだった。
ラニも機械兵たちに紛れて、ぼんやりと立っていた。
そして神輿を乗せた絨毯も少しずつ速度を落とし、空中で静止した。
シェールはそっと、バラバの方へ振り返った。
消し炭色になった魔法陣の中央で、バラバは膝に手を付いていた。表情はシェールにはわからない。
ただ、消えかかった声で
「我が息子、良き生まれ変わりを……」
とだけ呟いていた。
ここに、ひとりの豪族の息子が死んだ。
……いや、まだ終わりではない。
このときは誰も気が付いていなかった。骸のように見えた男の、首元を飾っていたペンダントが、微かな緑色に明滅していたのだった!
話は変わって、別の世界。この悲劇のあった世界のずっとずっと上空の、空の天辺を覆う岩石の層を抜けた先、地球の表面の話――。
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