④屋上(2/8)

「⋯⋯で、できた」

 走らせていたペンを止めて、麻耶はようやくひと息ついた。思いの丈を綴った便せんを半分に折り、同じ柄の封筒におさめてシールを貼る。やっとできたラブレターを見て、恥ずかしさと期待で胸が熱くなる。これを受け取ったとき、彼はどんな顔をするだろう。

 書き間違えていないか確かめるうちに、放課後の図書室には夕陽の柱がおりていた。窓の外はグラウンドを走る運動部をのぞいて人通りはなく、校内はすっかりからっぽのようだった。気づかなかった。こんなに遅くまで残っていたなんて。もしかしたら自分が最後かもしれない。あわてて荷物をまとめて図書室をあとにした。この手紙は、明日がんばって渡そう。

 時々すべりそうになりながら、階段を駆けおりる。最後の段を跳び越えて息を整えていると、廊下に人影があるのに気づいた。男子生徒。背中を向けていて誰なのかわからなかったが、学年ごとに色のちがう上靴は同級生のものだ。どこかで見たことがあるような気もしたが、思い出せない。

 荒れていた息が落ちついたところで、つぎの階段をめざす。まだ人がいたことに安心したせいか、足取りも自然とゆるくなった。さきほどの男子生徒は廊下の角をまがって足を止めている。そのとき見えた横顔に、麻耶はおもわず踏みだしかけた足を戻した。

「春坂くん⋯⋯⁉」

 遠目ではっきりと見えないが、ほぼ間違いない。あの落ち着いた歩調は、いつも遠くから見ていた彼のものだ。麻耶はかばんにしまい込んだ手紙を確かめると、ぐっと息を呑み走り出した。なるべく足音をたてないように慎重に。人がほとんどいない今なら、人目を気にせず手紙を渡せるかもしれない。

 彼は、受け取ってくれるだろうか。嫌がらないだろうか。どきどきと熱い鼓動をうつ胸の内が漏れないように、がんばって走った。

 あとすこしで春坂に追いつこうかというところで、ピアノの旋律が聞こえてきた。

 知らない曲だった。どこかで聞いたことがあるような気がしたが、途中から馴染みのない曲調に変わる。ときに幼子がくるくるとダンスを踊るように明るく、ときに風が逆巻くオーケストラのように激しくしたたかに。

 人が、いる。

 たどり着いたのは音楽室。入口の前に春坂がひとり立っていて、ドアのすきまから様子をうかがっているようだった。橙色の光と、彼がまぶしそうに手をかざすのが見えて、夕陽がまぶしいのだろうと思った。

 ピアノの演奏が、不意に止まる。

「入っていい? ちょっと物を取りにきたんだけど」

 春坂が、音楽室にいる誰かにたずねる。麻耶には何も聞こえなかったが、相手が了承する声が聞こえたような気がした。

 このまま彼を待とうかと思ったが、ここにいたら不審者のように思われるだろうか。麻耶はちょうど目の前にあった準備室に身を隠して、彼が出てくるのを待つことにする。がんばって書いた手紙をなくさないように、制服のポケットの中に入れた。

 春坂はなかなか出てこない。話し声のようなものが聞こえたが、その内容までは麻耶には聞こえなかった。

 しばらく待っていると、春坂がなにやら教科書を持って出てきた。音楽室からもカーテンを閉める音が聞こえて、施錠するのだとわかった。春坂に声をかけようとあわてて準備室から出ようとしたが、

(えっ⁉)

 おもわず出そうになった声をのみこんで、麻耶は見つからないように体を丸めた。音楽室から人が出てきたからだ。男子生徒。上靴を見るに高等部三年生。麻耶や春坂の先輩だ。もしここで春坂に声をかけたら、先輩に見られるかもしれない。それはすごく恥ずかしい。

 ドアのすき間からそっと覗いて、先輩がいなくなったのを見計らい廊下に出た。すぐに春坂を探したが、見つけることはできなかった。


「で、結局渡せなかったの?」

「⋯⋯う、うん」

 休み時間。麻耶がきのうのでき事をありのままに話すと、英莉は頬杖をついてため息を吐いた。心底呆れているとでも言うような態度。

「それなら、あいつの靴箱に置いてくればよかったのに」

 英莉の追い打ちがずしんとのしかかって、麻耶は深々と机に沈んだ。言われてみれば、そういう方法もあるなと思う。そこまで思い至らなかった自分がなんだか恥ずかしくて、穴があったら丸呑みにされてしまいたかった。もしかしたらあれが手紙を渡せる最初で最後のチャンスだったかもしれないのに。

 英莉は頬杖をついたまま、うーん、と考え込んだ。たぶん今後のことを考えているのだと思う。英莉は麻耶が手紙を書くときも、SNSでずっとアドバイスをしてくれていた。いつも愚痴を聞いてくれて、困っていたら一緒に考えてくれて頼もしい。強気な態度に圧倒されることもあったが、麻耶にとってはとてもかっこいい女子だった。

 あ、と英莉が声をあげて、人差し指をたてた。

「音楽室にいたっていう、その先輩に何か聞いてみたら? 春坂と仲がいいのかもしんないよ」

「ごめん。先輩の顔よく見てないし、クラスもわかんない⋯⋯⋯⋯」

「ピアノが弾ける先輩、って聞いたらわかるんじゃない?」

「でも、その先輩が弾いてたとは限らないし⋯⋯ただ曲を流してただけかもしれないし⋯⋯」

「ああ⋯⋯そう」

 ふたり一緒に深いため息をついた。どんなに考えても名案なんてなにも浮かばなくて、いっそのことインターネットに頼ってみようかとブラウザアプリを起動したが、その画面を数秒見つめて麻耶はスマートフォンを伏せた。手紙の無難な渡し方や告白の仕方を調べても、自分の不安が消えるわけではないから。たとえどんなにいい方法が見つかっても、誰かに見られると考えただけで、まるでストーカーに怯えるように体が凍りついてしまう。

 こんなことなら、もういっそのこと優香に託してしまおうか。優香は春坂と同じクラスだから、彼女のほうが渡しやすいかもしれない。でも、それは最終手段。できれば自分の手で渡したかった。

 そうやって悩んでいると、何を思ったのか、英莉はなにかを決意した顔でスッと立ち上がる。彼女の真剣なまなざしが麻耶を見下ろした。

「行こう、麻耶」

「え?」

 どこに行くかもわからないまま、英莉の腕にしがみついてついていく。昼食休みほどじゃないが廊下には生徒がたくさんいた。楽しく語らいながら、教材をもって移動する女子たち。あの教員はうざいと愚痴をこぼす男子。中には、可愛らしいヘアピンやアクセサリーで着飾っている生徒もいる。なんだか自分が場違いな空間にいるような気がして、英莉に遅れまいと早歩きでついていった。

 しばらく歩くと、英莉は優香のクラスで立ち止まった。もしかして優香に相談するのだろうか。教室のすみでクラスメイトと話す優香の姿をみとめ、あそこにいるよと英莉の肩を叩いたが、とうの彼女はそちらに見向きもしないで、ちょうど教室の出入口で立ち話をしている男子に話しかけた。

「ねぇ、春坂いる?」

(えっ⁉)

 麻耶は今にも悲鳴をあげて、学校の外まで吹き飛んでしまいそうだった。そんなとんでもない心境になっているとはつゆ知らず、男子は英莉と麻耶を交互に見てふしぎそうに瞬きをすると、答えるかわりに教室にいる全員に呼びかけた。

「おーい! 春坂いるか〜⁉ 女子がお呼びだぞ〜!」

 人を冷やかすようなおふざけの笑いを含んだ声はとても大きく響いて、その恐ろしい所業に、麻耶は母を求める幼子みたいに英莉にしがみついて震えた。まさか、ここで渡せというのだろうか。人目もあるのに。男子の問いに答えたのは、窓ぎわに集まっていた女子グループの一人だった。

「さっき遠藤ちゃんに呼ばれてたから、たぶん職員室じゃない? さては英莉、春坂に告るの?」

「何でそうなんの。ないない。一生ない。ちょっと金でも借りようかなって」

 のんきに話す英莉とは反対に、麻耶の心境は只事じゃなかった。これは────少なくとも麻耶にとっては────世界が滅ぶに匹敵する重大な事件だった。

「ちょ、ちょっとえりちゃん。もしかしてここでやるの? む、むりだよ私⋯⋯こんなに人がいる中で⋯⋯」

 だれもいない所まで英莉をひっぱって、まわりに聞こえないように小さい声で言うと「だから大丈夫だって、戻ってくるまで待とう」と英莉は笑う。全然大丈夫じゃないよ、と麻耶は涙ぐむ。手紙は渡したいけど人目に触れる場所は嫌だ。春坂くん、どうか戻ってこないで────と心から願った。

「あれ? ふたりともどうしたの? 麻耶ちゃん、ちょっと落ち込んでる?」

 そこに、馴染みのある女子生徒が心配そうに近づいてきた。ピンクのショートカットをふわりと揺らした優香が、英莉と麻耶の顔を交互に見て首をかしげた。

「優香ぁ⋯⋯たすけてぇ⋯⋯えりちゃんが⋯⋯」

 彼女ならきっと、強引じゃない方法を考えてくれる。麻耶は突如現れた救世主に、安心感と不安が入り混じった顔で抱擁を求めるように両腕をのばした。英莉が経緯を話すと、優香は麻耶の頭をやわらかな手つきでなでながら目をまるくする。

「お手紙書けたの? 麻耶ちゃんすごいねぇ、渡そうとしたなんて」

「どうしたらいいと思う? あたしがかわりにあいつのこと呼び出そうかなって思ったんだけど、何やっても麻耶がすぐ怖がりそうでさ」

「じゃあ、私がかわりに渡そうか? 彼と同じクラスだし」

「で、でも⋯⋯⋯⋯」

 麻耶の手は自然とポケットに触れて、そこに入っている手紙の存在を確かめる。麻耶も同じことを考えたが、自分の気持ちを他人に代弁させるような事はあまり気が進まなかった。

「それいいんじゃない? 麻耶もどう?」

「で、でも⋯⋯⋯⋯」

「麻耶ちゃんの名前は書いてるんだよね? だったら春坂くんも、麻耶ちゃんからだってすぐわかるし大丈夫だよ」

「でも⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」

「麻耶、これがだめなら、いつどうやって渡す気?」

「うっ! じゃ、じゃあ⋯⋯⋯お願いしてもいい?」

 不安と臆病にはどうしても勝てなくて、ふるえる手で封筒を差し出した。強く握ったせいで、便せんがしわくちゃになっていないか不安だったが、優香はしっかりと受け取って「絶対に渡すね」と笑った。

 そのときだった。

「ねぇ、あそこ」

 英莉が麻耶の肩を叩いて廊下の奥を指さす。ちょうど春坂が教室に戻ってきたところだった。じゃあ行ってくるね、と優香はくるりと背を向けて、まっすぐに春坂のもとへ向かう。優香に任せたまま教室に戻るなんてことはできなくて、英莉と一緒にドキドキしながら様子を見守った。教室はざわざわとしていたけど優香が春坂を呼ぶ声がはっきりと聞こえて、麻耶の心臓は苦手な蛇を見つけたかのようにドキリと強く飛びはねた。

 ちょうど席につこうとした春坂は、自分を呼ぶ優香に気づいて顔をあげる。優香の背中に隠れてしまい、二人がどんな顔で話しているのかまったく見えなかったが、しばらくして優香が離れると封筒を持っている春坂が見えて、麻耶の顔はカッと熱くなる。優香はスキップでもするような軽い足取りで戻ってきて、ゆるんだ口元を隠しきれないといった様子で、

「どうかな?」

 と、封筒を机にしまっている春坂を指し示した。彼のもとに、自分の手紙がある。それがなんだか信じられなくて、今にも涙が出そうになるのを麻耶はぐっとがまんした。

「優香、あの⋯⋯ありがとう⋯⋯。本当にありがとう⋯⋯!」

 あとは彼の返事を待つだけ。

 そう思っていた。

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