第10話 可愛い後輩少女ちゃん。
放課後のチャイムが鳴り終わった校舎に、文化部棟の一室だけが静けさを保っていた。
木の机が並ぶ空き教室。使われていない黒板の端には、いつのものかチョーク跡がかすかに残っている。窓の外には夕陽が傾き、古びたガラス越しに赤い光が斜めに差し込んでいた。
「優璃さん、遅いですね……」
「待ち合わせの場所ってここで合ってるんだよね?」
「ええ、だと思います。空き教室自体が少ないですし」
私はその光を避けるように壁際に立ち、神崎さんと優璃を待っていた。指定したのは優璃自身なのに。
「ホームルームの後、私には“先に行ってて”とだけ残して、どこかへ走り去っていっちゃいましたから……」
「ああ、なるほどね。……まあ時間までは決めてなかったし、気長に待つしかないね」
そういうのは、いつものこと。私はこぼれそうになったため息を飲み込み、ゆっくりと壁にもたれかかる。
「なんだか、慣れている感じがしますね」
「そりゃあね。幼なじみだし、付き合いだけは長いから」
「……少し、羨ましいです」
……羨ましい? どこが?
そう聞こうとして神崎さんに目をやると、彼女はどこか遠い目で窓の外に視線を漂わせていた。——不思議と、見惚れてしまうのはなぜだろう。
そうしているうちに、何秒、何分もの時が流れたのだろう。教室の扉ががらりと開いた。
「お待たせ〜! じゃじゃーん、連れてきたよ!」
元気よく飛び込んできた優璃。
その後ろからばたばたと姿を現したのは、見覚えのない女の子だった。走る優璃の後を必死に追ってきたのだろう、肩で大きく息をしている。
優璃と比べて小柄。おそらく一五〇センチあるかないかぐらい。肩までのボブをサイドの小さな星形の髪留めで留め、ぱちぱち瞬く大きな瞳に、胸元でぎゅっと握りしめた両手。
——第一印象は、愛くるしい小動物のようだった。
「中等部の生徒……となると、うちの学校の、ということですか?」
「そそっ。インスタグリムのプライベート垢で誰か当てないかな〜? って呼びかけてたらね、一番に声をかけてくれたの」
正直、昼休みのメッセージは話半分に受け止めていたが、あの『なんとかなりそう』は真実だったらしい。「いやあ、助かったよ」と笑顔の優璃に、愛香ちゃんと呼ばれた子は少し自嘲気味に笑う。
「私は、もし本当に……どうしても、まったく当てがない——となれば力になりますよ。と伝えたつもりだったんですが、あっさりと……」
どうやら、そこそこ無理やり連れてこられたようだ。私と同じように。……ちょっとした同情が芽生える。
「いやいやっ、これも何かの縁だよ。それに、まったく知らない子よりも愛香ちゃんなら私も知ってるしね〜」
どうやら、優璃とは元々の知り合いのようだった。うちは中高一貫校。後輩に顔見知りがいても不思議ではない。
——無論、私には優璃のような顔の広さは存在しない。昔から、彼女の周りには知らない間に知らない人間が集まっていた。
「だから、愛香ちゃんからみんなに自己紹介してもらっていい?」
「あ、はい……! 私、平良愛香です。中等部に通っている三年生です。よろしくお願いします」
「私は神崎芽美です。よろしくお願いします」
「は、はいっ。もちろん、噂はかねがね……! お会いできて、嬉しいです……!」
神崎さんが先輩らしい優しい微笑みを浮かべると、愛香ちゃんと呼ばれた彼女は感激したように目を輝かせた。
——やはり、神崎さんの噂は中等部にまで届いているらしい。
私と優璃のような中等部からの内進生とは違い、神崎さんは外部生。芸能科を受験するという話は、早いうちから広まっていた。
都心といえど、芸能科のある学校は珍しい。優璃も最初は私と同じ普通科がいいと言っていたが、私が考えを改めさせた。
最近は、雑誌やテレビからもオファーがあるんでしょ。そういう立場なんだから、芸能科に進んだほうがいいに決まってるでしょ——と。
そのおかげで、高校からは私に一時の平穏が訪れた。もしそうでなければ、優璃とは別の学校を本気で検討していただろう。
理不尽な嫉妬や嫌悪を浴びるのは、もううんざりだった。……ただ、その平穏も長くは続きそうにはないのだけど。
「噂……というのはどういうものがあるんですか?」
「はいっ! 例えば、先日から優璃さんと付き合い出したって噂が——」
「そ、それは……! あまり、言わないでください、恥ずかしいので……!」
「あははっ、芽美、照れてる? かわいいねえ」
……と、そんなことは正直どうでもよくて。
自己紹介の流れに遅れてしまった私は、盛り上がる三人に割り込むようにして声を出した。
「私は綾川凪沙。よろしくね」
その瞬間、声をかけられた彼女の視線が私に向いた。細められた瞳は——なぜか睨まれているように見えた。
「……どうも」
ふっと一息吐くだけで消えてしまいそうな小さな声。そのまま、ぷいっと顔を逸らされる。
——え、なんで?
優璃や神崎さんに向ける柔らかさとは対照的に、私への態度だけが妙に冷たい。
この子に私、何かした? ……いや、そんなはずはない。記憶を探ってみても、面識の覚えはない。
「あっ、それでね、愛香ちゃんのお父さん、プロのカメラマンなんだって!」
「あ、はいっ。それはそう……なんですが、私自身はカメラが特別上手なわけじゃなくて。役に立てるかは……」
「じゅーぶん、じゅーぶん! 私たち、芽美以外は素人だしさ!」
「いえいえ、私も自分たちで撮影——となると素人同然です。ええっと……平良さん、何か気になったことがあれば、気にせずどんどん言ってくださいね」
「そ、そんなの無理ですよっ。……あっ、それと、私のことは愛香って呼んでください! 下の名前で! 気楽に!」
「ふふっ。わかりました、愛香さん。では、私のことも下の名前で呼んでもらえますか?」
「それは……いいんですか? で、では——め、芽美先輩っ、ありがとうございますっ!」
——その違和感に、二人は気づいていないらしい。
「もう、こうなれば……優璃先輩と芽美先輩のためなら私、喜んで協力します……!」
……まあ、気のせいか。
にこにこと後輩らしく、愛嬌のある笑顔で会話が続いていく。
「よろしく、愛香ちゃん」
私も試しに呼んでみる。
「私のことも——」
「あ、はい。よろしくお願いします。綾川さん」
下の名前でいいよ——と言い切る前に、三オクターブほど低い声が食い気味に返ってきた。しかも、視線は妙に冷たい。やっぱり、私にだけ棘が……当たりが強い気がする。なぜだ……!?
私は、可愛いものと面白いものが好きだ。その点、愛香ちゃんは可愛い。ちょっとショックだ。まさか、見知らぬ後輩にまで嫌われていたとは。理由がわからないのも、余計に。
「よしっ。じゃあ、顔合わせも終わったし、今日は——」
そんな私の気も知らずに、優璃は黒板に向かってチョークを走らせ始める。
——嗚呼、前途多難。
……どうやら、私の高校生活の脚本家はかなり意地悪らしい。
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