県大会1回戦①
斧中かなこの圧倒的な勝利に観客のざわめきがまだ収まらない中、隣の18番コートでは彼女の対戦相手を決める試合が静かに幕を開けていた。
トスの結果、白石のサービスから。
しかし――こちらの試合も一方的な展開になりつつあった。
セルフジャッジの大会なので、審判の声はない。
静まり返ったベースラインに、白石さんがボールを手に立つ。
ファーストサーブ。トスを上げて振り抜く。
だがボールは大きくサービスラインを越えてしまった。
「フォルトです」
レシーバーの茂部さんが淡々と告げる。
セカンドサーブもトスがぶれてネットにかかる。これでダブルフォルト。ポイントは茂部へ。
次のサーブは何とか入ったものの、力なく相手コートへ届いただけ。スライスやスピンなどの変化も乏しく、茂部にとっては容易に処理できる平凡なサーブだった。
観客席からささやき声が漏れる。
「普通のサーブだな……」
「強いって聞いてたけど、本当なのか?」
「一ノ瀬が目をかけてるって聞いたけど」
……あらぬ噂まで飛び交っている。
なんとかラリーに持ち込んでも、白石のストロークやボレーはネットやアウトを繰り返していた。
調子は上がらず、茂部が一方的にポイントとゲームカウントを重ねていく。
白石のミスが続き、ゲームカウントは4-0。
リードを広げた茂部は油断せず、冷静に狙いを定めてバックサイドに深く打ち込む。
「……これで決める」
素早く前に詰め、ネット際で勝負に出る。アプローチだ。
(ここはバックハンドで慎重に繋げるだろう……えっ?)
その瞬間、白石さんはラケットを振り抜いた。ダウン・ザ・ラインへのバッシングショット。
しかも両手ではなく――片手で。
――パシィンッ!
乾いた音。
フォロースルーは目を奪うほどに鮮やかだった。
「今の……片手……!?」
観客席がざわめく。
一ノ瀬も思わず息を呑む。
だが、放たれたボールはベースラインを大きく越えてアウト。
その時の白石さんの表情を、一ノ瀬は見逃さなかった。
ほんの一瞬、肩を落とした姿が――ちょっと悔しそうに見えたのだ。
(……白石さん、調子が出てない。やっぱり試合前に練習できなかった影響か。序盤だからサーブもストロークも安定していない。でも――あのバックハンド。フォームは整っていた。スイングの形も悪くない。けど、スピンがかかっていない。ボールを押してるだけだから浮いてアウトになる。典型的な“未完成の片手バック”だ)
隣で見ていた後輩がぽつりと口にする。
「片手で打つ選手って、珍しいですよね」
一ノ瀬は頷き、視線をコートに向けたまま答えた。
「そうだね。女子じゃまず見ないし、男子でも少数派だ。トッププロでも数えるほどしかいない。昔は片手の選手が多かったけど、今は両手が主流になっている」
後輩は目を丸くした。
「へぇ……じゃあ、片手で有名な選手って今はいないんですか?」
「逆に誰が思い浮かぶ?」
「……やっぱりフェデラーですか」
「あぁ、そうだ。もう引退したけど、まるで芸術のような試合運びで観客を魅了したレジェンドだ」
「テレビで観たことあります。強いのもそうですけど……プレーひとつひとつが美しいんですよね」
「そうだな。でも彼ですら、一時期は“バックハンドが弱点”なんて言われて狙われていた。それくらい片手ってリスクのある選択なんだ」
「難しいんですね……」
「本人も確かインタビューで『自分の子どもがテニスを始めるなら両手から習わせる』って言ったよ。それくらい扱いが難しい」
「なるほど……」
「でも彼はキャリアの後半、その弱点を克服するどころか武器に変えた。『ネオバックハンド』と呼ばれていて、高く跳ねあがってくるボールを高く跳ねる前に叩く…強烈なライジングショットに進化させたんだ」
「ネ、ネオバックハンド……」
「なんかよくわからないけど、凄そうですね」
「年齢も30代後半、引退してもおかしくない時期に、彼はその技術を完成させたんだ」
後輩たちが少し目を丸くしている。自分の熱量が出てしまったみたいだ。
後輩たちは小さくつぶやき、再び目の前の試合に視線を移した。
一ノ瀬も同じように彼女を見つめながら、胸の奥で疑問を抱えていた。
(白石さんのバックハンド……安定感は欠けているけど、基本的なフォームはしっかりしている。……それでも、なぜ片手なんだ? ただの憧れなのか。それとも彼女なりのこだわりがあるのか――)
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