つるし雛
この話は、江戸風俗の研究家の方が語ってくれました。瓦版に掲載されたある事件が気になって、独自に詳細を調べられたそうです。
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向島での花見の後、
いい感じになって遊女も甚右衛門にされるがままになっていた。遊女の首筋に唇をそわせていた甚右衛門だったが、艶かしく乳房をなでていた彼の長い指が、するりと遊女の首を包み込んだ。そして遊女に馬乗りになると、そのまま少しずつ手に込める力を強めていく。
「じ……甚さ……ん……?……げっ……が……!」
甚右衛門は端正な顔を上気させながら、遊女を見下ろす。視線だけで孕むと揶揄される切長な目をとろんとさせながら、次第に頭に血が登り赤くなっていく遊女を嬉しそうに見ている。
遊びじゃない……。遊女は身の危険を感じて必死に抵抗する。運良く、船が揺れて甚右衛門の態勢が崩れた。
遊女は渾身の力で甚右衛門を跳ね除ける。突き飛ばされた甚右衛門は「おっと。」と呟いて畳の上に転がった。
強かに壁に頭をぶつけて「痛たた……。」と頭を撫でていると、遊女は、はだけた着物のまま取り乱しながら障子を開けた。
「下ろしとくれ!殺されちまう!早く下ろしておくれ!」
と船頭と幇間の兵六に泣きつく。
船頭は困った顔をしながらも、何とか近くの岸に寄せた。遊女は岸につくと悲鳴をあげながら船を飛び降り、そのまま逃げ出していってしまった。
遠ざかる遊女の背中を見送りながら兵六はため息をつく。
「……甚様、またやりましたね……?茶屋の婆さんに叱られますよ?」
と首を振る。
憐れみの目を向けてくる兵六と目が合うと、甚右衛門は頭を掻きながら「へへへ……。」と子供っぽい笑みを浮かべた。
※ ※ ※ ※
井筒屋甚右衛門は井筒屋の次男坊だ。
井筒屋は代々反物で身を立てていたが、甚右衛門の祖父の頃から材木問屋や金貸し業を始め、今では押しも押されもせぬ大店となった。
父・
だが、兄や番頭たちは、甚右衛門に一目置いていた。甚右衛門には、不思議な商才があった。
茶屋で偶然顔見知りになった良いとこの旦那と打ち解けて話しているうちに、新しい商売がうまくいかなくて……という愚痴を聞いた。甚右衛門は「そしたら兄に紹介するよ。」と言って一筆書いた。
すると、家業の方でもちょうどその方面に手を伸ばそうとしており、良いとこの旦那の事業はトントン拍子に上手くいって大喜びをした。
またある時、十両を賭けて、強面の旦那飲み比べをした。甚右衛門はザルだから涼しい顔で旦那に勝ってしまった。その御仁は義理堅い人だったが、十両払う時は流石に渋い顔をしていた。
それに気づいたのか、甚右衛門はその十両で酒宴を開き、強面の旦那を招待した。
そして「うちにちょっかいを出すチンピラがいてね。どうにかしてもらえれば綺麗どころを紹介しますよ。」と和かに酌をした。
実はこの強面の旦那、名の知れた任侠で、その頃、井筒屋にたかっていたチンピラを悉く黙らせてくれた。その上、井筒屋を贔屓にして、その後もゴロツキがよらない様に便宜を図ってくれた。
こんなふうに、やる事なす事いちいちが、家のため、商売のためになる。これはもう天賦の才だと言うことになり、隠居した大旦那も、甚右衛門の放蕩を好きにさせていた。
甚右衛門自身も、自分のそうした才に酔っているところがあり、潤沢な実家の財を湯水の様に使って淫蕩な生活を送っていた。
そして、使った金銭以上のものを着々と手に入れ、甚右衛門の人生はまさに順風満帆といった感じであった。
だが、そんな甚右衛門にも、ひとつだけ……どうしようもない「癖」があった。
※ ※ ※ ※
「……困りますよ、甚さん。あれほどおイタはお控えくださいと申しましたのに。あんまり続くとみんな怖がっちまって遊べなくなってしまいますよ。」
母親の様に小言を言いづける女将に苦笑いを向けながら、すまない、もうしないから勘弁してくれ、と甚右衛門は謝り続けた。こうしていれば女将が許してくれる事を、甚右衛門はよく知っていた。
甚右衛門ほどの太客はそれほどいない。
お大名ですら、甚右衛門ほどの豪遊をできるものは数えるほどしかいなかった。だから、多少歪んだ癖があったとしても、茶屋は甚右衛門を無碍にできない。
それに……女将は甚右衛門に惚れている。
実は何度か女将を抱いている。最初は向こうが誘ってきたのだが、甚右衛門はむしろ積極的に抱いた。いつも険のある女将が甘えてきたのが、可愛く見えたのだ。
女将も女将で、旦那がいるにも関わらずこんな事をしたのは、女の性が抑えられなかったからだ。
甚右衛門は、色男だった。
絵草紙屋に請われて題材になったこともある。
細面で色白。切長の目に長い睫毛。右の目元にホクロがあって、それがまた何とも色っぽい。おそらく、女形でも演じさせれば大人気になろうと思えるほどの美形だった。
仕立てのいい着物を着て、粋に羽織を肩に乗せ、煙管で一服……絵にならないわけがない。
そんなこんなで女たちの方で放っておかなかったし、礼儀正しく求められれば、どんな相手でも甚右衛門は受け入れた。
だから女将も、惚れた弱みか、甚右衛門には甘かった。
ひとしきりの小言を吐き終わると、女将は「甚さん、次は頼みまよ。」と甘い声をかけて立ち上がった。
無論、甚右衛門が持参したお詫びと遊女への見舞いの入った包みを、大事そうに懐にしまうのを忘れなかった。
忙しそうに立ち去る女将を見送ると、甚右衛門は兵六を伴って茶屋を後にした。
外は少し暗くなり、静かに風が吹いていた。
「すっかり遅くなってしまいましたな。ささ、こちらへ。」
幇間の兵六はいつもの調子で甚右衛門の先行きを請け負うと、提灯を灯して歩き出した。
先走って咲いた桜の花びらが、風に吹かれてちらほらと舞い、甚右衛門の前を通り抜けていく。
薄紅色の花弁を見た時、甚右衛門の心に一人の遊女の顔が浮かんだ。
オドオドとした目、派手さのない表情、辿々しい手つき。たった一年前のことなのに、ひどく懐かしく思えた。
先をいく兵六に、甚右衛門は、
「やっぱり俺は……小袖の様な女が一番いい……。」
と呟いた。
それを聞いた兵六は一瞬、思わず足を止めて固まった。
――これだ。この人の、こう言うところが恐ろしい……。
喉の引き攣りを何とかやり過ごすと、兵六は「左様でございますか。」と返し、再び歩き出した。
いつも通りのフリをしていたが、兵六の心の臓はバクバクと揺れていた。
「小袖」……聞きたくない名だった。
それはちょうど一年前、甚右衛門が自ら手にかけた遊女の名前だった……。
※ ※ ※ ※
小袖と甚右衛門が出会ったのはニ年前の秋の事だった。
その日、廓は大忙しだった。甚右衛門が呼ぼうと思っていた馴染みの太夫はお大名のお相手をしていて、女将は変わりの者はいかがかと勧めてきた。
その日の甚右衛門は、何となく他の馴染みを頼む気になれなかった。日を改めても良かったのだが、それも味気ない。
「今日はしんみり飲みたいんだ。地味で大人しい子を一人つけてくれないか。」
と女将に頼んだ。
すると女将はしばらく考えた後、
「そしたら……甚さん、ちょいとお願いしたいことがあるのだけど。」
と切り出してきた。
何でも近々水揚げする子がいるが、どうも臆病でいけない。優しい甚さんに相手して貰えば度胸もつくだろうから、お酌をさせてもらえないだろうか、と頼まれた。
女将を信頼していたから変な子ではないのはわかっていた。だから甚右衛門は気前よく了承した。
揚屋の座敷に案内され酒や肴が運ばれてくる。禿や若衆がテキパキと場を整えて下がると、くだんの新造が静々と入ってきた。
なるほど、確かに地味な女だ……と甚右衛門は思った。
着ているものはもちろん豪華だ。店の沽券に関わるから衣装の全てが美しい。だがそれに包まれた新造はどこかあどけなく、垢抜けしきっていない
そして、顔つきも平凡なものだった。おそらく太夫にはなれないだろう。それでも緊張した面持ちで甚右衛門の前に来た。
女将から、甚右衛門がどれほどの太客か聞いていたのだろう。「小袖です。」と名乗ったその声は震えていた。
甚右衛門は優しい。彼女の緊張をほぐすために声をかけると、煙草を一服頼む、と言った。
よく教育が行き届いていると見えて、小袖は手際良く煙草の用意を始めた。
その初々しい背中を、盃をあおりながらぼんやりと眺めていた甚右衛門は、次の瞬間、うっ、と目が釘付けになった。
綺麗な首筋だった。
椿油で結い上げられた髪の生え際から、白粉を塗られた細い首筋が、スッと伸びていた。
甚右衛門の中で、ドクンっと何かが突き上げた。
甚右衛門の、悪い癖だった。
美しい首筋を見ると、加虐心が疼く。
誰でもいいわけではない。瑞々しい肌、細く儚げな見た目、体とのつり合い。好みがあるが、それにみあった首筋を見ると、思わず手を掛けたくなる。
小袖の首筋は、甚右衛門にとって堪らなく魅力的に見えた。一瞬、指を小袖の首に絡めたい衝動に駆られて立ち上がりそうになった。
慌てて目を逸らすと、酒を煽る。
この悪癖は、小さい頃から甚右衛門の中にあった。何故そうしたいのか、自分でもわからない。でも、一度その衝動が突き上げると、自分でも抑えが効かなかった。
それでも、できるだけ外には出さなかった。一度、奉公人の女の子に思わずやってしまい、大騒ぎになった。子供の喧嘩で済まされ、大事には至らなかったものの、母親にこっぴどく叱られた。
でも、廓遊びを覚えてからは違った。
肉欲に身を委ねていると、歯止めが効かなくなる時がある。そして困ったことに、それを受け入れる遊女がチラホラいた。
そのせいで、甚右衛門の悪癖は次第に膨張していった。最初は普通に付き合う。でも、相手が甚右衛門に依存し始めると、そして相手が素敵な首筋をしていると、女を試す様に首に手を掛けた。
もちろん、受け入れる女の方が少ない。
でも構わない。フラれたところで女は沢山いる。それに、数少ない理解者となった女たちと楽しめば良い。
なんなら一度逃げた女も、もうしないと約束すれば、甚右衛門の元に戻ってくる事がほとんどだった。
それほど、甚右衛門の権力は大きかった。
だから甚右衛門の悪癖は、誰にも止めることができなかった。
小袖を気に入った甚右衛門は、彼女の水揚げが済むと、馴染みとなった。
そして、普段と違い、少しずつ小袖を追い詰めていった。
小袖に自分の名前を貸して高価な買い物をさせ、自分がいなければ支払いが滞る様にした。店の者に手を回して小袖を孤立させた。他の客を遠ざけ、店での価値は「甚右衛門の遊女」となる様に仕向けた。
逃げ場を無くし、絶対に断れない状況にして、甚右衛門は小袖に、自分の悪癖を晒した。
初めて小袖の首に手をかけた日、褥の中で小袖は豹変した甚右衛門に戸惑い、恐怖の顔を浮かべていた。
徐々に強くなる手の力に本能が抵抗し、何とか外そうとする。
でも、反抗する小袖の手は弱々しく、苦しそうに喘ぎながらも、跳ね除けようともせず、ただ一筋の涙が目の端から伝うのを見て、甚右衛門はこれまでにないほどの多幸感に包まれた。
やがて泡を吹きながら気を失った小袖を見下ろしながら、自分のいちもつが、かつてないほどいきり勃っている事に、甚右衛門自身が驚いた。
こうして、甚右衛門と小袖の、奇妙な夜の営みが始まった。
甚右衛門は、事が済めばいつも通り小袖に優しくなり、小袖の方も、甚右衛門を責めたりせず、ただ静かに甚右衛門の相手をしていた。
少なくともひと月に一度、甚右衛門の中の闇が膨らむ。そして呼び出された小袖は、青ざめた顔で甚右衛門の前に現れた。
その様子を見ても、小袖がこの関係を恐れている事がわかった。
だが困ったことに、甚右衛門にとって、その反応までもが、これまでどの女にも感じことのないほどの、愛おしさを抱かせた。
一年ほど続いた二人の関係は、小袖が国に帰りたい、と申し出たことで崩れ始めた。
小袖はいじらしい事に、女将よりも先に甚右衛門にその事を告げた。
褥から出てさめざめと泣きながら、布団で煙管を蒸す甚右衛門に、小袖は必死に額ずいて懇願した。首筋に残る締められた跡が痛々しい。
「甚右衛門様、後生でございます。どうか国に帰らせてください。お借りしたものは命を削ってでもお返しします。でも……もう……耐えられない……。」
甚右衛門は小袖が本気なのを知っていた。
ここの所、妙に痩せ細り、目の落ち窪みが目立っていた。店の者から、小袖がまともに食事を取れず、昼に寝ていても泣き叫びながら目を覚ます事があると言う話を聞いていた。
甚右衛門は暗い目をしながら煙管を蒸していた。半眼で小袖を見つめ、無表情に紫煙を燻らせていた。
小袖はその無言が怖かった。甚右衛門の顔を見れない。見れないが、そこに、この世のものと思われないほど恐ろしい顔がある事を、小袖は知っていた。
「そうかい……そいつは寂しくなるねぇ。」
甚右衛門はポツリとこぼした。
なんて事のない、穏やかな一言だった。でも、小袖にとっては、その何気ないひと言の裏にあるものが怖かった。
おずおずと顔を上げると、甚右衛門の美しい顔に穏やかな笑みが浮かんでいた。
「いいんだよ、小袖。金の心配なんぞすんねぇ。ただ、俺の方にも都合ってもんがあるからな。桜の咲く頃まで、待ってくんな。なぁに、お前さんの気持ちはよく分かった。これからは、もうお前さんに、酷いことはしないよ。」
そう言うと、甚右衛門は小袖にそばによるように手招きをした。小袖は躊躇いながらも寄ってくると、甚右衛門の腕に抱かれた。
暖かな甚右衛門の腕に包まれて、小袖は目を閉じると、
「甚右衛門様……堪忍……堪忍してください……。」と泣きながら呟いていた。
震える小袖をそっと撫でていた甚右衛門だったが、その目に浮かんでいるのは地獄の炎のような色だった。臓腑が煮えたぎるほどの憤怒を抱え、甚右衛門はどうするべきか、じっと考えていた。
いよいよ小袖が国に帰る日が近づいた頃、小袖の元に甚右衛門の使いが来た。甚右衛門はあの日から通いが少なくなり、ここひと月はほとんど来なくなっていた。
ただ「見舞いだ」と言って小袖宛に多額の金子が送られてくるため、小袖は女将に追い出されずに済んでいた。
使いが差し出したのは甚右衛門からの文だった。
「お前さんには世話んなった。最後に二人きりで花見がしてぇから、付き合ってくんねぇ。」
と言った文が来た。
文には、「お前さんとの別れを惜しんでメソメソしてると世間に知られると恥ずかしい。お忍びで来てくんな。」とも書かれていた。
だからこの日の夕方、小袖がどこに出かけたかを知る者はいなかった。
日が落ち始める頃、外出用の着物に着替えた小袖は、こっそりと廓を抜け出した。待っていた幇間の兵六の案内で、甚右衛門の文にあった小高い丘に連れてこられた。
その丘の上には、とんでもなく大きな桜の木が鎮座していた。辺りには誰もいない。
桜の下に朱の敷物が敷かれ、ぼんぼりが辺りを照らしている。花明かりと相まって、まるで桜の木そのものがぼんやりと輝いているような、幻想的な風景がそこにあった。
敷物の上で、甚右衛門は肘掛けに身を委ねながら漆器で酒を煽っていた。小袖が来たのを見つけると、
「おお、来たか。さあ、こっちにおいで。」
と嬉しそうに盃を持ち上げた。
戸惑う小袖をよそに、兵六は「ささ、どうぞこちらへ。」と甚右衛門の元に行くように促した。
甚右衛門の粋な所はよく理解している。でも、この大仰な席に、小袖は違和感を感じた。でも当然ここから帰ることもできない。
甚右衛門の満面の笑みに不気味さを感じながらも、彼に寄り添うと、勧められた器を受け取り、小袖は酒を煽った。
何か問おうと思って口を開きかけた小袖の口に指を当てると、甚右衛門は首を振った。
「お前さんとの最後の夜だ。静かに飲もうじゃねぇか。」
と言って、新しい酒器を手に取ると、小袖の盃に酒を盛った。注がれた酒を断るわけにもいかず、小袖はそれを飲んだ。
しばらくして、小袖は自分の体の異変に気がついた。
喉が痺れる。手足の先がピリピリと痺れ、クラクラと目眩がして身を起こしていられない。
酔ったのかと思った。でも違う。酒精にしては効きが早すぎる。何が起こっているかわからないまま、気がつけば小袖は地面に手をついて喘いでいた。
その様子を、甚右衛門は冷ややかに見下ろしていた。
その視線に気がつき、小袖はやっと理解した。甚右衛門に薬を盛られたのだ。次第に自由が効かなくなる体で這っていると、甚右衛門が声をかけてきた。
「安心しねぇ。死ぬような毒じゃねぇや。しばらく動けなくなるだけだ。死んじまったら、お前さんを呼び出した意味がねぇからな。」
そう言って、甚右衛門は自分の酒を飲み干すと、持っていた盃を投げ捨て、這っていた小袖を蹴り上げた。
仰向けになった小袖に馬乗りになった甚右衛門は、嬉々として小袖の細首を締め上げ始める。
遠慮のない暴力に、小袖は舌を出して苦しむ。甚右衛門はその様子を見ると「おっと、いけねぇ。」と言って手を離した。
喘ぐ小袖の手を取って地面に押し付けると、小袖に顔を寄せながら、甚右衛門はこう言った。
「あぶねぇ危ねぇ。すぐ終わっちまう所だった。今夜はじっくり楽しまねぇと。
小袖、お前との別れを一瞬で終わらせちまうなんざ、悲しすぎらぁ。だからよ……。」
甚右衛門は怯える小袖の唇を奪うと、内に巣食う鬼を解き放った。
「簡単に死なねえでくれよ。」
………………
日が登り始めた頃、甚右衛門は小袖から奪い取った腰紐を、一番太い桜の枝に結び終えた。
ギシィ…… ギシィ……
朝日が桜を燃え上がらせ、小袖だったものを照らし出すと、甚右衛門は寂しそうに笑った。
「綺麗ぇだなぁ……小袖。まるで
真っ青な顔で後始末をしていた兵六は、その言葉を聞いた瞬間、吐いた。
つい先程まで目の前で繰り広げられていた地獄絵図が、頭をよぎったせいだ。
それでもよたよたと片付けている兵六の傍で、甚右衛門はいつまでもソレを眺め続けていた。
※ ※ ※ ※
「甚右衛門、親父様が来る。姿勢を正せ。」
床の間に飾られた縮緬のつるし雛を眺めていた甚右衛門はハッとすると、座り直した。
珍しく、傍に兄が座っている。いつ見ても堅苦しく凛としている。コイツにゃ暗い部分なんてねぇんだろうなぁと思いながら、再びつるし雛に目を向ける。
あの後、役人には小金をつかませ、浮浪者を一人、下手人として突き出した。それで、小袖の件は闇に消えた。
目立たない遊女が、不用意に夜出歩いて、狼藉者に襲われた。世間の評価は、それで終いだった。
女将も手塩にかけた遊女の悲劇を憂いてはいたが、小袖が辞める直前だったこともあって、数日経つともう普段通りに戻っていた。
世の中は、あっという間に小袖を忘れた。
なのに……もう一年も経つのに、甚右衛門の心の中に、隙間風が吹いている。
あの後、しばらくは何も感じなかった。いつもの様に淫蕩に、面白おかしく暮らしていた。
だが時が経つにつれて、どこか無性に虚しさを感じる。
どれだけいい酒を飲もうとも、どれだけいい女を抱こうとも、一向に気は晴れない。
気がつけば、出会ったあの日の小袖の首筋ばかりを思い浮かべている。
俺もヤキが回ったかな……と自嘲気味に頭を掻いていると、井筒屋の大旦那、甚右衛門たちの父である宗兵衛が人懐こい笑顔を浮かべながら部屋に入ってきた。
「待たせてすまないね。中村屋さんのご隠居と話し込んでしまった。お前たち、変わりはないかね?おお、それは良かった。」
よくこの朗らかな人間からこの兄弟二人が生まれたなと思うほど、宗兵衛はお人よしに見えた。だが、これで商いはしっかりこなす。祖父を助けて井筒屋をここまで大きくした手腕は確かだった。
兄弟は礼儀正しく親父殿の世間話を聞いていたが、宗兵衛はおもむろに本題を切り出した。
「そうそう、宗左衛門と何度も相談して決めたんだがね、甚右衛門、お前さん、そろそろ身を固めなさいな。そして、お前に店を一つ任せたい。」
甚右衛門は急な話に驚いて横にいる兄を見ると、兄は静かに頷いた。
事の次第はこうだ。
商売が手広くなってきたから、店を増やそうという話が出た。日本橋あたりに店を構えるという話が出たが、周囲の商店と懇意になる必要があった。
そこで、ある商家のお嬢さんと甚右衛門で祝言をあげて、より強い結びつきを作ろう、という話が出たらしい。
「お前ももういい歳だ。いつまでも放蕩ばかりしているわけにもいくまい。ここらで身を固めて、わしを安心させておくれ。なぁに、お前の才は宗左衛門も認めとるし、優秀な手代もいる。大船に乗ったつもりで、引き受けておくれ。」
丁寧に頼まれているような格好だが、親の命令は絶対だ。たとえ甚右衛門と言えども、断ることはできない。断りなどしたら勘当され、甚右衛門は一文無しになるだろう。
「父上、信頼していただき、ありがとうございます。不肖甚右衛門、謹んでお受けいたします。」
と頭を下げることしか出なかった。
「そうかそうか!引き受けてくれるか!よう言うた、甚右衛門。今日は門出だ。久しぶりに飲もうじゃないか。」
と、宗兵衛は喜び女中に酒肴を運ばせた。
久々の家族団欒はぎこちなくも、宗兵衛の人柄で華やいだ会話が交わされた。
甚右衛門も周りから見れば、流行りの芝居の話などを交えつつ、会話を楽しんでいるように見えただろう。
でも甚右衛門の心内は違った。
耳の奥がぐわんぐわんと鳴って会話の内容が頭に入ってこない。
料理や酒も、砂でも噛んでいるかのように味がしない。
人を魅了する笑顔を浮かべてはいたが、自分を縛ろうとする抗えない運命に、心の中で在らん限りの呪詛を並べたてていた。
※ ※ ※ ※
しばらくして、甚右衛門は盛大な酒宴を開いた。
とんでもない大金を叩いて茶屋を貸し切り、どんちゃん騒ぎは三日三晩続いたと言う。
甚右衛門の顔見知りのほとんどが招待され、酒池肉林の大騒ぎになり、後半になると素性のわからないものまでが混じって勝手に飲み食いしていた。
その中心にいて、甚右衛門は淫蕩の限りを尽くした。
大いに飲み、大いに食い、大いに交わった。
三日目の晩が静かに朝日を迎えようと準備を始めたころ、甚右衛門はむくりと起き上がった。
あたりを見回すと、男も女も、客も女郎もみな死んだように折り重なって倒れている。どいつもこいつも、見慣れぬ顔をしていた。
ふらふらと立ち上がると、甚右衛門は白み始めた街へと歩き出した。
朝の冷たい風を浴びながら、流行りの
あたりはまだ誰も歩いていない。人も動物も、皆まだ静まり返っていた。
甚右衛門は、どこに向かうでもなく幽鬼のようにふらりふらりと歩く。
――俺は一体、どこに向かっているのだろうな……。
酒浸りの頭で問いかけても、誰も答えてくれる者はいなかった。
ふいに、誰かが通りを横切った気がした。
気だるげに首を持ち上げた甚右衛門の目が、建物の影に消える寸前の人影を一瞬捕える。
女だ。花魁の衣裳を着ている。あんな格好なのに、まるで小走りで走り抜けたように、すぅ……と通り抜けた。
そして……とてもきれいな、うなじをしていた。
甚右衛門は一瞬呆けた。
あの首筋に、見覚えがある。
いや、違う。「見覚えがある」どころではない。見間違うはずがなかった。
甚右衛門は小走りに駆け出し、花魁の消えた角を覗き込んだ。通りのずっと向こうの方で、また花魁が角を曲がったのが見えた。
その人影をみて、甚右衛門は駆け出した。
間違いない……あの背格好は……あの細い首は……小袖だ。
そんなわけがねぇ……という頭と、いや間違いない……という感情が、甚右衛門の中でせめぎ合っている。
ふらつく足もとが次第に冷えていくのを感じながら、甚右衛門は一心不乱に人影を追った。
気が付くと周りに人家は無く、小高い丘を目指して走っていた。
視線の向こうに、すぅと遠ざかる錦のような姿が見えた。
――待ってくれ……待って……お前が何であってもいい……人違いでもいい……。
――ただ……お前と話がしたいんだ……。
甚右衛門は必死で人影を追いかけ、とうとう息が切れて足を止めた。膝に手をついて息を整える。
そして次に顔を上げたとき、自分が、あの桜の木の前にいることに気が付いた。
差し込む朝日が、大桜の輪郭を光でなぞる。
得も言われぬ美しさに見惚れた甚右衛門の目に、桜の下に用意された紅い敷物と垂れ幕が目に入った。
そして……敷物の上に、煌びやかな服を身に纏った小袖が座っていた。
――これは夢か?俺は夢を見ているのか?
甚右衛門は何も考えられないまま、小袖に近づいた。
生まれて初めて、怖い……と感じた。
でも、何が怖いのか、よくわからなかった。
死んだ小袖がそこにいるのが怖いのか。
殺してしまったことへの後悔が怖いのか。
誰かに自分の罪がばれるのが怖いのか。
それとも……これが幻で、小袖がもう一度、自分の前から消えてしまうのが怖いのか。
自分の感情がわかないまま近づいた甚右衛門に、小袖は静かに笑って手を伸ばした。
その無垢な笑顔を見た瞬間、甚右衛門は身体の力が抜けて小袖の前にストンと膝をついた。
そして、小袖が導くままに仰向けに寝そべると、小袖の膝の上に頭を乗せた。
目の前に、満開の桜が広がっていた。明けきっていない青みががった空と、少しずつ白んでくる空の間で、桜は端然と咲き誇っていた。
そしてその横に、やさしく微笑む小袖の顔があった。出会った頃の、儚げでおとなしい、素朴な笑顔だった。
その笑顔を見つめているうちに、甚右衛門は自然と言葉が漏れ始めた。
「……なあ、小袖。今更だけどな……。」
甚右衛門は自分が何を言おうとしているのか、よくわからなかった。でも、言葉は勝手に彼の口から漏れ出ていた。
「俺は多分……お前と添い遂げたかったんだ。……すまなかった。」
甚右衛門がそう呟いても、小袖は表情を変えず、ニコニコと甚右衛門を見下ろしていた。
「許してくれとは言わねぇ。でも……聞いてくれて……ありがとな。」
小袖の手がスッと伸びて甚右衛門の頬を包んだ。
温かくやわらかな指先の感覚を感じて、甚右衛門は目を閉じた。
目を閉じ、視界が遮られた瞬間、ふと、甚右衛門は違和感に気が付いた。
――待て。
――いや、待て。おかしい。何かが、おかしい。
――なぜ小袖がここにいるんだ。
――なんで俺を見て微笑んでいるんだ。
――あんなことをした俺を、小袖が許すはずがない……。
体中がサァーっと冷えていくのを感じる。先ほどまでの温かさは微塵もなくなり、体中をぞわぞわと悪寒が走る。
次第に荒くなる鼻息が抹香の香りをとらえ、背中にごつごつと固い感触を感じた。
甚右衛門は脂汗を浮かべながら、ハッと目を開けた。
目の前に、腐りかけた小袖の顔があった。
血走った眼玉が片方から垂れ下がり、頬の肉が削げて骨が見えている。
口元に血の筋が走り、首の周りに残った腐肉が、奇妙にひしゃげていた。
そして……小袖だったものは甚右衛門と目が合うと、にいぃぃぃぃっと笑った。
甚右衛門は悲鳴を上げることもできないまま、口を
心臓が張り裂けそうなほど脈打ち、口から出てきそうだ。
頭に血が上り、目が痛いのに動くことができない。
それもそのはず、甚右衛門の頭を、骨と皮だけになった手が、がしりと掴んでいた。
「な、なぁ……小袖、聞いてくれ。俺は今度、店を持つんだ……。世帯持ちにもなる……。だから……頼む……見逃してくれ……俺と……お前の仲だろう?」
小袖の顔が、甚右衛門の顔に近づいてくる。
眼窩から血の涙を溢れさせ、頬をつたい、ポタポタと甚右衛門の上に落ちてくる。
頭を抑えていた手が、ギリギリと甚右衛門の骨を軋ませながら、次第に顎に移り、やがて甚右衛門の首に巻き付いた。
小袖の口が微かに開き、生臭い腐臭が甚右衛門の顔にかかる。そして掠れた音で何かを呟いた。
甚右衛門の耳には、なんと言ったかわからなかった。
だが、甚右衛門は小袖が何を言おうとしたか、わかった気がした。
小袖はこう言ったのだ。
『離しませんよ。甚右衛門様が息絶えるまで。』
真っ暗な冥府の中に、甚右衛門の最後の命乞いが響き渡った。
※ ※ ※ ※
兵六は女の手を押し除けて起き上がると、大きな欠伸をした。酒宴の途中から、甚右衛門のそばを離れてしまった。一生分の精力を全部使い果たすほどに乱れたが、自分の役目を忘れたわけではない。
甚右衛門に朝の声をかけるのは、自分の役目だと兵六は自負していた。
座敷を埋め尽くす酔い潰れ達を跨ぎながら、甚右衛門がいるであろう座敷に進む。大変な騒ぎだった。もはや転がっている御仁がどこの誰なのか、兵六にもわからなかった。
襖は開け放たれていた。寝転がる遊女の顔を見て、ああ、多分この部屋だなとあたりをつけて兵六は声をかけた。
「甚様、起きてください。そろそろお開きでござんすよ。大店の旦那になるんですから。締めはきっちりしませんと。甚様、聞こえてますか?」
反応はない。流石に疲れ果てて寝てるんだと思い布団を剥ごうと近づく。
「甚様、ほら、顔を洗いましょう?甚様?」
べちゃっ
布団に手をかけた兵六は、気色の悪い感触に、うぇっと声を漏らすと自分の手を見た。
兵六の手は、真っ赤に染まっていた。
兵六は最初、「ああ、誰かが紅のツボでもぶちまけたのかな」くらいに思っていた。
洗えば落ちるかなぁと辟易しながら布団を見下ろして、固まった。
赤い襦袢でも落ちてるのかと思っていた。
そうではない。白いはずの布団が、真っ赤に染まっているのだ。
血で。
「じ……甚様?甚様!どうなすった!甚様!」
兵六は慌てて布団を捲りあげた。捲りあげて凍りついた。
布団の中には、首のない男の死体が転がっていた。はだけた着物に見覚えがある。甚右衛門の着物だ。
兵六は自分の見ているものが信じられず、わなわなと震えながら、浅い息を繰り返していた。
ぱたっ ぱたたっ
すぐそばで、畳に何かがこぼれる音がした。雫がポタポタと、数滴ずつ落ちる音がする。
ひぇっ、と怯えながら兵六はその音の方に目を向けた。
畳に血溜まりができている。
そして……その血溜まりの上に視線を向けた時、兵六の悲鳴が廓全体に響き渡った。
それは……力任せに引きちぎられた、甚右衛門の生首だった。
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