第21話 君を想う、夏の終わり
僕らは、人の波を避けながら、ゆっくりと歩き出した。屋台の店じまいをする声や、子どもが親に抱かれて眠る姿がちらほらと目に入る。祭りの終わり特有の、どこか切ない空気が漂っていた。
川沿いの細い道を並んで歩くと、虫の声が静かに響いていた。浴衣の裾が風に揺れ、一夏の髪にかんざしがかすかに揺れる。その仕草ひとつひとつが、僕の目には鮮明に焼きついていく。
「ねえ、理久」
「ん?」
「⋯⋯さっき言ってくれた言葉、ほんとに嬉しかった」
一夏は歩きながら、小さな声で言った。
「私、理久に出会えてよかった。もし出会ってなかったら⋯⋯きっと、こんな夏を過ごすこともできなかったと思う」
「俺もだよ」
僕はすぐに応える。
「俺、一夏に会わなかったら、ずっと一人で部屋に閉じこもってたかもしれない。笑うことも、誰かと並んで歩くことも、全部忘れてた。だから⋯⋯俺の方こそ、ありがとう」
その言葉に、一夏は足を止めた。暗がりの中で、彼女はじっと僕を見つめる。その瞳にはもう涙はなく、代わりに静かな光が宿っていた。
「⋯⋯ねえ、理久」
「うん」
「もし、私がいなくなっても、ちゃんと前を向いてね。⋯⋯でも、今はまだ、こうして隣にいるから」
僕は胸が詰まりそうになった。喉の奥に熱い塊が込み上げる。けれど逃げるように笑って、彼女の手を強く握った。
「そんなこと、今は考えなくていい。今は⋯⋯一夏と歩いてる、それだけで十分だよ」
一夏は少し驚いた顔をして、やがてふっと笑った。
「そうだね。⋯⋯理久が隣にいてくれるなら、私、どこまでも歩いていける気がする」
二人はまた歩き出した。川面には月の光が揺れ、夜風が心地よく頬を撫でていく。
途中、小さな橋の上で立ち止まり、二人で川を覗き込んだ。水面には、先ほどまでの花火の残像のように、赤や青の光が漂っているように見えた。
「花火の欠片が、まだ残ってるみたいだね」
一夏の言葉に、僕は頷いた。
「うん。⋯⋯まるで俺たちの心みたいだ」
一夏は少し照れたように笑い、また歩き出した。
家の近くにたどり着いた頃、祭りのざわめきはもう聞こえなくなっていた。静かな夏の夜に、二人の足音だけが響く。
「今日は、すごく楽しかった」
「俺も」
「また、来年も一緒に見られたらいいな」
一瞬の沈黙が落ちた。彼女が自分で言った言葉の重みを、きっと理解しているからだ。僕はまた、胸が締めつけられた。
けれど、真剣な声で答えた。
「⋯⋯見よう。来年も、再来年も。俺は、一夏と一緒に見たい」
一夏は少し目を見開き、そして静かに微笑んだ。
「約束、だね」
二人はそこで立ち止まり、小さな指切りを交わした。夜空にはもう花火はなかったが、僕の胸の中には確かに光が灯っていた。
それは、どんな夏の夜よりも温かく、そして永遠に消えることのない輝きだった。
玄関の明かりが灯る。
一夏と別れ、僕はひとり自分の家の扉を開けた。冷房の効いた空気がふわりと流れ込み、外の熱気が一気に押し返される。
靴を脱ぎながら、僕はまだ握っていた右手を見下ろした。花火の下で握った、一夏の小さな手。もうそこにはないのに、温もりは確かに残っていた。
部屋に戻ると、ベッドの上に仰向けに倒れ込む。天井を見つめながら、祭りの一つひとつの場面が脳裏に蘇った。
屋台を巡って笑い合ったこと。綿菓子の甘さ。提灯の赤に照らされた浴衣姿。
そして──花火の下で交わした言葉。
僕は顔を手で覆った。思い返すだけで胸がいっぱいになり、涙が滲みそうになる。
「⋯⋯忘れるわけ、ないだろ」
小さく呟いた。
あの告白は、自分の中で永遠になった。彼女の声も、震える指も、笑顔も。全部が鮮明で、失いたくない宝物だった。
携帯を開くと、一夏から短いメッセージが届いていた。
「今日はありがとう。すごく幸せだった」
僕は何度もその文字を読み返し、指先が震えるほどの思いを込めて返信を打った。
「俺の方こそ。来年も一緒に、必ず見よう」
送信ボタンを押すと、胸の奥に静かな決意が芽生えた。
彼女の笑顔を守りたい。儚い時間を、できる限り長く繋いでいきたい。
──その頃。
一夏もまた、自分の部屋で浴衣を脱ぎ、鏡の前に座っていた。髪のかんざしを外すと、ふわりと肩に落ちる。
鏡越しに自分の顔を見ると、頬が赤く染まっているのが分かった。花火の光を浴びて泣いたせいかもしれない。けれど、それ以上に理久の言葉が胸に残っているからだ。
「⋯⋯来年も、再来年も、か」
口の中で繰り返す。
嬉しくて、切なくて、どうしようもない感情が込み上げる。余命を思い出すたびに胸は痛むのに、それでも希望を信じたくなる。
理久が隣にいる限り、未来はまだ続くのだと信じられる。
ベッドに潜り込み、スマホの画面を開くと、ちょうど理久からの返信が届いた。
「俺の方こそ。来年も一緒に、必ず見よう」
一夏の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。けれどそれは悲しみではなかった。
「⋯⋯ありがとう、理久」
声に出して呟き、胸に抱くようにスマホを抱えた。
外では、虫の音が静かに鳴いている。夜風がカーテンを揺らし、夏の匂いが部屋に入り込む。
二人は別々の場所で眠りにつきながら、同じ花火の光を心に残していた。
その記憶はきっと、永遠に消えない。
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