第5話 心が潮、満ちる
海の帰り道、一夏が言った。
潮の香りがまだまだ髪に、絡みついていて、夕暮れの光が、横顔を柔らかく照らしていた。
「理久くん、学校、行ってみない?」
「⋯⋯急になんで?」
一夏は、少し遠くの海を見つめていた。
その横顔には優しさと切なさが交錯していて、心が締め付けられるような思いがした。
彼女は、いつも明るく振る舞うけど、彼女の背負っているものを、知っているだけに、僕は、その言葉の重さを、感じざるを得なかった。
「だって、私はともかく、理久くんには将来があるでしょ? 私、理久くんは特別な何かを、持ってる気がするの」
「俺はそんな大したものは、持ってないよ」
「いや、持ってるんだよ。分からないだけで」
「⋯⋯それに俺が、行ったところで、何かが変わるわけじゃないし」
「変わるよ。君が変わる」
彼女の目は真剣だった。
「君は、まだまだ、生きてる。だから、逃げちゃダメ。私も、逃げない。だから、君も、逃げないで」
「⋯⋯俺は、生きてるけど。けど、もう学校には、戻れないよ」
「戻れない、じゃなくて、戻らないだけじゃない?」
彼女の声は優しかった。責めるでもなく、諭すでもなく、
僕は、何も言い返せない。
僕は俯き、砂に靴先で線を引いた。波が寄せて、あっさりと消えてしまう。
「⋯⋯一夏がいなくなったら、どうやって学校なんか行けって、言うんだよ」
ふっ、と一夏は笑った。
「いなくなる前に、行ってみればいいじゃん」
心臓が、一瞬だけ強く脈打った。
彼女は、もう一年しか生きられない。それなのに、僕に"前に進む理由"をくれる。
彼女は、肩をすくめて、また前を向いて歩き出した。
その背中が少し小さく見えて、けれど、やけに眩しかった。
「行ってみるよ」
僕は、背に向けてそういった。彼女は振り返らず、手だけをひらひらと振った。
夕焼けに染まる帰り道で、僕は初めて、明日を思い描こうとしていた。
その夜、僕は、久しぶりに制服を出した。ほこりを払い、アイロンをかけた。
次の日の朝。母が目を見開いた。
「理久⋯⋯?」
「行ってくる」
学校までの道のりは、長く感じた。足がすくむ。でも、一夏の声が、頭の中に響いた。
「逃げないで」
教室に入ると、ちょっとしたざわめきが起こった。
「あれ、誰?」
「あー、入学式にいなかった?」
無視して、自分の席に座った。
担任が驚いた顔で、近づいてくる。
「筧くん、来てくれたんだね⋯⋯。あれだったら、別室を用意するけど、大丈夫かい?」
「今まで心配と迷惑かけました。でも、今日から、来ます」
先生は、しばらく黙ってから、頷いた。
「迷惑なんて、とんでもない。勿論、歓迎するよ」
夏季補習が終わり、いつもの時間になるまで、時間をつぶした。
「あっ!制服だ!」
彼女の明るい声が聞こえた。
「ちゃんと、学校行ったんだね。私、すごく嬉しい! で、どうだった」
「⋯⋯ちゃんと生きた。逃げずに頑張った」
「それだけで、偉いよ」
彼女は、満面の笑みで言った。
「明日も行って」
「うん」
「約束ね」
「約束」
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