第1話 永泉女学校

 パシっと激しい音が頬に走った。ひりつく痛みが追いかけるように襲ってくる。畳の上によろけて転んで手を突くと、その手の上を真っ白な足袋を履いた爪先がぎゅうぎゅうと踏みつけてきた。


「まったく、使えない子。まともに掃除ぐらい出来ないの?」

「申し訳、ございません……」


 唇をぎゅっと噛みしめて朱音は俯いた。

 叔母が満足するまではそのままでいなくてはいけない。一度、首が痛くなってきて首を動かそうとしたところ頭を手で押さえつけて畳に額を擦りつけさせられたのだ。


「本当に気に入らないわ。どうしてうちがお前の面倒を見てやらないとならないのかしら。それなのに――本当にずうずうしいわね、女学校に通いたいだなんて」

「っ、申し訳……ございませ……ん!」


 ぎり、と体重をかけられたので手指がいっそう痺れた。叔母は美しいひとだがその性根は残酷だった。叔父は続けられる虐待に無関心で、見て見ぬふりを決め込んでいる。いたぶることにも飽きたのか、すたすたと傍らを歩き去る気配が遠ざかるのを待って朱音は顔を上げた。

 その表情には疲労が滲んでいる。

 それもそのはず、叔父夫婦のもとに引き取られた朱音は女中の真似事をさせられていたのである。朝は誰よりも早く起きて朝餉の支度をし、ひととおり掃除を済ませなければ女学校へと登校することも許されなかった。

 本当は退学をさせるつもりだったようなのだが、婚約するでもなく途中で辞めさせるのは外聞が悪いだろうという叔父の判断からしばらくのあいだ朱音は女学校への通学を許されていた。

 掃除用の着物から通学用の薄紫の袴に着替えると、朱音は小さな声で「いってきます」と呟いて玄関を後にした。




 桜華国帝都――ではなく、そこからさらに西に在る央都おうと凪矢なぎやの地は春爛漫、桜の花盛りであった。満開の桜並木の下を歩いていると、嬉しいような切ないような、複雑な気持ちで胸がいっぱいになる。

 ひらひらと舞い散る桜の花弁を結い上げた髪に付けながら少女たちが焦茶色の門の中へと吸い込まれていく。そのなかのひとりに紛れこんで朱音も永泉女学校の門をくぐった。

 すると「おはよ」と背後からぽんとつよく背中を叩かれて思わず朱音は咳き込んだ。慌てて振り返り涙目で睨む。


「もう、たまきさん。吃驚するじゃない」

「ごめんごめん。ふふ、背中が曲がっていてよ朱音さん」


 けろりとした表情で言ってのけたのは同級生の坂口環であった。頬のあたりでばっさりと断った黒髪は襟足が隠れる程度に短くなっている。凛とした断髪姿はこの永泉女学校で環のみだ。

 指摘されたのだから直さねばと朱音が背筋を伸ばし、きりっと表情筋に力を入れると環は噴き出した。どうやらやりすぎたらしい。まじめなんだから、と呆れている。


「最近多いけれど優等生の朱音さんが、予鈴が鳴る直前にご登校なんて。もしかしてまた叔母様?」

「……ええ」


 表情を曇らせた朱音を見て、環はため息を吐いた。


登季子ときこさまに相談したら? あの方なら力になってくれるわよ」

「でもご迷惑をかけるのは」


 登季子というのは朱音や環よりも一学年先輩で、たおやかな美人である。

 すっと切れ長の瞳にぷっくりとした唇、すらりと長い手足の登季子は躑躅塚つつじづか少女歌劇団の一員としてステージに立っていてもなんらおかしくないほどに瑞々しい美しさを誇っていた。


「いいじゃない。登季子さまは朱音さんのお姉さまなんだから」


 一学年上の福宮登季子は朱音のお姉さまである。

 といっても朱音はひとりっ子なので実際の姉妹ではない。永泉女学校において「お姉さま」とは後輩生徒を教え導いてくれる親しい先輩のことを指している。昨年の春に下駄箱に秘密のお手紙を入れていただいた日から登季子との間には親友の環とはまた異なる関係が築かれていた。


『朱音さん、なんでもお話しをしてくれていいのよ』


 登季子はおそらくそういうだろうが、いかにお姉さまとはいえど一つばかり年上の女学生である。

 朱音が抱えた問題を解決できるとは思えない。そんなふうに考えてしまって、彼女を前にすると朱音は無口になってしまうのだった。お姉さまに余計な荷物を背負わせるのも憚れられる。

 何より――叔父叔母からつらく当たられているというこの惨めな状況を、大好きなお姉さまに打ち明けるのが朱音は恥ずかしかった。


 上履きに履き替えるときに、下駄箱の中に手を突っ込むとかさりとやわらかな感触が指に触れた。取り出してみれば、そこにあったのは真白の封筒に包まれたお手紙であった。差出人は開けて見なくてもわかったが、そこには「今日のお昼ごはんをご一緒しましょうね」という登季子の言葉が綴られていたのだった。



 お昼休みになり、朱音が廊下を早歩きで進み、突き当りを左に曲がった。登季子はいつものように空き教室で待っていた。お手紙に書いてなくてもお姉さまが朱音を呼び出す場所は決まっていた。


「あら、朱音さん。ごきげんよう」


 登季子の声は鈴の音のように麗しい。結い上げた束髪はほつれることなくきちっとリボンでまとめられている。朱音は三つ編みにするのがやっとという不器用ぶりだから、登季子の姿かたちはまさに乙女の憧れそのものといったものであった。


「お弁当、今日もそれだけ?」

「はい……」


 朝餉の支度のついでに用意したおむすびひとつを包みから取り出した朱音を見て、登季子さまは顔をしかめた。ぎっしりとおかずが詰まったお弁当箱をずい、と朱音のほうに寄越してくる。


「いけません、お姉さま」

「多めに用意してもらっているの。朱音さんに手伝ってもらわないと、食べきれないわ」


 ほぼ毎日のように登季子がお昼を誘ってくれるのは朱音を憐れんでのことなのだろう。やはり申し訳なさと共に募る羞恥で頬がかあっと熱くなる。「相談したら」と環に言われたことを思い出しながらも胸の中で凝るばかりだった。


「あのね朱音さん」


 登季子が申し訳なさそうな声で言った。


「実は来月から……もうわたくしあなたとお昼をご一緒出来なくなると思うの」

「そう、なのですか……優等生のお姉さまですもの。お勉強もお忙しいのでしょうね」


 朱音がやっとの思いで言葉を紡ぐと、登季子はふるふると首を横に振った。違うのよ、と登季子は箸を止めて朱音を見遣る。


「わたくし、お嫁に行くことが決まったのよ」

「お姉さまが……お嫁に、ですか?」


 登季子はいつまでも朱音だけの「お姉さま」だ。

そんなふうに思っていただけに(そんなはずがないのに)、登季子の告白に朱音は幻想を打ち砕かれた想いだった。かりそめの姉妹エスは永泉女学校に在学するあいだだけで成立する儚い関係で、これから先の人生に深くかかわることはない。


「……退学、なさるのですね」

「ええ、卒業まで待っていられないそうなの……ねえ、お嫁に行ってもわたくし朱音さんにきっとお手紙を書くわ」

「嬉しいです。おめでとうございます、お姉さま」


 喉に痞えた一言を押し出すようにして言えば、登季子はぎこちなく微笑んだ。よほど朱音はひどい顔をしているのだろう。唯一の頼りの綱が、ふつりと断ち切れたような感覚は長く尾を引いて朱音に影響を与え続けたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る