狐堂家の徒然

鳴瀬憂

序章

 雨が降っていた。


 しとしとと降り続ける雨の中で、真白の百合の花が咲いている。雨音が激しくなり、黒く沈んだ家の中にもその湿りがじわじわと入り込んでくるようだった。仏壇の前に安置された棺の前で、少女がひとりぼうっとした面持ちで正座している。


 そのとき、ごめんください、と玄関の方から声が聞こえた。誰かが弔問に訪れたのかもしれない。少女は立ち上がるとゆっくり来客を迎えるべく廊下を歩いた。客間では酒に酔った親族が大声で笑い合う声が響いていた。


「はい」


 戸の向こうにいるひとが応じるのを待ったが、一向に返事がない。

 怪訝に思いながらも戸をからからと引くと、そこには長身痩躯の男が立っていた。黒い喪服と白い肌がよく映える美丈夫である。


御坂みさかさんのお宅でいらっしゃいますね」


 はい、と少女が頷くと男は少女の瞳をじいっと見つめて言った。


「ではあなたがお嬢さんの」

朱音あかねと申します」


 少女が名乗ると、男は笑みを浮かべた。

 まるで三日月のような優美な微笑だった。

 朱音がぼうっとしていると「線香をあげさせていただけませんか」と男は願い出る。父の知人なのだろう……そう思って朱音はからりからりと戸を引いて彼が通れるだけの隙間を確保し、男を屋敷の中へと招いた。



 ぎしぎしと黒ずんだ廊下の踏板を軋ませながら、朱音はつい先ほどまで自分が座り込んでいた仏間まで客人を案内した。そのときようやく、彼の名前を聞いていなかったことを思い出した。礼儀知らずと思われたかしら、朱音は頬を染めながら「あの」と声を絞り出した。


 美しい人は「はい」と低く穏やかな声で応える。


「失礼ですがお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」

「ああ……こちらこそ、名乗らず失礼いたしました。私は狐堂こどうと申します」

「こどう?」


 朱音が繰り返したのが面白かったのか、男は笑いながら「狐にお堂の堂で狐堂というんですよ。変わっているでしょう」と言った。


「狐堂瑛月えいげつと言います。朱音さん」


 艶やかな声音で名前を呼ばれて、朱音は頬をいっそう熱くした。着物の上からでも心臓が跳ねているのがわかる。亡き父の前で何を考えているのだ、と朱音は己を恥じた。

 線香がくゆるのを眺めながら瑛月という人は手を合わせていた。蝋燭の火はぎらぎらと激しく燃えている。


「朱音さんはおいくつですか。確か永泉女学校に通われているとか」

「はい、十六です」


 雨音が部屋の中にも染み入って来る。


「そうですか――では、縁談もそろそろ来ていたのでは」

「えっ、縁談……それは、その……父からは何も」


 この美しい人が口にする「縁談」の言葉の破壊力たるや凄まじいものであった。はくはくと口を開閉させてしまいそうになるのをなんとか着物の袖で押さえることで耐えぬく。

 そんな朱音のようすを瑛月はじっと食い入るように見つめていた。


「君さえよければ私のもとに嫁いできませんか」

「……えっ!」


 一瞬何を言われたのかわからず、反応が遅れてしまった。この美しいひとのもとにお嫁に行く――瑛月の顔に見惚れながら朱音は考えていた。まるで夢のようだ、彼が旦那様になる。優しく甘い言葉を囁いて、朱音の頭を撫でてくれるのだ――そこまで夢想したとき「朱音」と自分を呼ぶ叔父の声が響いた。宴席から抜け出して来たらしい。廊下をどたどたと歩く無作法な音が屋敷中に響き渡る。


 がらりと襖を開けて入って来た叔父は朱音を睨み「酒が切れたぞ」とかなんとか怒鳴り散らした。


「お……叔父様、お客様の前でそのような」

「客? そんなのどこにいる」

「……えっ?」


 朱音が振り返ると、そこには先ほど引っ張り出した座布団があるばかりだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る