第2話 嘘つきな老人①
岩戸営業所の使命は、三遠信精機の受注を獲得することだ。三遠信精機のプロジェクトに、ひとりでも多くの技術者を送り込む。それが俺の業務。技術部長と良好な関係を築き、数字を伸ばしてきた。
それなのに――。
受話器を耳から浮かせ、辟易として壁の時計を見る。午後九時を回っている。働き方改革関連法を知らないのか。きょうの労働時間がたまたま長いからって、直ちに違法ってわけじゃないけど。
いい加減、帰宅したい。けれども、エリア部長の吾妻は、俺の鬱々とした心情に全く無関心。一向に電話を切ろうとしない。
「聞いてるのか」
受話器を耳から離しても、吾妻の甲高い声は良く響く。
「はい。ご教示痛み入ります」
実際には、もう一時間も前から碌に聞いていない。同じことばかり何度も何度も繰り返すので、飽き飽きしている。早く帰してくれないものか。
「お父さん、いつまで電話しるの」
若い女の声が聞こえた。娘か。ということは、吾妻は自宅にいるのだ。俺のことは帰さないくせに、自分は自宅から電話してるのか。なるほど、それで自分のケータイからかけてきたってわけか。まさか、晩酌してるんじゃないだろうな。
「顔合わせに行ったら、技術部長が急用で会えなかった? 急用って何だよ」
技術者派遣会社にとって、顔合わせは契約の前提となる大事なもの。先方に技術者を引き合わせて、プロジェクトの遂行に必要なスキルを持っているのか、判断してもらうのだ。
技術者にとっても重要なもの。顔合わせで、プロジェクトの詳細について説明を受け、その会社で自分の能力を活かせるのか、自分のキャリア形成に役立つ業務なのか、考えてもらうのだ。
顔合わせをしないと、契約には進めない。吾妻はすぐに契約できると思っていたのに、そうならなかったのが、面白くないのだ。顔合わせができなかったのは、技術部長に急用が入ったからだ。なぜ、俺を責める?
「急用って何だ」
もう三度も説明したというのに。まだ説明させる気か。
「営業部の人がストーカーに殺害されたらしくて、東京支社に行ったそうです」
「営業部の人間が死んで、どうして技術部長がわざわざ出向くんだ」
「技術部を代表して行ったんです」
「部署が違うだろ。部長が行かなくたって、ほかに行ける者がいるだろ」
しつこい。何度言ったら、納得してくれるのだ。
従業員が亡くなった場合、参列者の範囲について、各社それぞれの慣習や取り決めがあるはず。だが、死因が殺害の場合のマニュアルなんてあるのだろうか。
殺害された社員の業務とストーカーとの接点の有無が、明らかになっていない。接点があった場合、従業員に対する安全配慮義務が問題になる可能性がある。三遠信精機はそれを気にしているのだろう。あらかじめ誠意を示すつもりで、他部署の部長職にも参列を要請したのだと思う。
「三遠信精機には、三遠信精機の都合があるんでしょ」
「都合ってなんだ」
「知りません」
「それを聞き出すのだって、営業の仕事だろ」
思わず、舌打ちした。吾妻に聞こえたのじゃないかと思って、慌てて咳払いしてごまかす。
「とにかく、そういう次第で、顔合わせは後日、改めて、ということになったんです」
ここで吾妻は、話を振り出しに戻す。もう何度目のことか。
「おい、大丈夫か。三遠信精機に、お前じゃ話にならないって思われて、てい良く追っ払われたんじゃないのか」
「いえ、そんなことはありません」
「しっかり根回ししたのかよ。技術者を連れて行く前に、部長や課長のところに挨拶に行って、常駐を確約させるんだよ。そういうこと、したのか」
「技術者のスキルを理解してもらったうえで、契約したいんです」
「よくそんなこと言えるな。先月は、ブラシレスモーターの設計者を常駐させられるって言ってたよな。あの件、どうした」
また、嫌味だ。
「技術者のスキル不足で、契約できませんでした」
「お前が、先方が求めるスキルを把握していなかったってことだろ。お前のミスだ」
違う。技術者がスキルを偽っていたのだ。俺はスキルシートを見て、顔合わせに連れて行った。虚偽の申請を見逃し、そのまま登録していた管理部の責任だろ。現場のミスにするなよ。
「タイミングだよ。タイミング。どんなことにも、タイミングがあるんだ。お前には、タイミングを捕まえる能力がない」
言い返したいのをグッとこらえる。
「毎月、毎月、予算未達なんて報告、聞きたくないんだ」
俺だって、そんな報告は上げたくない。
「顔合わせを断られるなんて、常駐以前の問題だ」
「延期になっただけです」
「岩戸に営業所をおいてるのは、三遠信精機があるからだ。三遠信精機から受注できなかったら、岩戸営業所なんて閉鎖だ。閉鎖」
岩戸には、三遠信精機の下請け、孫請け、協力工場が幾つもある。しかし、それらに外部から技術者を呼んでプロジェクトを立ち上げられる体力はない。だから、岩戸営業所の取引相手は、三遠信精機ただ一社ということになる。
岩戸市に営業所を構えているのは、ひとえに三遠信精機との取り引きが目的ということ。一社専属の営業所で、所長の俺とパートの事務員のふたりで切り回している。小さな営業所なので、待機する技術者がいない。だから、近傍の営業所から技術者を呼ぶことになる。これがネックになっている。
何処の営業所だって、スキルの高い技術者を手放したがらない。ほかの営業所に交渉している内に、競合他社に契約を決められてしまう。他者は、高いスキルを持つ技術者を岩戸市に呼んで、待機させているのだ。勝てるわけがない。
いままで、ずっと要望してきた。岩戸営業所に、高いスキルを持つ技術者を待機させて欲しいと。だが、吾妻は聞く耳を持たない。
「売り上げが落ちてる営業所に、技術者を待機させてどうする。技術者のスキルっていうのは商品だ。商品は売れる所に置く。売れない所に置いたって、しょうがない」
「エリア部長のご意見もわかりますが……」
「俺じゃない。社の見解だ」
本当だろうか。管理部は、岩戸営業所が技術者の待機を要望していることを知っているのだろうか。吾妻が握り潰しているんじゃないのか。
「しかし、商品がないと売りようが……」
「ネット通販の時代だぞ。現物なんか知らなくたって、みんな買うんだよ」
スキルシート一枚で、契約を取って来いということか。技術者だけじゃなく、三遠信精機のことだって舐めてる。三遠信精機は、一緒に仕事をする相手を、カタログで選んだりしない。
「お前が、浜松の技術者を顔合わせに連れて行きたいって言うから、東海のエリア部長に話を通してやったんだ。なのに、顔合わせがダメになるなんて。東海のエリア部長に、呆れられる。せせら笑われるのは、お前じゃない。俺だ。ったく、なんで顔合わせを断られたんだ」
いい加減にしてくれ。断られていない。延期になっただけだし、延期になったのは、俺のせいじゃない。技術部長の都合だ。
「おい、トイレは大丈夫か」
「は?」
「そろそろ、トイレに行きたいだろ?」
「いえ、別に」
「いいから、行け。トイレ休憩だ。上司に必要なのは部下への思いやりだ。お前がトイレに行けるよう、十分間、休憩にしよう。いいな。いまのうちに必ず行っておけよ。後になって、トイレに行きたいから、休憩にしてくださいなんて言ったら許さねえからな。一旦、切るぞ。十分したら掛け直せ」
まだまだ続ける気でいるらしい。トイレの心配をしてくれる優しさより、早く家に帰す優しさを身につけて欲しい。
トイレになんて行きたいわけじゃないが、あんな言い方をされたら、いまの内に行っておかなければならない気がした。
事務所を出て、共同トイレに向かう。
古いビルなので、空き部屋が目立つ。生保の代理店や司法書士の事務所にも、いまは灯りがない。ビルに残っているのは、俺ひとりかもしれない。
トイレから戻って、席に着く。時計を見ると、残り二分。十分経つ前に掛け直したら、文句を言うだろう。そういう奴だ。きっかり十分になるのを待って電話した。
「おう。トイレは済んだか」
「はい」
「そうか。なら良かった。いつまでもお前を相手にしてたって仕方ない。俺だって暇じゃないからな」
おっ。これは、もう終わりにするというフラグじゃないか。やっと帰れる。
「明日の朝までに、今月の予算見込みを出せ。話はそれからだ」
え。明日の朝まで?
今月の予算見込みなんて、先月の内に出している。数字を上積みして、出し直せというのか。
絶望感に打ちひしがれて電話を切った。
頭を掻きむしったり、机を蹴飛ばしたり、窓ガラスに椅子を投げつけようとして思い留まったり、いろいろした挙げ句、席に戻って、ため息をついた。
先月出した予算だって、無理をして積み上げた数字だ。達成できるかどうかギリギリの数字。そこに積み増したって、達成できないのは明らか。そんな予算に何の意味がある?
エクセルと睨めっこをして、腕組みをする。三遠信精機が予定しているプロジェクトは、すべて織り込み済み。うちでは手に負えないものまで、加算している。これ以上の積み上げは無理だ。
しかし、先月と同じものを出して、吾妻が納得するはずがない。自暴自棄になって、新しい予算見込みをでっち上げた。
終バスが出たのはもう、何時間も前だ。社用車で帰宅するしかなかった。
運転席に乗り込むと、ペダルを遠くに感じた。ハンドルも遠い。座席を前にスライドさせ、ちょうど良い位置に調整した。
ラジオは、長距離トラックのドライバーに向けた番組を流している。深夜過ぎに車を運転しているのは、長距離ドライバーと俺くらいだろう。少なくとも、岩戸市内では。
これといった特産物も観光名所もない地方都市。なんとか踏みとどまっていられるのは、三遠信精機があるからだ。
しかし、ほかの地方都市の例に漏れず、翳りが見えている。
三遠信精機が海外にシフトし始めたことで、市内中小企業の工場閉鎖が相次いでいるのだ。首都圏に進学した者は、首都圏に就職し、岩戸市に戻ることがなくなった。若年世代の人手不足も、工場閉鎖に拍車をかけた。
下請け、孫請けとの密な協力関係を岩戸市内に凝集して一大企業集団を築いたことが、三遠信精機の強みだった。しかし、海外へのシフトが進むのなら、流通に難のある岩戸に留まる理由がない。カワウソ騒動のとき、岩戸市は交通網の弱点を露呈した。だから、遠からず、三遠信精機は岩戸市から出て行くのではないかと憶測されている。
市民たちには、街の命運がかかる大事件だ。憶測を吹き飛ばそうとして、市は、地域高規格道路を要望した。建設に向けて環境アセスが始まっている。一歩前進で、市民は喜んでいる。
だが、順当に計画が進んでも、開通するのはずっと先のことだ。それまで三遠信精機が岩戸市を拠点にし続ける保障はない。
岩戸市民には悪いが、技術者派遣会社としては、都市部の工業地帯に開発拠点を移してくれたほうが、ありがたい。三遠信精機に顔を出しながら、他社にも営業をかけることができる。三遠信精機に頼らずとも、新規開拓で予算達成できるはず。
ハッとして眼を開けた。
赤信号が点滅している。一時停止して、そのまま寝落ちしてしまったらしい。左右を確認して、アクセルを踏んだ。
静寂に包まれ、街灯が薄ら寒い灯りを投げる通りを抜けると、霧が立ち込めていた。この先に、岩戸疏水がある。そこに流れ込んだ空気が、霧を生み出しているのだろう。
暫く進むと、アーチ橋に差し掛かった。普段はその橋を渡る。しかし、その先を行くと、少々回り道になる。睡眠時間を少しでも長く確保したくて、近道をしようと思った。橋を渡らず、疏水の堤防道路に入った。
対向車とすれ違うのが億劫な細い道。それなのに、ガードレールも縁石もない。万一、路肩を踏み外したら、疏水に落ちてしまう。なので、普段は絶対に利用しない道だ。というか、堤防の管理道路なので、一般の通行はご遠慮くださいと看板が出ている。事故が起きても管理事務所では責任を負わないともある。
霧で視界が悪いので、細心の注意を払って道路の中央を進んで行く。深夜の堤防道路で、対向車の心配なんてしなくてもいいだろうけれど、路肩には細心の注意が必要。
と、突然大きな音がして、咄嗟にブレーキを踏んだ。何かにぶつかったのか。運転席に座ったまま、周りの様子を窺う。特に異変は感じられない。きっと石を撥ね、それがフェンダーを叩いたのだろう。車を降りて、確認するほどのことじゃない。疲れ切っていて、そんな気力もない。そのまま発車した。
翌朝、枕元の目覚まし時計を見て、ぎょっとした。布団を撥ね退け、両手で目覚まし時計をしっかと掴む。
見間違いじゃない。何度見直しても、時計の針は冷淡だ。時速百キロで向かっても、始業時間に間に合わないと告げている。
朝一番でしなければならない業務は何か。技術部長への電話は午後でいい。浜松の営業所長への連絡は? 顔合わせの延期について説明しなければならない。朝一でなくても、午前中で良いか。
遅刻しても支障はないようだ。胸を撫でおろしかけたところで、大事なことを思い出し、全身にどっと汗が噴き出る。
昨夜、営業所を出る前に、新たな予算を吾妻にメールしている。朝一で、吾妻から電話がかかってくるはずだ。
急いで出社しなければならない。堤防道路は使いたくないが、そうも言っていられない。情けないやら腹立たしいやらで、萎える。
急いで身支度を整えて、車に乗った。
市道から堤防道路に入った。
暫く行くと、大勢の人がいて、道路いっぱいに広がっている。
通れるのだろうか。Uターンしろなんて言われても困る。こんな道で切り返しをしたら、転落してしまう。疏水に落ちたら水死。田圃の側に落ちても、瀕死の重傷。バックで戻っても、きっと路肩からはみ出て転落する。
停められるのを覚悟で前進することにした。戻れるだけの運転技量がないと言えば、きっと、道をあけてくれるだろう。
消防団の法被がちらほら見える。制服警察官もいる。事件か事故か。
減速して、そろそろと近づいた。法被の人たちが、責めるような眼で睨みつける。断りもなく入って来るんじゃねえよ、という顔だ。
誰も道をあけない。通してくれる気がないのか。
ウィンドーを下げて顔を出した。
「何かあったんですか」
一番近くにいた消防団の老人が顎を引く。下から睨み上げるような眼つき。いまにも襲って来そうな形相。咄嗟に、ウィンドーを閉め切ろうかと思った。
「お前、見ねえ顔だな」
「昨年の四月に赴任して来ました」
「よそ者か」
「ええ、まあ」
「ふん」
よそ者に用はないと言うように、背中を向けた。無視は困る。この先に行きたいのに。
慌てて付け足した。
「三遠信精機に出入りしています」
老人はハッとしたように振り向き、敬意に満ちた眼を向けてきた。
「兄さん、御所の人か」
御所というのは、三遠信精機のこと。岩戸市民は敬意を込めて、そう呼ぶ。
「まあ、そんなところです」
もちろん、違う。
「へえ」
老人は感心したように眼を瞠る。
「会社に行きたいんですが」
「おう、そうか。これは悪かった」周りの者たちに怒鳴る。「御所の兄さんだ。これから御所に出勤なさる。通して遣れ」
人びとが道の端に寄る。
ゆっくりと車を滑らせた。そのまま通り過ぎようとして、ふと、気になり、ブレーキを踏んだ。法被の老人を振り向く。
「何かあったんですか」
「疏水に落ちた者がいる」
それで、消防団や警察官が集まっているというわけか。
「助かったんですか」
老人は唇を噛み、首を振る。
「そうですか。それはお気の毒です」
「今朝、ご遺体がごみキャッチャーに引っかかってるのが見つかったんだ」
下流に眼を向ける。オレンジ色の細長い浮体が疏水を横切っている。ごみを回収するためのオイルフェンスだ。水面を流れてきたゴミが引っかかる。
「歩いてきたわけがない。自転車に乗って来たはずだが、見当たらない。きっと、自転車ごと落ちたんだろうって、水底を漁ってるところだ」
「そうですか」
「霧が深い深夜に、自転車なんか乗らなくたって、いいのにな」
「霧の深い深夜……」
ハッとして口を噤んだ。帰宅する時、大きな音がしたことを思い出したのだ。あのときは、石を跳ね上げたのだと思った。
――しかし……。
必死に記憶を辿った。霧が出て、ほんの数メートル先の視界も閉ざされていた。自転車に乗った人がいても、気付けない程に霧は濃かった。あの音は、自転車に当たった音だったのではないのか。
――まさか、撥ね飛ばしたのか。
「兄さん、どうした。真っ青な顔して」
老人の声で我に返った。老人はまじまじと俺の顔を覗き込んでいる。
「いえ。何も。大丈夫です」
ブレーキをリリースして、車を出した。一刻も早く、立ち去りたかった。自転車に当たったのなら、車に傷がついているかもしれない。気付かれたら、おしまいだ。早く、堤防道路を抜け出すのだ
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