第三章 芽生える想い

リリーがセツの山で過ごし始めて二週間が経った頃、空に巨大な影が現れた。


轟音と共に舞い降りたのは、深紅の鱗を持つ巨大な竜だった。その威圧感は凄まじく、リリーは思わず身構える。


竜はゆっくりと人の姿に変わった。現れたのは、セツよりも背が高く、鋭い赤い瞳を持つ男性。長い黒髪が風になびき、整った顔立ちは美しいが、そこに刻まれた表情は氷よりも冷たかった。


「ラス兄さん!」


洞窟からセツが飛び出してきた。リリーが初めて見る、セツの慌てた様子だった。


「セツ」ラスの声は低く、威厳に満ちている。「この人間は何だ」


その鋭い視線がリリーを貫いた。殺気にも似た敵意が込められている。


「彼は...その」セツが言いよどむ。


「僕の名前はリリーです」リリーは一歩前に出て、丁寧に頭を下げた。「セツさんに会いに来ました」


「人間が」ラスの声に軽蔑が込められた。「セツに何の用だ」


「兄さん、彼は他の人間とは違うんだ」セツが割って入る。「この二週間、僕に何も要求してこない。ただそばにいてくれるだけで」


「騙されているだけだ」ラスはセツを見つめた。「お前がどれほど人間に傷つけられたか、忘れたのか」


セツの表情が暗くなる。過去の記憶が蘇っているのだろう。


「僕は違います」リリーは毅然として言った。「セツを傷つけるつもりはありません」


「ほう」ラスが振り返る。「では何のためにここに?まさか観光ではあるまい」


リリーは言葉に詰まった。予言のことを話すべきだろうか。だが、それではセツの力目当てだと思われてしまう。


「答えられないのか」ラスの瞳が険しくなった。「やはり何か企んでいるな」


「違う!」リリーは必死に否定した。「僕は本当にセツを」


「黙れ」


ラスの一喝で、周囲の空気が震えた。強大な魔力がリリーを圧迫する。


「人間の甘い言葉など聞き飽きた。お前たちはいつもそうやって我々を利用する」


「兄さん、やめて」セツがラスの前に立った。「彼を傷つけないで」


その瞬間、ラスの表情がわずかに変わった。弟がこの人間を庇っている。それは意外な光景だった。


「セツ...まさかお前」


「僕は彼を信じてみたいんだ」セツの声は震えていたが、決意を秘めていた。「もう一度だけ、人間を信じてみたい」


ラスの拳が握りしめられた。


「愚かな」彼は冷たく言い放った。「だが、強制はしない。お前が再び傷ついても、もう知らんぞ」


「兄さん...」


「ただし」ラスがリリーを睨みつけた。「この人間が少しでもお前を裏切るそぶりを見せたら、即座に始末する」


リリーの背筋に冷たいものが走った。この竜族の男性は本気だ。


「覚悟しておけ、人間」


ラスは再び竜の姿に変わり、空高く舞い上がった。その姿が見えなくなるまで、重苦しい空気が漂っていた。


「ごめん」セツが小さく謝った。「兄さんはああいう人だけど、本当は優しいんだ。僕のことを心配してくれて」


「わかってる」リリーは微笑んだ。「君を大切に思ってるから、ああなるんだよ」


セツの頬がわずかに赤らんだ。リリーの理解に、心が暖かくなる。


「でも」リリーは真剣な表情になった。「僕は君を傷つけたりしない。絶対に」


二人の視線が交わった。セツの紫の瞳に、初めて信頼の光が宿る。


「僕も...君を信じてみたい」


その言葉に、リリーの胸が高鳴った。ついに、セツが心を開き始めてくれた。


---


その夜、山に不思議な光が降りてきた。


リリーとセツが焚き火を囲んでいると(セツがついに洞窟から出てきたのだ)、突然辺りが眩い光に包まれた。


光の中から現れたのは、白いローブを纏った神秘的な人物だった。年齢も性別もわからない、中性的な美しい顔立ち。長い銀髪が風もないのに揺れている。


「予言者ノア...」セツが息を呑んだ。


「久しいな、竜族の末裔よ」ノアの声は不思議な響きを持っていた。「そして、失われた王子よ」


リリーは驚いた。自分の正体を知られている。


「なぜここに?」リリーが問う。


「時が来たからだ」ノアは二人を見つめた。「世界の均衡が崩れ始めている。各地で異常気象が頻発し、魔法の暴走が止まらない」


「それは...」セツが不安そうに呟いた。「僕の涙のせい?」


「そうだ」ノアは頷いた。「だが、責めているわけではない。お前の悲しみは当然のもの。問題は、それを放置し続けることだ」


リリーが立ち上がった。


「だから僕がここに来たんです。セツの痛みを癒すために」


「そうだろうな」ノアの瞳が光った。「予言は言っている。『竜の涙を受け入れる者が現れた時、世界は新たなる調和を得る』と」


「僕がその人間だと?」


「可能性は高い」ノアがリリーに近づく。「だが、道は険しい。竜の涙を真に受け入れるということは、お前の命を危険にさらすことでもある」


セツの顔が青ざめた。


「どういう意味だ?」


「竜族の涙には、受け取る者の魂を燃やし尽くす力がある」ノアは静かに説明した。「並の人間では耐えられない。王家の血を引く者でも、生き残る保証はない」


リリーの心臓が激しく鼓動した。それでも彼は迷わなかった。


「それでも僕はやる」


「リリー!」セツが彼の腕を掴んだ。「駄目だ。そんな危険なこと」


「大丈夫だよ」リリーはセツの手に自分の手を重ねた。「僕は君を救いたいんだ。世界のためじゃない。君のために」


その言葉に、セツの瞳が潤んだ。


「だが、まだ時ではない」ノアが割って入った。「二人の心が真に一つになった時、儀式は可能となる」


「心が一つに?」


「愛だ」ノアは微笑んだ。「互いを心から愛し、信頼し合った時、真の奇跡が起こる」


リリーとセツの頬が同時に赤らんだ。


「愛...」セツが小さく呟く。


「準備は良いか、失われた王子よ」ノアがリリーを見つめた。「お前は二つの選択に直面することになる」


「二つの選択?」


「世界を救う使命を取るか、それとも目の前の愛を取るか」ノアの表情が厳しくなった。「時として、二つは相反することもある」


リリーの胸に不安が走った。


「どういう意味ですか?」


「それはお前たちが決めることだ」ノアの姿が薄くなり始めた。「ただ覚えておけ。真の愛は、時として最大の犠牲を要求する」


光と共に、ノアの姿が消えた。静寂が戻った山で、リリーとセツは呆然と立ち尽くしていた。


---


「愛、か」


セツが呟いた。焚き火の光が彼の美しい顔を照らしている。


「セツ...」


リリーは自分の気持ちを確認していた。セツに対する感情は、最初は同情だった。傷ついた竜族を救いたいという使命感だった。


だが今は違う。セツの美しさに心奪われ、その優しさに魅力を感じ、一緒にいるだけで幸せを感じる。これは確かに愛だった。


「僕は」リリーが口を開きかけた時、セツが先に話した。


「怖いんだ」セツの声が震えていた。「また裏切られるのが怖い。でも、君ともっと一緒にいたい」


リリーの胸が締め付けられた。


「君を裏切ったりしない」


「でも、世界を救うのが君の使命なんだろう?」セツがリリーを見つめた。「僕のせいで世界が混乱している。君は僕の涙を取って、使命を果たさなければならない」


「それは」リリーは言葉に詰まった。


確かに最初はそうだった。世界を救うために、セツの涙が必要だった。だが今は違う。セツを守りたい。たとえ世界を敵に回しても。


「僕は君を選ぶ」


リリーの言葉に、セツは目を見開いた。


「世界より、使命より、君が大切だ」


「でも、それじゃあ君は」


「構わない」リリーはセツの手を握った。「君がいない世界を救って、何の意味がある?」


セツの瞳から涙が溢れた。だがそれは悲しみの涙ではなく、喜びの涙だった。


「ありがとう」セツは震え声で言った。「初めて言われた。世界より大切だなんて」


二人の距離が縮まる。リリーはセツの涙を指で拭った。


「君の涙は美しい」彼は優しく微笑んだ。「でも、悲しみの涙はもう流さなくていい」


「リリー...」


セツの頬が赤らむ。初めて感じる、恋の予感だった。


だが、山の向こうから不吉な風が吹いてきた。世界の均衡は確実に崩れ続けている。このままでは、取り返しのつかないことになるかもしれない。


リリーの心にも迷いが生じた。本当にこのままでいいのだろうか。世界を見捨てて、セツとの愛を選んでも?


「君は後悔しないか?」セツが不安そうに尋ねた。


「しない」リリーは即答した。だが、その声には僅かな迷いが混じっていた。


セツはそれに気づいたが、何も言わなかった。ただ、リリーの手を握り返した。


二人の愛は確かに芽生えている。だが同時に、大きな試練が待ち受けていることも確かだった。


使命と愛。世界と個人。


リリーはまだ知らない。この選択がどれほど困難で、どれほどの犠牲を伴うものなのかを。


だが今この瞬間は、セツの温もりを感じていられる。それだけで十分だった。


焚き火が静かに燃え続ける中、二人は寄り添うようにして夜を過ごした。運命の歯車は、静かに回り始めていた。


---


**第四章「深まる絆」へ続く**


*愛は芽生えたが、それと同時に大きな試練も近づいている。使命と恋、世界と個人──リリーとセツの前に立ちはだかる選択は、果たしてどのような結末をもたらすのか。真の愛が試される時が、ついに訪れようとしていた。*

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