第6章「時を超える思い」
眩しい光が太郎の意識を揺り戻した。
「ここは…」
太郎はゆっくりと目を開けた。頭痛がする。全身が鉛のように重い。視界がぼやけている中、彼は自分が横になっていることに気づいた。冷たく硬い地面に横たわっていた。
太郎は体を起こそうとして、その奇妙な地面の感触に戸惑った。指先に伝わる感触は、石でも土でも木でもない。不思議な滑らかさだった。
「何だこれは…」
ようやく視界が定まってきた。太郎は自分が路地裏のような場所にいることに気づいた。だが、見慣れた村の路地とは全く違う光景が広がっていた。
高くそびえる巨大な建物。それは岩や木ではなく、透き通るような素材で作られていた。まるで空へと伸びる水晶の柱のようだ。地面は灰色の滑らかな石のようなもので覆われていた。
太郎は混乱し、立ち上がろうとした。体がうまく動かない。乙姫の…。そう、乙姫のことを思い出した途端、彼の胸に激しい痛みが走った。
「乙姫…」
彼女は自分の身代わりになって死んだのだ。そして玉手箱を手渡した。太郎は慌てて手元を確認したが、玉手箱はなかった。代わりに、村で身に着けていた衣服が、不思議なことに元通りになっていた。血の跡もなければ、海水で濡れた形跡もない。
「何が起きたんだ…」
太郎は周囲を見回した。路地の先には、もっと広い通りがあるようだ。そこからは、奇妙な音が聞こえてきた。絶え間なく鳴り響く、金属的な音。そして、人々の声も。
恐る恐る路地から出ると、太郎は目を見開いた。そこにあったのは、想像を絶する光景だった。
道幅は村の広場よりも広く、平らに整備されていた。その上を、馬も人も引いていない箱のような物体が、猛スピードで行き交っていた。それらは色とりどりで、中に人が乗っているのが見える。まるで走る家のようだった。
道の両側には、これまで見たこともないような高い建物が立ち並んでいた。十階、二十階…いや、もっと高いかもしれない。その外壁は太陽の光を反射して輝いており、まるで巨大な鏡のようだった。
太郎の頭の中は混乱で一杯になった。
「ここはどこなんだ?」
通り過ぎる人々の服装も奇妙だった。男も女も、色鮮やかで体にぴったりとした衣服を身に着けている。太郎の着ている質素な木綿の着物とは大違いだ。
人々は彼を奇妙な目で見ていた。中には明らかに彼を避けるように通り過ぎる者もいた。太郎は自分が場違いな存在であることを痛感した。
突然、空から大きな音が響いてきた。太郎は恐怖に駆られて上を見上げた。そこには信じられないものが浮かんでいた。巨大な鳥…いや、鳥ではない。金属でできたような乗り物が、雲の間を縫って飛んでいるのだ。
「夢か?」
太郎は自分の頬を叩いた。痛みがある。これは夢ではない。
「それとも、死んでしまったのか?」
しかし、これが死後の世界だとは思えなかった。あまりにも生々しく、騒がしく、そして混沌としている。
「玉手箱…」
太郎は呟いた。乙姫の言葉を思い出す。
「時を超える力を持つ…」
そうか、これは未来なのか。その考えが浮かんだ瞬間、太郎は膝から崩れ落ちた。どれくらい時が経ったのだろう?十年?百年?いや、この光景を見る限り、もっと長い時間が経っているはずだ。
太郎は呆然と立ち尽くしていた。すると、通りの向こうから奇妙な音楽と光が漏れてくるのが見えた。好奇心に駆られて、彼はそちらへと歩き始めた。
店のような場所だった。「カフェ・ノスタルジア」と書かれた看板が掲げられている。中からは温かな光と、懐かしさを感じさせる音楽が流れ出ていた。
太郎は立ち止まり、中を覗き込んだ。すると、そこで働いている一人の女性と目が合った。
彼女は二十代半ばくらいの若い女性だった。派手な髪色で淡い青色の制服を着ていた。彼女が太郎を見た瞬間、その表情が一瞬凍りついた。
太郎も同じく驚いた。その女性の顔は、あまりにも見覚えがあったからだ。
「おつる…?」
しかし、それはおつるではなかった。確かによく似ていたが、少し違う。より現代的な雰囲気を持ち、瞳の色も少し明るかった。
女性はしばらく太郎を見つめた後、クスリと笑った。そして、店の中から出てきた。
「こんにちは」
彼女は不思議そうに太郎を見つめた。
「あなた、どこかで会ったことがあるような…」
太郎は言葉につまった。この見知らぬ世界で、初めて親しみを感じる人に出会ったのだ。
「あの…ここは、どこなのでしょうか?」
太郎は恐る恐る尋ねた。
女性は首を傾げた。
「え?ここは東京ですけど…」彼女は太郎の服装を見て、さらに怪訝な表情になった。
「もしかして、歴史再現イベントか何かに参加しているの?その衣装、すごくリアルね」
「東京…?」
太郎は聞いたことのない地名に戸惑った。
女性はさらに不思議そうな顔をした。そして、太郎の様子をよく観察すると、彼の混乱と戸惑いが本物だと気づいたようだった。
「あなた、大丈夫?」
彼女は心配そうに尋ねた。
「道に迷ったの?それとも…」
太郎は何と答えるべきか分からなかった。本当のことを言えば、狂人扱いされるだろう。しかし、この女性には不思議な親しみを感じた。まるで長年の知り合いであるかのような。
「実は…」太郎は勇気を出して口を開いた。
「私は…自分がどこにいるのか、どうやってここに来たのか、わからないのです」
女性の表情が変わった。彼女は太郎の目をじっと見つめ、そこに嘘がないことを確かめているようだった。
「私の名前はミラ・ツルカ」彼女は自己紹介した。
「このカフェで働いているの。あなたは?」
「浦島太郎と申します」
ミラの目が大きく見開かれた。
「浦島太郎?!」彼女は驚いた様子で言った。
「あの童話の?」
「童話?」
太郎は戸惑った。
ミラはしばらく考え込んだ後、決断したように頷いた。
「とりあえず、中に入りましょう」彼女は太郎に手招きした。
「何か飲み物でも飲みながら、話を聞かせてくれる?」
太郎は感謝の気持ちで胸がいっぱいになった。この見知らぬ世界で、話を聞いてくれる人がいるだけでも心強い。
「ありがとうございます」
カフェの中は、不思議と落ち着く雰囲気だった。古風な装飾が施され、木の温もりを感じる家具が置かれていた。村とは全く違うが、どこか懐かしさを感じさせる空間だった。
「ここなら少し落ち着けるでしょう」ミラは太郎を窓際の席に案内した。
「この店は『古き良き時代』をテーマにしているの。今ではめずらしいけどね」
太郎は周囲を見回した。確かに、通りで見た他の建物に比べると、ここはずっと親しみやすい雰囲気があった。
「さて」
ミラは太郎の前に座った。
「あなたの話を聞かせてもらえる?」
太郎は深く息を吸った。どこから話せばいいのだろう。すべてを話せば、この女性は信じてくれるだろうか。しかし、他に頼る人もいない。彼は勇気を出して、すべてを話すことにした。
「私は小さな漁村の村長をしていました。そこで海の民という存在と出会い…」
太郎は語り始めた。乙姫との出会い、二つの世界の架け橋になろうとした試み、疫病の発生、そして最後の悲劇的な戦い。そして、乙姫の死と玉手箱のこと。話すうちに、太郎の目には涙が溢れてきた。
ミラは黙って聞いていた。彼女の表情からは、太郎の話を信じているのか疑っているのかわからなかった。しかし、少なくとも最後まで話を聞いてくれた。
「…そして目が覚めたら、ここにいたのです」
太郎は語り終えた。
「私は…どれくらいの時が過ぎたのでしょうか?そして、なぜここに?」
ミラはしばらく黙っていた。そして、静かに言った。
「今は西暦2525年」彼女は太郎の目を見つめた。「おそらくあなたの時代から、約1000年が経っているわ」
太郎は息を呑んだ。2525年。想像を絶する時の流れだった。自分の知る世界、村、そして人々は、すべて歴史の彼方に消えてしまったのだ。
「そんな…」太郎は呟いた。
「乙姫は…おつるは…皆は…」
「浦島太郎の物語は、日本の古い昔話として今でも語り継がれているわ」ミラは静かに言った。「若い漁師が亀を助け、海の底の龍宮城で乙姫と出会う。そして陸に帰ると、何百年も時が過ぎていて…」
太郎は驚いて顔を上げた。
「それは…私のことですか?」
「似ているけど、少し違うわね」
ミラは微笑んだ。
「伝説は時代と共に変わっていくもの。でも、あなたの話を聞いていると…」
彼女は言葉を切った。そして、不思議そうに太郎を見つめた。
「なぜだか、私、あなたの話を信じてしまいそうになるの」
彼女は小さく笑った。
「普通なら『精神科医に相談したほうがいいわね』って言うところなんだけど…」
太郎は希望を見出した。
「信じてくれるのですか?」
「正直、わからない」ミラは率直に言った。
「でも、あなたが嘘をついているようには見えない。それに…」
彼女は自分の胸元に手を当てた。
「ここが、あなたを信じろって言ってるの。変でしょ?」
太郎は胸が熱くなるのを感じた。この女性、ミラには、おつるの面影だけでなく、何か特別なものを感じる。まるで、運命的な繋がりがあるかのように。
「ありがとうございます」太郎は心からの感謝を込めて言った。
ミラはふと思いついたように立ち上がった。
「少し待ってて」
彼女は店の奥に消え、しばらくして小さな機械を持って戻ってきた。それは平たい板のようなもので、表面が光っていた。
「これでちょっと調べものをするわ」ミラは言って、その機械の表面を指で触り始めた。
太郎は驚きの目で見つめた。その板の表面に、次々と文字や絵が現れるのだ。まるで魔法のようだった。
「これは?」
「タブレットよ。情報を調べるための機械」ミラは簡単に説明した。
「今の時代では当たり前のものなの」
彼女は集中して画面を見つめ、時々指で触れながら、何かを検索しているようだった。
「ふむ…」ミラは眉を寄せた。
「あなたの言う玉手箱…時間を超える力を持つ…」
しばらく調べた後、彼女は顔を上げた。
「時間移動は、今の時代でも完全に解明されてはいないの。でも、理論上は可能だとされているわ。実際、研究機関ではプロトタイプの時間転移装置が開発されているという噂もあるけど…」
太郎の目が輝いた。
「それは…私を元の時代に戻してくれるかもしれないのですか?」
ミラは慎重に言葉を選んだ。
「可能性はあるわ。でも、そんな先端技術は一般人がアクセスできるものじゃない」彼女は考え込んだ。「でも…私の弟がテックラボで働いているの。彼なら何か知っているかもしれない」
「テックラボ?」
「最先端の科学技術を研究している施設よ」ミラは説明した。「クロノス・テクノロジーという会社が運営しているの」
彼女はさらに画面をスクロールし、情報を集めていた。
「それと…あなたが言う疫病についても調べてみたわ。1000年前の歴史記録は断片的だけど…」彼女は突然目を見開いた。
「あった!『蒼い死』と呼ばれる疫病の記録が。青い斑点を伴う高熱の病気で、沿岸地域で大流行したって…」
「それだ!」太郎は身を乗り出した。
「原因はわかるのですか?」
ミラはさらに読み進めた。
「原因は…海洋性の微生物による感染。当時は原因不明だったけど、現代の分析では、特殊な条件下で繁殖する『サイアノバクテリア』の一種だったとされているわ」
「マイクロ…?」太郎は聞き慣れない言葉に戸惑った。
「とても小さな生き物よ。目では見えないくらい小さいの」ミラは簡単に説明した。
「つまり、これは自然現象だったのね。誰かの仕業ではなく」
太郎は胸が痛んだ。無意味な争いだったのだ。誰の仕業でもない自然現象のために、多くの命が失われ、乙姫も死んだ。
「そして…」ミラは続けた。
「この疫病には治療法があるわ。現代では簡単に治せる病気よ」
太郎の目が見開かれた。
「本当ですか?」
「ええ」ミラは頷いた。
「もし、あなたが過去に戻れたなら…」
それは太郎にとって希望の光だった。過去に戻り、疫病を治療することができれば、あの悲劇は防げるかもしれない。乙姫を救えるかもしれない。
「ミラさん」太郎は真剣な眼差しで言った。
「どうか、私が過去に戻る手助けをしてください。乙姫と村の人々を救うために、私は帰らなければならないのです」
ミラは長い間太郎を見つめていた。そして、ゆっくりと頷いた。
「わかったわ」彼女は決意を込めて言った。
「協力するわ。とにかく、まずは私の弟に会いましょう。彼なら何か知っているかもしれない」
彼女は立ち上がり、店の奥に向かった。
「少し待っていて。シフト交代の手配をしてくるから」
太郎は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。これ以上の恩はありません」
ミラは微笑んだ。その笑顔には、どこかおつるを思わせる優しさがあった。
「不思議ね」彼女は静かに言った。
「さっき初めて会ったはずなのに、まるで昔からの知り合いみたい」
太郎もそれに頷いた。この見知らぬ未来の世界で、彼にとってミラは唯一の光だった。
窓の外では、未来の都市が輝いていた。空には飛行する乗り物が行き交い、地上では奇妙な車が走る。1000年という時間が作り出した、太郎にとっては夢のような世界。
しかし、彼の心は過去に向いていた。乙姫の笑顔、おつるの優しさ、そして村の人々の姿。太郎は固く決意した。必ず戻り、あの悲劇を防ぐと。
ミラが戻ってきた。
「準備ができたわ」彼女は太郎に手を差し伸べた。
「行きましょう、未来から来た村長さん」
太郎はその手を取り、立ち上がった。未知の世界での冒険が、ここから始まるのだ。
ミラは太郎を近未来的なスクーターのような乗り物に乗せた。その乗り物は、地面から数センチ浮いて進む。太郎は恐る恐るそれに乗り込んだ。
「怖がらないで」ミラは微笑んだ。
「安全よ。これでテックラボまで行くわ」
彼らが街を通り抜けると、太郎はさらに多くの驚異的な光景を目にした。空には複数の層になった交通網が走り、飛行する乗り物やドローンが行き交っていた。建物の壁面には巨大な映像が映し出され、時には通行人に向かって話しかけてくることもあった。
「すごい…」太郎は呟いた。
「これが千年後の世界…」
「そうね」ミラは運転しながら答えた。
「でも、私たちにとっては日常よ。誰もが慣れてしまうものなの」
彼らはやがて、街の中心部から少し離れた巨大な複合施設に到着した。
「クロノス・テクノロジー」と大きく表示された建物群だった。
「ここが弟の働いているところ」ミラは説明した。
「彼に連絡を入れておいたわ」
エントランスでは、未来的な制服を着たスタッフが彼らを出迎えた。太郎の古風な服装に怪訝な表情を浮かべたが、ミラが何かを説明すると、すぐに通してくれた。
「何と言ったのですか?」太郎は小声で尋ねた。
「あなたは歴史再現プロジェクトの研究者だって」ミラはくすりと笑った。
「その方が説明しやすいでしょ?」
彼らは何層もの警備を通過し、ついに研究施設の深部へと案内された。広々とした研究室には、太郎が想像もしなかったような装置や機械が並んでいた。
部屋の中央で、若い男性が彼らを待っていた。彼はミラに似た面影を持っているが、より知的で冷静な雰囲気を漂わせていた。
「ミラ、来たのか」男性はそう言って、太郎を興味深そうに観察した。
「で、これが噂の…」
「タクト、これが浦島太郎さん」ミラは紹介した。
「太郎さん、こちらが私の弟、タクト・ツルカです」
タクトは太郎をじっと見つめた後、声を低くして姉に言った。
「本当に信じているのか?彼の話を」
「わからない」ミラは正直に答えた。
「でも、彼の目を見て。嘘をついているようには見えないでしょ?」
タクトは太郎に向き直った。
「浦島さん、あなたの話を聞かせてもらえますか?詳細に」
太郎は再び自分の物語を語った。今度はより詳しく、科学者であるタクトが理解できるように、できる限り客観的に説明しようと努めた。
話が終わると、タクトは長い間沈黙していた。彼は複雑な表情で部屋の中を行ったり来たりしていた。
「信じがたい話だ」彼はようやく口を開いた。
「しかし、不可能とも言い切れない」
「どういうことですか?」太郎は希望を見出した。
タクトは大きなスクリーンを操作し、複雑な図表を表示させた。 「時間移動の理論は、我々の研究所でも扱っている分野だ。過去や未来への移動は、理論上は可能だが、特に過去への移動は実践となると様々な問題がある」
「どんな問題ですか?」
「まず第一に、パラドックスの問題」タクトは説明した。
「過去を変えることで、未来、つまり現在が変わる可能性がある。それは予測不可能な結果をもたらす」
彼はさらに表示を切り替えた。
「第二に、時間の流れには『修正力』とでも呼ぶべきものがある。過去を変えようとしても、時間の流れは元の軌道に戻ろうとする力を持つ。だから、小さな変化は可能でも、大きな歴史の流れを変えるのは極めて困難だ」
太郎は必死に理解しようとした。 「つまり…」
「つまり」タクトは真剣な表情で言った。
「あなたが過去に戻って何かを変えようとしても、歴史は同じような結末に向かって進む可能性が高い。それが時間の本質だ」
太郎は落胆した。しかし、諦めるわけにはいかなかった。
「それでも、試さなければなりません。少しでも可能性があるなら」
タクトはしばらく考えてから、頷いた。
「もう一つ重要なことがある。パラレルワールド理論だ」
「パラレルワールド?」
「あなたが戻るのは、あなたが来た過去ではなく、別の平行世界の過去かもしれない」タクトは慎重に言葉を選んだ。「つまり、あなたが変えるのは、あなたの知っている歴史ではなく、別の歴史線になる可能性が高い」
太郎はしばらく考え込んだ。
「それでも構わない」彼は決意を込めて言った。
「どんな世界であっても、乙姫たちを救えるなら」
タクトは感心したように太郎を見た。
「さらに言うと、あなた自身の存在保証もない」彼は続けた。
「過去を変えることで、あなた自身が消滅する可能性もある。これは理論上の話だが…」
「それも覚悟の上です」太郎は迷いなく答えた。
ミラが心配そうに口を挟んだ。
「タクト、本当に彼を過去に送り返す方法があるの?」
タクトは妹を見て、小さく頷いた。
「あるんだ…」彼は慎重に言った。
「実は、我々の研究所では、クロノス・ゲートと呼ばれる時間移動装置の実験を進めている。ただ…」
タクトは一度深く息を吸い、ため息をついた。
「装置は存在するが、まだ人体では試していない。理論上は可能だが、実際に人間を送り出した例はない」
「なぜですか?」太郎は尋ねた。
「法律の問題だ」タクトは説明した。
「時間移動は、理論上、被験者の死亡リスクを伴う。現行法では、そのようなリスクを伴う実験に人を使うことは殺人罪に問われる可能性がある。だから実験者の募集もできなかった」
彼は太郎をじっと見つめた。
「だが、あなたは戸籍に登録されていない。この時代に公式に存在しない人物だ。つまり…」
「私なら使えるということですか?」太郎は期待を込めて尋ねた。
「そういうことになる」タクトは冷静に言った。
「あなたがこの機械を使っても、誰にもバレない。法的な問題も生じない」
タクトはスクリーンに別の映像を映し出した。大きな円形のプラットフォームと、その周囲に配置された複雑な機械群。
「これがクロノス・ゲートだ」彼は説明した。
「だが、わかっておいてほしい。これはあくまで実験段階の装置だ。成功する保証はない。最悪の場合、あなたの体が時空の狭間で引き裂かれる可能性もある」
太郎は震える息を吐いた。恐怖は感じていたが、それ以上に強い決意があった。
「…わかりました。それでも、試したいです」
タクトはミラを見た。彼女も複雑な表情を浮かべていたが、ゆっくりと頷いた。
「もう一つ」タクトは続けた。
「過去に持っていく物も慎重に選ばなければならない。過去の時代に未来の技術を持ち込むことは、予測不可能な影響を与える恐れがある」
彼は小さな金属製のケースを取り出した。
「これは特別だ。ナノマシンが入っている。体内に入れると、あなたが言う疫病を治療できる。海の民にも人間にも効果があるはずだ」
太郎は驚きと希望を持ってそれを見つめた。
「これだけで全ての病人を?」
「ナノマシンは自己複製する」タクトは説明した。
「最初は少量でも、体内で増殖し、患者から患者へと移る。一人が治れば、その人の体内のナノマシンが次の患者を治療できる。いわば、良性の感染のようなものだ」
「そして影響を与え過ぎないよう、このマシンには通常よりも有効期限を短くする予定だ。過去の世界中に拡大するパワーはない」
「すごい…」太郎は感嘆の声を上げた。
「しかし」タクトは警告するように言った。
「これ以上の未来技術は持っていくべきではない。過去を大きく変えすぎる危険性がある」
太郎は頷いた。 「わかりました。これだけで十分です」
ミラが前に出て、小さな布の袋を太郎に手渡した。
「これ、私がいつも持ち歩いているお守り。あなたにあげる。」彼女は少し照れたように言った。
「旅の無事を祈って」
太郎はそれを大切そうに受け取った。
「ありがとう、ミラ」
「さて」タクトは話を戻した。
「準備には時間がかかる。装置の調整や、座標の設定など、多くの作業が必要だ」
「どれくらいかかりますか?」太郎は尋ねた。
「3日ほど」タクトは答えた。
「その間、あなたは我々の家に滞在するといい。外を出歩くのは危険だ」
太郎は深く頭を下げた。
「ご厚意に感謝します」
太郎がミラとタクトの家に滞在した3日間は、まるで夢のような時間だった。彼は未来の世界について多くのことを学んだ。テレビ、インターネット、自動調理機など、太郎にとっては魔法のような技術の数々。
特に興味を引いたのは、歴史書で自分の時代について読むことだった。多くの出来事は彼の知っているものと一致していたが、細部では驚くほど違いがあった。それは歴史が時間と共に変化すること、あるいは記録自体が完全ではないことを物語っていた。
そして三日目の夜、タクトが重大なニュースを持って帰ってきた。 「明日の夜、準備が整う」彼は緊張した面持ちで言った。「だが、最後にもう一度確認したい。本当に行くのか?」
太郎は迷いなく頷いた。
「はい。必ず行かなければなりません」
「そうか」タクトは深く息を吐いた。
「では、最後の準備をしよう」
彼は太郎から血液サンプルと脳波パターンを採取した。
「これで時間座標を正確に設定できる。あなたの『元の場所』を特定するためだ」
その夜、三人は静かな夕食を共にした。
「緊張してる?」ミラが太郎に尋ねた。
太郎は少し考えてから、正直に答えた。
「はい。でも、それ以上に…戻れる喜びの方が大きいです」
「乙姫さんのことを本当に愛しているのね」ミラは優しく言った。
「はい」太郎の目に決意の光が宿った。
「今度は彼女を守ります。そして、海と陸の架け橋になる」
「信じてる」ミラは微笑んだ。
「あなたなら、きっとうまくいくわ」
翌日の夜、三人はひそかに研究所に向かった。タクトのアクセスカードで何層もの警備を通過し、ついに地下深くにある特別な研究室に辿り着いた。
「ここだ」タクトは緊張した声で言った。「クロノス・ゲート」
目の前には大きな円形のプラットフォームがあり、その周囲には複雑な機械が並んでいた。プラットフォームの上方には奇妙な光の渦が漂っていた。
「さあ、最終確認をしよう」タクトは制御パネルに向かった。
ミラは太郎のポケットを確認した。
「ナノマシンのケースとお守り…全部ある?」
太郎は頷きながら、それぞれを確認した。ナノマシンの入ったケースは着物の内ポケットに、ミラからのお守りは胸元にしっかりと収められていた。
「準備完了」タクトが声をかけた。
「プラットフォームに立って」
太郎は円形のプラットフォームに足を踏み入れた。心臓が激しく鼓動していた。
「千年前、西暦1525年…海辺の村…」タクトが座標を設定していた。
「時間軸安定…波形一致…準備完了」
最後の瞬間、ミラが駆け寄ってきた。
「太郎さん」彼女の目には涙が光っていた。
「無事でね」
太郎は微笑んだ。 「ありがとう、ミラ。タクト。二人の親切は一生忘れません」
タクトがカウントダウンを始めた。 「転送開始まで五秒…四…三…」
太郎は深呼吸をした。過去へ。乙姫のもとへ。皆を救うために。
「二…一…」
プラットフォームが明るい光に包まれ、太郎の周りの世界が歪み始めた。彼は意識が遠のいていくのを感じながら、最後に乙姫の笑顔を思い浮かべた。
「必ず、今度は守ってみせる…」
それが、この世界で彼が発した最後の言葉だった。
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