第2話 崩れていく食卓

 夕食の湯気は、味噌汁のはずなのに鉄の匂いがした。

 換気扇の低い唸りが、どこかで鳴る工事の重機みたいに耳の奥を押す。

 テーブルの上は、毎日の並び――サラダ、鶏の照り焼き、冷ややっこ、味噌汁、白いご飯。箸置きは猫の陶器。息子の悠真が選んだ、お気に入り。


「いただきます」

 悠真が、まるで学校の朝礼のように元気よく言う。

 夫の尚人はテレビから目を離さず、口だけで言葉を繰り返した。テロップが流れ、アナウンサーが連続殺人の続報を落ち着いた声で読み上げる。


 この光景は、毎日のはずだ。

 けれど今夜は、違う。


 悠真がスプーンを手から滑らせ、ステンレスが皿の縁で軽く跳ねた。

「あ、ごめん」


 その二文字が、皮膚の内側に刺さった。

 昨日、《メモリーレンタル・ミネルヴァ》でヘッドギアの奥から聞こえた、ちょうど同じ響き。


 佳乃は、持っていたお玉をシンクに戻すふりで震える手を隠した。

 味噌汁をすくい直す。その表面に映る天井灯が、白いタイルの反射に見える。

 気のせい。

 そう言い聞かせる声と、気のせいじゃないと囁く別の声が、頭の中でかち合った。


 尚人が箸を動かす。カチ、カチと器に当たる微かな音が、背後から近づく足音の数え方に化ける。

 四で吸い、七で止め、八で吐く。

 呼吸が勝手に整う。あの誰かのやり方で。


 湯気が目にしみる。涙ではない、と自分に言い張る。


──


 昨日。

 買い物帰り、商店街の外れで足が止まった。白い看板、金の梟。《メモリーレンタル・ミネルヴァ》。

 ガラス扉の内側は、カフェのように清潔で静かだった。消毒用アルコールの匂い。壁に小さく貼られた注意書き。


 体験は体験であり、自己同一性への影響は利用者の責任。


 カウンターに立つ女店員。その名札には《AMAMIYA》と刻まれていた。

「主婦の方に人気ですよ、『匿名提供・目撃者体験パック』」

 声は澄んでいるのに温度がない。口角は絵の具で塗ったみたいに動かないのに、目だけが笑っている。


「強いですか?」

「残留イメージが出る方はいます。匂い、声、触感……。気になる場合は除染セッションを。無料です」


 無料――ほど高いものはない。

 それでも私は、退屈に耐えかねて頷いた。主婦の一日を、ほんの少しだけ違う色で縁取るだけのつもりだった。


 ヘッドギアが額を締める。

 暗闇。視界が切り替わる。

 コンクリートの床か、タイルか。湿った音。走る足音。

 女の息が上擦る。「やめて」と言った気もするが、文字通り耳の後ろに音が貼り付いて、言葉として拾えない。

 視界の端で、人影が崩れる。

 背後から忍び寄る気配。

 犯人の顔は見えない。

 なのに、肩の返し、指の腹の震え、喉の奥で鳴る**「ごめん」**が、皮膚の内側に刻まれる。


 ヘッドギアを外すと、世界は明るすぎて目が痛かった。

 《AMAMIYA》は変わらない角度の微笑で言う。

「刺激が強すぎたら、除染セッションを。いつでも」


 私は首を振って、店を出た。白い看板が、背中を撫でた。


──


 箸の音が暮れていく。テレビのアナウンサーが、昨日の事件の地図を示す。湾岸。倉庫街。白い床。

 白いタイルではない。ただの床材。

 でも、白いタイルに見える。


「ねえ、今日スーパーでね――」

 話し始めた声が自分のものではない気がして、途中で切れた。

 尚人が「ん?」とだけ言って、また画面に目を戻す。その眉間の寄り方が、記憶の中の影と重なって、胃の中で氷が鳴った。


 悠真がまたスプーンを落とした。

「あ、ごめん」

 二度目の「ごめん」。

 耳の奥の古傷が開くみたいに、痛い。


「……大丈夫?」

 尚人の声が、映画の吹き替えみたいに遅れて届いた。

「大丈夫。ちょっと、手が滑っただけ」

 私は笑って、器用に嘘をついた。家族の前では、長年の訓練で嘘が滑らかになる。


──


 夜。

 寝室。尚人の寝息は穏やかなはずなのに、あの呼吸法に聞こえる。

 四で吸い、七で止め、八で吐く。

 私の胸も、同じリズムで上下する。脳が勝手にメトロノームを回す。


 廊下のきしみは足音に。

 換気扇は「ごめん」と囁き、冷蔵庫のモーターは弱い悲鳴に変わる。

 目を閉じると、白いタイルがまぶたの裏で光った。


「……やめて」

 自分の声が他人の声みたいに遠い。

 布団の中の手が、勝手に拳を作る。誰かの学習した手順で。


──


 翌朝。

 私は包丁を布巾に包み、流しの下の奥にしまった。

 さらにその上に雑巾や洗剤を重ね、戸棚の扉に養生テープを十字に貼った。子どもが指をかけられないように。


「どうしたんだ、それ」

 尚人が眉を上げる。


「……安全のためよ」


 自分でも意味がわからない。それでも、あの声がそうしろと言う。危険物の位置を、ひとつずつ脳内に赤いピンで立てていく。花瓶、はさみ、ガラスのコースター。

 使い方まで勝手に出てくる。角度、力の入れ方、手首の返し。

 目眩がして、椅子に座り込む。


 その瞬間、悠真が戸棚に手を伸ばした。

 養生テープに触れ、爪でめくろうとする。

「触らないで!」

 叫び声に、自分が驚いた。

 悠真の目が、魚の目みたいに硬く光って、すぐに潤む。

 尚人が私の腕を掴む。その掴み方が、記憶の中の誰かの手と同じ。逃げ道を塞ぐ、強すぎず弱すぎない角度。


「……ごめん」

 誰に向けて言ったのかわからない。

 私か、あの女か、私の中の誰かか。


──


 午前十時。

 学校から電話が来た。保健室の先生の声。昨日から、悠真が時々ぼんやりして、教室で泣いてしまうことがあるという。

「おうちで何か……」

 喉の奥に砂利が詰まる。言い訳を探しているうちに、先生の声は遠くなった。


 電話を切ってすぐ、玄関のチャイムが鳴った。

 ドアの向こうに、男女の刑事が立っていた。女刑事の目は眠っていない。男刑事の靴は、綺麗に磨かれているのに埃が落ちていた。現場帰りだ。


「失礼します。少しお時間を」

 女刑事は名乗り、靴を脱ぐ。男刑事は室内を一回り見渡し、流しの養生テープで止まった。


「《メモリーレンタル・ミネルヴァ》をご利用になりましたね」

「……はい」


「残留模倣行動という症状をご存じですか」

 女刑事の声は、教科書を読み上げるみたいに乾いているのに、棘がない。

「借りた記憶の癖が、無意識に体に反映される。呼吸、歩幅、指先の震え。見るだけで人は模倣します。ましてや体験したなら」


「だから、家族が犯人に見える?」

「**あなたが“見えるようになった”**んです」


 頭の内側が空気で膨らみ、耳の奥がキンと鳴った。

 男刑事が名刺を差し出す。

「除染セッションを受けてください。無料です」


「……無料ほど高いものはない」

 私の口が勝手に呟いた。

 女刑事の眉が、かすかに動いた。何かを思い出すように。


「何かあれば、すぐ連絡を」

 二人は去った。玄関の扉が閉まる音が、心臓の鼓面に触れた。


──


 昼下がり。

 洗濯機の丸窓の中で、シャツが回る。泡が窓に貼り付き、白い輪郭を作る。

 その白が、白いタイルの反射に見える。

 指の腹が痒い。古い火傷がある気がして掻きむしる。そんな傷はないのに、痕が疼く。


 スマホが震えた。差出人不明。

《見たね》

《また来て》

《次は“被害者”の記憶》

 末尾に478。

 息が、勝手に整う。私のやり方ではないやり方で。


 私はスマホを裏返し、テーブルの端に置いた。ガラス面が木目に触れる軽い音が、神経を逆なでる。

 置いたはずのスマホの重みが、誰かの手で戻される錯覚。

 深呼吸。四、七、八。胸が動くたび、部屋の輪郭が少し滲む。


──


 午後、PTAの連絡網が回ってきた。来月の運動会、旗当番、救護班。

 私は「参加」にチェックを入れて、送信した。画面が送信完了の紙飛行機を飛ばす。

 すぐに既読がつく。

 見られている。

 SNSの通知が光る。地域掲示板のトピックに「最近の物騒なニュースに注意」「子どもを一人にしないで」。

 白い文字が、白いタイルに見える。


 玄関が開き、悠真が帰ってきた。ランドセルが重そうだ。

「おかえり」

 声が上ずる。

 靴を脱ぎ、上がり框でよろける。小指が震える。

 記憶の中の手と、同じ角度。同じ震え。

 私は手を伸ばし、彼の腕を掴む。

 強すぎた。

 悠真が顔をしかめ、体を引いた。


「痛い……」

 その声が、**「ごめん」**に似ていて、目の前の景色が反転した。

「ごめん、ごめん」

 謝りながら、手が震える。私のものではない震え。

 悠真は私から半歩離れ、ランドセルを抱きかかえるようにして部屋へ消えた。


 廊下に残った靴の形、床の薄い線傷、養生テープの端の剥がれ。ぜんぶが、証拠みたいに見えた。

 私は犯人ではない。

 でも、犯人の記憶の持ち主だ。


──


 夜になっても、食卓の準備が進まなかった。

 キャベツを刻む包丁の音が、骨の音に化ける。

 油が跳ねる音が、悲鳴の残響を連れてくる。

 私は包丁を置き、まな板を洗い、再び包丁を布巾で包んで戸棚に戻した。

 代わりにハンバーグを成形して、フライパンに並べ、蓋をした。

 手は覚えている。何百回も作った手順。

 でも、今夜の手の中には誰かがいる。


 テーブルを拭き、皿を並べ、箸置きを置く。猫の陶器の顔が、私を見ている。

 尚人が帰ってくる。スーツに一日分の埃が降りている。ネクタイは緩められず、財布だけが先にテーブルに置かれた。

「おかえり」

「ただいま」

 声と声が通り過ぎる。間に、見えない壁。

 悠真が部屋から出てきて、テーブルの端に座った。椅子を引く音が、妙に大きく響く。


 私はハンバーグの蓋を開けた。湯気が盛り上がり、白い煙の向こうに台所の蛍光灯がぼやける。

 ケチャップとソースの匂いが、血の匂いに混ざる。

 胸の奥で、誰かが呼吸の数を数え始める。

 四、七、八。

 息が整うほど、世界は狭く、濃く、静かになっていく。


「お母さん、ケチャップ多めがいい」

 悠真の声。

「……うん」

 私はハンバーグにケチャップを渦巻き状にかける。赤い線が線でなく、軌跡に見える。

 振り返ったら、テーブルの上にガラス瓶があった。昨日、戸棚の一番上に押し込んだはずの、梅のはちみつ漬け。

 透明。重い。

 すぐ割れる。


「誰、これ……」

 声が出たのか、自分でもわからない。

 尚人が顔を上げる。「何が?」

 彼の視線の先には、ただの瓶。

 私には、道具。


 指先が勝手に瓶の肩を撫でる。ざらりとしたラベルの端。

 「ごめん」と耳元で囁く声。私の声に似ている。

 止めて。

 心の中で誰に言ったのか、わからない。


「お母さん?」

 悠真の声が、背後から届く。


 腕が、振り上がる。

 誰が振り上げたのか、私ではないような、私でしかありえないような。

 尚人が椅子を蹴って立ち上がる。

 時間が薄いゼリーみたいに固まり、瓶の重さだけが現実だった。

 次の瞬間、尚人が私の手首を掴んだ。いつもの逃げ道を塞ぐ角度で。


 瓶は空中で止まった。

 そのまま、私の指から滑り落ち、床に砕け散った。

 破片が光を撒く。白いタイルではない床に、ガラスの星座が広がる。


 悠真が泣き声を上げた。

 私は笑っていた。

「ごめん……ごめん……」


──


 数分後。

 玄関が荒い音を立て、刑事の二人が飛び込んだ。

「動かないで!」

 女刑事が声を張り、まっすぐに私の前に立つ。

 男刑事は素早くキッチンの刃物、窓、バルコニー、床の破片の位置を確認する。現場の癖で無駄がない。


 私の手首は尚人に掴まれ、指は空を掻く。

 女刑事が一歩だけ近づいて、穏やかな声に下げた。

「大丈夫。深呼吸して。あなたの呼吸で」


 四で吸う。胸が焼ける。

 七で止める。頭の中で霧がうごめく。

 八で吐く。世界が少しだけ戻る。


 悠真の泣き声が、壁に跳ね返る。

 尚人がゆっくり手を離す。代わりに女刑事が私の両手をタオルで包み、破片から守る。

「切ってませんか」

 私は首を振る。女刑事の目が、獣医の目みたいに優しいのが腹立たしかった。

 私は人間だ。

 まだ。


 男刑事が割れた破片の一番大きいものを拾い、新聞紙に包む。その仕草に、妙な敬意があった。

「除染セッションに行きましょう」

 女刑事が名刺をもう一度差し出す。

 私は受け取って、テーブルの端に置いた。名刺の四隅が、刃に見えた。


「……無料ほど高いものはない」

 女刑事は目を伏せた。

「何かの代金を、誰かが払ってる。そういう意味ですよね」

 私は答えなかった。**その“何か”**が何なのか、怖くて言葉にできない。


 刑事たちは最低限の確認をして、静かに出ていった。

 玄関の外の廊下で、二人の靴音が遠ざかる。

 トン、トン、間。

 昨日の足音と、同じ。


──


 翌日、家は静かだった。

 尚人は朝早く出ていき、メッセージで当面実家に悠真を預けるとだけ書いてきた。「落ち着いたら話そう」と続く。

 落ち着く。

 その言葉が、二度と来ない予定のバスの時刻表みたいに見えた。


 食卓に料理は並んだが、座る人がいない。

 箸置きの猫が空を見上げている。

 私は習慣の惰性で味噌汁をよそい、自分の前に置いた。

 湯気はまっすぐ立ち上り、すぐに天井で拡散した。

 匂いは味噌の匂い。鉄ではない。

 それでも、舌の奥では鉄が擦れていた。


 スマホが震えた。

《また借りに来て》

《次は“被害者”の記憶》

 末尾に478。

 私は通知を長押しし、「ミュート」を選んだ。

 それでも、耳の奥では**「ごめん」**が鳴り続ける。


 同意書の一文が、黒い線で頭の裏に刻まれている。

 体験は体験であり、自己同一性への影響は利用者の責任。


 私は名刺を手に取り、親指で角を撫でた。

 除染セッション。

 行けば、何かが軽くなるのかもしれない。

 でも、軽くなった分だけ、別のどこかが重くなる気がした。

 誰かがその重さを背負うのかもしれない。

 家族か。私か。店か。連続殺人鬼か。


 窓の外で、子どもたちの笑い声がした。学校帰り、ランドセルの群れが夕陽を背負って歩いていく。

 私は立ち上がり、流しに向かった。

 戸棚の養生テープを剥がす。二度、三度、指が止まり、呼吸を整え、最後まで剥がした。

 包丁は布巾に包まれたまま。

 私はそれをさらに箱に入れ、押し入れの奥にしまった。届かない場所に。

 もう料理はしないのかと自分に問われる感覚があって、笑ってしまった。

 料理はできる。

 家族がいないだけ。


──


 三日後。

 地域掲示板に、新しいスレッドが立った。「最近、夜にパトカーが来ていた」「物騒」「子どもに注意」。

 匿名の誰かが、「ミネルヴァって危なくない?」と書く。

 誰も答えない。既読だけが増える。

 私はスクロールを止め、スマホを伏せた。


 その夜、女刑事からメールが来た。

《お子さんは元気です。学校でも先生が見守っています。焦らなくて大丈夫です》

 短い文の最後に、気づかれない程度の余白があった。

 そこに、救いではなく、監視が埋め込まれている。

 私は「ありがとうございます」とだけ返信した。丁寧語は、世界と私の間に薄い防護壁を作る。


──


 一週間後。

 《メモリーレンタル・ミネルヴァ》の前を、私は意識して通った。

 白い看板、金の梟。

 ガラス扉の内側で、《AMAMIYA》が客の相手をしていた。

 笑顔の角度は、私の記憶と同じだった。

 名札の《AMAMIYA》は光を吸い、周囲の景色を映さない黒。


 扉に手をかけた。

 ガラス越しの冷気が、手のひらの汗を冷やす。

 開ける、開けない。

 胸の中で、四、七、八。

 呼吸を数えるうち、私は手を離した。


 振り返ると、商店街の夕暮れはオレンジ色で、パン屋の前に人が列を作っている。

 どこかの子が「ごめん」と笑いながら自転車を押していった。

 私はその言葉に反応しないように、耳の筋肉に力を入れた。


──


 家に戻ると、テーブルの上に名刺が一枚。

 尚人が置いていったらしい。

 裏には彼の字で短く、**「明日、弁護士と話す」**とあった。

 字の癖は、結婚前と変わらない。でも、行間の温度が、まるで知らない人のものだ。


 私は椅子に座り、空の食卓に向かった。

 箸置きの猫を一つだけ置く。

 湯気はない。

 匂いもない。

 音も、ほとんどない。


 目を閉じる。

 四で吸い、七で止め、八で吐く。

 私の呼吸で。


 湯気のない空気の向こうに、割れたままの家族の輪郭が浮かぶ。

 誰も死ななかった。

 でも、何かは確かに死んだ。

 そして、その死骸は、誰にも片付けられない場所に落ちている。


 スマホが震えた。

《また借りに来て》

《次は“被害者”の記憶》

 末尾に――478。


 私は通知を消し、電源を落とし、画面を下にして置いた。

 そして、合掌するみたいに両手を合わせた。


「――いただきます」


 静かな部屋に、自分の声だけが残った。

 それは確かに私の声だった。

 今のところは。

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