記憶レンタル屋

桃神かぐら

記憶レンタル屋 日本編

第1話 478呼吸の悪夢

最初に借りたのは、ミラノの三つ星シェフの“味覚”だった。

舌に広がる酸の粒と、火入れ寸前の肉を指先が判別するあの確信。目の前には何もないのに、脳が“在る”と信じて疑わない。俺はヘッドギアを外し、笑うしかなかった。


「な? 言ったろ、合法ドラッグだって」

トオルがカウンターにもたれてニヤつく。店名は《メモリーレンタル・ミネルヴァ》。街の片隅、白い看板に金の梟。

同意書には、こうある——体験は体験であり、自己同一性への影響は利用者の責任。


「もう一本いける? 今日だけ“特別割引”だってさ」

店員の女が、少し低い声で囁いた。名札には《AMAMIYA》とある。

「匿名提供のパックが混んでてね。軽いスリル系、人気だよ」


軽いスリル。俺の財布は軽く、好奇心は重かった。


二本目のフィルムを舌下に溶かし、目を閉じる。

——冷たい。

床が、白いタイル。目の高さに青いネオンが滲む。

喉の奥に、鉄の味。

右手の指先に、ざらりとした軍手の感触。手首の外側に硬い線状の痛み——古い火傷の跡をこすると、皮膚がきしむ。

誰かの口が塞がれている。ガムテープの端を押し込む自分の親指。

目の前の男が震える。

心臓が落ち着いている。呼吸を数える、四で吸い、七で止め、八で吐く。

数えるたび、世界は狭く、濃く、静かになる。


次の瞬間、ヘッドギアが弾かれたように浮き、俺は椅子から飛び起きた。

口の中の酸味が血の匂いにすり替わっている気がして、吐き気をこらえる。


「大丈夫?」

雨宮が覗き込む。目の色は感情の蓋。

「……今の、何だ」

「どのパック?」

「特別割引の。白いタイル、青いネオン、ガムテ——」

俺は言葉を飲み込む。規約の三行目——具体的な他者記憶の叙述を公の場で行わないこと。

「……ちょっと、きつかった」


店を出ると、夜風がやけに甘かった。

帰りの電車でSNSを適当に眺めると、トレンド上位にニュースが躍っていた。《湾岸エリアで男性遺体——手口は不明、監視カメラに不審者なし》

添えられた写真の一枚。捜査員の足元に見える、白いタイル。



眠れない夜。瞼を閉じると、呼吸が勝手に“四・七・八”で整う。

あの落ち着き方は、俺のものじゃない。


翌朝、玄関を出た瞬間、二人組に声をかけられた。さりげないスーツの皺と、靴底の削れ方でわかる職種。


「佐久間蓮さん。少し、お話を」

警視庁捜査一課。名刺が視界の端に揺れる。

「昨夜、どこへ?」

「記憶レンタル屋に。友人と……」

「ミネルヴァですね」

どうやって、と訊く前に、男の指がスマホ画面の地図アプリを軽く撫でた。

「記憶提供ログは匿名ですが、利用ログは残ります。あなたが“特別割引”パックを再生した直後に、湾岸で事件が起きている。偶然にしては、都合が良すぎませんか」


脳の奥がざわめいた。

「俺は何も……ただ、借りただけで」

「なら、その“だけ”の内容を教えてください」

規約が脳裏で点滅する。俺は首を振る。

「具体的には言えません」

男の目が細くなる。相棒の女刑事は、逆に目を逸らし、溜息を隠すのが上手かった。

「アドバイスです。借りた記憶が違法だった場合、所持自体が共犯性を問われる。提供側の特定に協力すれば、あなたの立場は違ってくる」


俺は頷いた。頷いたが、口は開かなかった。

話が終わるころには、朝の光がやけに眩しくなっていた。



ミネルヴァは昼の顔をしていた。白い看板は陽に透け、金の梟は眠そうに目を伏せる。

昨日と同じ声で、昨日と別の雨宮が微笑む。

「ご用件は?」

俺はストレートに切り込む。

「特別割引パック。昨日のあれ、出所はどこだ」

「当店は提供者匿名性を厳格に守っています」

「じゃあ、混入。犯罪の記憶が混ざってた」

「違法コンテンツの排除システムが機能しています。混入はありえません」

鏡のように滑らかな返答。だが、手の甲、手首の外側——細く白い線が光った。火傷の跡。

俺は自分の視線がそこに釘付けになるのを止められなかった。

雨宮は袖口を整え、笑顔の角度を一度だけ変えた。

「よろしければ、除染セッションを。残留イメージの除去です。無料で」


俺は店を出た。無料ほど高いものはない。

背筋に、目に見えない指が這い上がってくる感覚。

ポケットの中でスマホが震えた。《見たな》

差出人不明。リンクも番号もない。

文面の最後——478。

呼吸の数え方。


その夜、俺はニュースの全文を読み、事件現場の航空写真を拡大し、記憶の断片を指でなぞった。

青いネオンは看板ではなく、湾岸倉庫街の標識だった。白いタイルは、近くのペット加工場の床材と一致しそうだ。

ガムテープ——工業用。指の腹に残っていたざらつきは、防滑テープに近い。

そして、古い火傷の線。


俺は、考える代わりに準備をした。

メモアプリに、位置情報と時刻の自動送信マクロを仕込む。連絡先にトオルと、午前に会った女刑事の名刺のメールアドレス。

送信条件——心拍数が120を超えたら、現在地と写真を即時送信。

そんなアプリは存在しない。でも、スマートウォッチのAPIとショートカットをむりやり繋ぎ、疑似的に作った。

俺が怖がるほど、安全になる。



湾岸は、夜のほうが形をはっきりさせる。

風が潮の粒を運び、照明が影をくっきり切り取る。倉庫E-3。青い標識の“E”が、記憶の中の“青”と重なった。


ドアは鍵が壊されていた。中は乾いた匂い。奥に白いタイル。

足が勝手に“四・七・八”で呼吸を整え、音を吸い込む。

そこへ、靴音。

「——来ると思った」


その声は、中性的だった。

雨宮だった。いや、雨宮という皮膚を着た、誰かだった。

袖口は上までまくっている。手首の外側に、白い線。

「記憶、返してもらえる?」

笑う。

「違うな、あなたは返す側じゃないわ。“貸してもらったほう”。きちんと礼儀は守らなきゃ」


「あれは、お前の——」

「私の記憶。正確に言うと、私が編集した記憶。お客さんは、よく“本物”に飢える。幸福の味や、恋のときめきだけじゃ足りないの。恐怖、支配、征服。人の脳は、禁を食べる猿よ」


俺は喉の奥に酸を感じた。

「殺したのか」

「質問が悪いわね。誰の意思で?」

雨宮は指で宙に線を引く。

「提供者は匿名。編集者は匿名。消費者はログに残る。法律はよくできてる。誰がいちばん捕まるべきか、よくわかってる」


スマートウォッチが震える。心拍が跳ねたことを告げる微かな振動。

同時に、ポケットの中のスマホが、沈黙のまま何かを吐き出していく。

場所、時刻、写真。

送られた先で、誰かが眉を上げるのを想像する。


「どうして、俺に混ぜた」

「混ぜてない。気づいたのはあなた。気づける人は少ない。大半は“気のせい”で終わる。あなたは違った。だから、来た。あなたは、私の競合になり得る」

「競合?」

「犯人の心理をトレースできる頭。それさえあれば、あなたは“供給側”に立てる。私の市場を荒らす」

雨宮は顔を寄せる。香水ではない、何かの洗浄剤の薄い匂いがした。

「それに、覗いたら、覗き返すのが礼儀でしょ?」


肩が軽くなるのは、恐怖が薄れたからじゃない。別の恐怖が重なって、バランスが取れただけだ。

俺は呼吸を数えた。四、七、八。

体が、あの記憶の手順で動く。

右足で一歩、左へ捌き、視界の端で相手の肩。

手元の何か——防滑テープのざらつき。

俺は、近くの作業台から剥がれかけのテープを掴み、雨宮の利き手首に巻き付けた。

雨宮の目が細くなった。

「そう。学習ね」


もみ合い。体は軽くないのに、動きは知っている。

記憶が俺の筋肉を借り、俺が記憶の筋肉を借りる。

ナイフの銀が、薄い光を跳ね返す。刃先が踊る角度、その一秒前に腕が硬直する前兆。俺のものではない勘が、指先を走らせる。

刃が床に転がり、雨宮がバランスを崩す。

俺はテープで手首を縛ろうとした。

その瞬間、倉庫の外でタイヤが砂利を噛み、靴が走り、叫び声が空気を切った。


「動くな!」

昼間の二人。女刑事が先に入ってきて、銃口の揺れがほとんどない。

男のほうが遅れて、周囲の確認を徹底する。

雨宮は、笑った。

「速いわね」

「速くしたのは彼だ」

女刑事が俺を一瞥し、顎で合図する。

俺のポケットのスマホが、ようやくここへ辿り着くまでの道のりを終えた。


手錠が鳴る音は、何度聞いても現実を確かめさせる。

雨宮は抵抗しない。

「ねえ、佐久間さん」

名前を呼ばれて、反射的に振り向く。

「あなた、眠れなくなるわよ。それ、“除染”じゃ落ちない」

女刑事が雨宮の肩を押し、言葉を遮る。

けれど、もう遅い。言葉は、記憶だ。



雨宮は《記憶整備士》だった。

匿名提供の記憶から**“味”を抽出し、売れる形に研磨する職人。

事件当夜の湾岸の映像ログには、誰も映っていない。映る必要がない。

見る側が増えれば、目撃者はいくらでも作れる。

見る側が記憶を語れば、疑われるのは見る側。

雨宮は、自分の痕跡を消費者の中**に隠していた。


逮捕の決め手は、倉庫の出入口の指紋ではない。

彼女の手首の古い火傷に一致する医療記録だった。十年前に起きた火災。処置を行った病院の電子カルテの片隅に残る細い線。

女刑事は言った。

「あなたが見たものは、彼女の“江戸っ子気質”みたいなものよ。手順、癖、呼吸。それは編集しても消えない」


俺はミネルヴァのドアを二度と開けなかった。

除染セッションも受けなかった。

代わりに、ベッドの上で目を閉じ、呼吸を数えた。

四、七、八。

眠るための数え方が、今は目覚めるための手順に変わってしまった。


夢の中、白いタイルの上で、俺は俺ではない手を見下ろす。

ガムテープの端に、親指の腹が触れる。

落ち着け、と誰かが言う。

それは俺の声であり、俺ではない声だ。


朝、鏡の前で、自分の手首を見つめる。

火傷の線は、ない。

ないはずなのに、痒い。

風呂に入ると、湯気の白さが倉庫の光を思い出させる。

歯を磨くと、血の味が蘇る。

ニュースは事件の続報を淡々と読み上げる。《記憶レンタル市場への規制強化を検討》

コメンテーターが言う。「個人の自由と安全のバランスが」

別の誰かが言う。「技術のせいじゃない、人の問題だ」


そのどちらも、正しいのかもしれない。

ただ、俺にとっては答えがひとつだけある。

“体験は体験であり、自己同一性への影響は利用者の責任”。

あの日の同意書の一行。

黒い文字は、白いタイルよりも冷たい。


出勤途中、電車の窓に映った俺は、昨日より少し他人に見えた。

ポケットの奥で、スマホが震える。

新着メッセージ。差出人不明。

《また、借りに来て》

末尾に——478。


俺は目を閉じる。

四、七、八。

呼吸が整う。

世界は狭く、濃く、静かになる。

俺は、本当にただの傍観者だったのか?

それとも、もう半分は——あの殺人鬼なのかもしれない。

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