第3話
アリシアの背中を追い、セルフィに後方を固められる形で、俺たちはアークライトの街へと続く緩やかな坂道を下っていく。眼下に広がる街並みは、近づくにつれてその細部を俺の網膜に焼き付けていった。頑丈そうな石材を積み上げて作られた城壁は、見た目以上に高く、長い年月の風雪に耐えてきたことを示すかのように、所々が黒ずみ、蔦植物がその表面を覆っている。城壁のところどころには見張り台のようなものが設けられ、小さな人影が動いているのが見て取れた。あれは兵士なのだろうか。街の防衛機能が健在であることを示している。
やがて俺たちの前方に、街の正門と思われる巨大な木製の門が見えてきた。門は開け放たれており、その両脇には鎧をまとった衛兵が二人、長い槍を手に直立している。彼らの視線は鋭く、街へ出入りする人々を一人一人、値踏みするように観察していた。俺のような見慣れない服装の男は、特に念入りにチェックされるだろう。少しばかり身構えたが、俺たちの前に立っていたアリシアが衛兵の一人に片手を上げて気さくに声をかけると、厳つい顔つきだった衛兵の表情がふっと和らいだ。
「よう、アリシア。またゴブリン退治かい? 相変わらず精が出るな」
「まあね。こいつらはしぶといから、いくら狩っても湧いてくる。あんたたちも警備、ご苦労さん」
短いやり取り。それだけで、アリシアがこの街で顔の利く存在であることが十分に伝わってきた。衛兵は俺とセルフィにちらりと視線を向けたが、アリシアの連れだと認識したのか、特に何も問いただすことなく通してくれた。面倒な尋問を覚悟していただけに、これは幸運だったと言える。
分厚い城壁の下をくぐり抜けた瞬間、俺の五感を襲ったのは、圧倒的なまでの情報の奔流だった。まず、音。様々な人々の話し声、荷馬車が石畳を転がる音、どこかの鍛冶場から聞こえてくる金属を打つ甲高い音、子供たちのはしゃぎ声。それらが渾然一体となって、街全体を一つの生命体であるかのように脈打たせている。次に、匂い。焼きたてのパンの香ばしい匂い、家畜の糞尿の匂い、香辛料の刺激的な香り、そして大勢の人間が発する生活の匂い。俺のいた世界の都市とは全く異なる、生のエネルギーに満ちた匂いだ。
視界に飛び込んでくる光景もまた、俺の知的好奇心を強く刺激するものだった。道は石畳で舗装されているが、決して平坦ではなく、長年の使用でところどころが磨り減り、窪みができている。道の両脇には、木と石、そして漆喰のようなもので作られた建物が、互いに寄り添うようにして隙間なく建ち並んでいた。二階建てや三階建てのものが多く、一階部分は店舗になっているところが多いようだ。看板には、俺の知らない文字で何かが書かれているが、剣やパン、壺といった分かりやすい絵が描かれているため、何を売っている店なのかは大体推測がつく。
そして何より、行き交う人々の多様性が、ここが異世界であることを改めて俺に突きつけてきた。人間が大半を占めてはいるが、その中に、明らかに人間とは異なる種族がごく自然に溶け込んでいる。がっしりとした体つきで、豊かな髭をたくわえた、背の低い一団。おそらくドワーフと呼ばれる種族だろう。彼らは大きなハンマーを肩に担ぎ、仲間内で楽しそうに何かを叫びながら歩いている。すらりとした長身で、猫のようなしなやかな耳と尻尾を持つ獣人の女性が、買い物かごを片手に店先を覗き込んでいる。その隣では、全身が緑色の肌をした、小柄な種族が荷物を運んでいた。森で遭遇したゴブリンとは違う、もっと温和な顔つきをしている。
俺が周囲の光景に気を取られていると、前を歩いていたアリシアが振り返ってにやりと笑った。
「どうだい、ケント。なかなか活気のある街だろ? 辺境とは言っても、ここらの中心地だからな。大抵のものは揃うぜ」
「…ああ。大したもんだ」
素直な感想が口からこぼれた。混沌としていながらも、そこには確かな秩序と生活の営みが存在している。この街そのものが、俺にとっては巨大な研究対象だった。建物の構造、人々の服装、使われている道具、話されている言語。その一つ一つを『吸収』し、解析してみたいという欲求がむくむくと湧き上がってくる。だが、今はその時ではない。下手に能力を使えば、セルフィに感づかれる可能性がある。
俺の視線がセルフィに向いていることに気づいたのか、彼女は相変わらず感情の読めない翠の瞳で俺を見返してきた。その視線は、やはり俺という存在の根源を探ろうとしているように感じられる。彼女の前では、迂闊な行動は取れない。
俺たちは、街のメインストリートと思われる比較的広い通りを歩いていた。しばらく進むと、アリシアが一際大きく、そして騒がしい建物の前で足を止めた。それは、周囲の建物よりも頑丈そうな造りをしており、観音開きの大きな木の扉には、剣と盾を交差させた意匠が彫り込まれている。ここが、俺たちの目的地らしい。
「着いたぜ。ここが冒険者ギルド、アークライト支部だ。腹が減ってるなら、ここの酒場は安くて量が多いからおすすめだぜ」
そう言って、アリシアは躊躇なく重そうな扉の一つを押し開けた。途端に、内部の熱気と喧騒が、外の通りにまで溢れ出してくる。俺は一瞬ためらったが、意を決して彼女の後に続いた。セルフィも、音もなく俺の後ろから建物の中へと足を踏み入れる。
◇
冒険者ギルドの内部は、外から見た印象以上に広々としていた。高い天井は太い梁がむき出しになっており、そこから吊るされた幾つものランプが、薄暗い室内を照らしている。空気は、埃と、汗と、そして何種類もの酒が発する匂いで満たされていた。入ってすぐの空間は広いホールになっており、その壁という壁には、羊皮紙のような紙がびっしりと貼り付けられている。あれが依頼書(クエストボード)というやつだろう。
ホールの奥には長い木製のカウンターが設えられており、数人の職員らしき男女が忙しそうに働いていた。冒険者と思しき、屈強な体つきをした者たちがカウンターの前に列を作り、依頼の報告や新しい依頼の受注を行っているようだ。そして、ホールの半分以上を占めているのが、酒場のスペースだった。いくつもの木製のテーブルと椅子が並べられ、そのほとんどが埋まっている。鎧姿の剣士、ローブをまとった魔術師、軽装の斥候風の男、そして俺と同じように異種族の者たち。彼らは皆、大きなジョッキを片手に、大声で今日の武勇伝か何かを語り合っていた。
この場所に満ちる、荒々しくも生命力に満ちた空気。それは、俺がこれまで生きてきた世界では決して感じることのできなかった類のものだった。誰もが、自分の腕と実力だけを頼りに、明日を生き抜こうとしている。その剥き出しの生存本能が、この空間の熱気を生み出しているのだろう。
「よお、アリシアじゃないか!無事に戻ったんだな!」
「おう! こっちの依頼は楽勝だったぜ!」
俺たちが中に入るとすぐに、酒場のテーブルの一つから声がかかった。アリシアは慣れた様子で手を振り返し、他のテーブルの知り合いにも目配せをしている。彼女がこのギルドでいかに顔の広い存在であるかが、その態度から窺えた。一方のセルフィは、この喧騒が苦手なのか、あるいは単に興味がないのか、黙ってアリシアの少し後ろに控えている。その姿は、騒がしい空間の中で、彼女の周囲だけが静まり返っているかのような印象を与えた。
「さて、と。まずはあんたの登録を済ませちまおうか。こっちだ、ケント」
アリシアはそう言うと、俺を促してカウンターの方へと向かった。俺たちが列に並ぶと、前にいた冒険者たちがアリシアに気づき、何人かが軽く会釈をして道を譲ってくれる。彼女のパーティ『白銀の風』は、相当な実力者として認知されているのかもしれない。
やがて俺たちの番が来た。カウンターの内側には、そばかすの浮いた、人の良さそうな顔つきの若い女性職員が座っていた。彼女はアリシアの顔を見るなり、ぱっと表情を明るくした。
「あ、アリシアさん、セルフィさん、お帰りなさい! 今回の依頼もお疲れ様でした。報告ですか?」
「ああ、依頼は完了だ。これが討伐証明のゴブリンの耳。それと、こいつのことでちょっと頼みがあるんだ」
アリシアは懐から小さな革袋を取り出してカウンターに置くと、親指で俺の方を示した。受付の女性は、そこで初めて俺の存在に気づいたように、少し不思議そうな顔でこちらを見た。俺の着ているスウェットは、この世界の基準からすれば、かなり異様な格好に見えるはずだ。
「ええと、そちらの方は?」
「ケントだ。森でゴブリンに襲われてるところを助けてな。見ての通り、身寄りも金もなさそうなんだ。ここで冒険者登録をさせてやってくれないか? 腕は、あたしが保証する」
腕は保証する、という言葉に、俺は内心少し驚いた。彼女が見た俺の力は、あの規格外の『岩の杭』一発だけだ。それだけで、俺の実力を評価したというのか。あるいは、俺という得体の知れない存在をギルドという公的な組織に登録させることで、管理下に置こうという意図があるのかもしれない。どちらにせよ、俺にとっては好都合な申し出だった。
受付の女性は、アリシアの言葉に少し困ったような表情を浮かべた。
「腕は、アリシアさんが保証すると言われれば、私たちが口を挟むことではありませんが…。冒険者登録には、身分を証明するものが必要になります。お持ちでない場合は、アークライトの市民であることが最低条件なのですが…」
「あー…、それが、こいつ、記憶が曖昧でな。自分の名前くらいしか思い出せないらしいんだ。だから、身分証なんて持ってるはずもない」
アリシアは、悪びれもせずにそう言い放った。記憶喪失。なるほど、便利な言葉だ。俺が異世界から来たなどという突拍子もない話を信じてもらえるはずもなく、かといって素性を偽るための詳細な設定を今から考える余裕もない。その点、記憶喪失という設定は、あらゆる矛盾を曖昧にしてくれる。
受付の女性は、ますます困惑の色を深くした。記憶喪失で身元不明の男を、そう易々と冒険者として登録するわけにはいかないのだろう。ギルドの信用問題にも関わる。
「そう、ですか…。それは、お困りでしょうが、規則ですので…。一度、衛兵詰所に相談していただくか、あるいは教会で身元引受人を探していただくのが…」
話が面倒な方向へ進み始めた。教会、という単語に、俺は無意識に警戒心を抱いた。俺のこの力が、もしこの世界の宗教的な価値観と相容れないものであった場合、教会と関わるのは最も避けるべき選択肢だ。
俺がどうしたものかと考えていると、それまで黙って話を聞いていたセルフィが、静かに一歩前に出た。そして、カウンターに一枚の金属板を置いた。それは、銀色に輝くプレートで、彼女自身の冒険者登録証のようだった。
「…『白銀の風』が、身元を保証する」
ぽつりと、しかしはっきりとした口調で彼女は言った。その言葉には、有無を言わせない響きがあった。受付の女性は、セルフィの顔と、アリシアの顔を交互に見比べ、やがて諦めたように大きなため息をついた。
「…分かりました。『白銀の風』のお二人が保証人となられるのでしたら、特例として登録を受理します。ただし、何か問題を起こした場合は、お二人にも連帯で責任を取っていただくことになりますが、よろしいですね?」
「ああ、もちろんだ!恩に着るぜ、あんたもセルフィも!」
アリシアは快活に笑い、セルフィは何も言わずに登録証を懐に戻した。俺は、二人に礼を言った。特にセルフィには。彼女がなぜ俺を助けるような真似をしたのか、その真意はまだ読めない。だが、俺の力の根源に対する彼女の探求心が、俺という存在を自分の近くに置いておきたいという判断に繋がったのだろう、と俺は推測した。
その後、登録手続きは滞りなく進んだ。名前を『ケント』とだけ伝え、簡単な身体能力のチェック(これは平均的なものだと偽った)と、ギルドの規則に関する説明を受けた。最後に、登録料として銀貨数枚が必要になったが、これもアリシアが立て替えてくれた。
「これは貸しだからな! しっかり働いて返してもらうぜ!」
そう言って笑う彼女に、俺は素直に頭を下げた。
そして、俺は一枚の銅製のプレートを受け取った。新人冒険者の証だ。そこには、俺の名前と、ギルドの紋章が刻印されている。それを手に取った時、奇妙な感覚が俺を襲った。これは、この世界における俺の身分証だ。俺が、このアースガルドという世界の一員として、仮初めではあるが存在を認められた証。元の世界への未練がないわけではない。だが、もう戻れないのなら、ここで生きていくしかない。この小さな金属板が、その覚悟の重さを俺に突きつけているようだった。
「よし、これでケントも晴れて冒険者の仲間入りだな!」
アリシアが、満足そうに俺の肩を強く叩いた。その勢いに、俺の体は少しよろめいた。
「それでだ、ケント。早速なんだが、あんた、あたしたちのパーティに入らないか?」
「…パーティに?」
予想はしていたが、あまりにも単刀直入な勧誘だった。俺は即答できずに言葉を濁す。
「あたしたち『白銀の風』は、あたしが前衛で、セルフィが後衛の魔法使いだ。もう一人、斥候役か、あるいはあんたみたいな特殊な技を使えるやつがいれば、受けられる依頼の幅も広がる。どうだい? 悪い話じゃないと思うが」
確かに、悪い話ではない。むしろ、この世界で生きていく術を持たない俺にとっては、破格の提案と言える。名の知れたパーティに所属すれば、安定して仕事を得ることができるだろうし、アリシアやセルフィからこの世界の常識を学ぶこともできる。だが、同時に、それは俺の望む『平穏な生活』とはかけ離れた道に進むことを意味していた。冒険者として活動すれば、当然、危険な魔物との戦闘は避けられない。そして、戦闘になれば、俺はこの力を使わざるを得ない場面も出てくるだろう。使えば使うほど、俺の力の異常性が露見する危険性は高まる。
目立ちたくない。騒ぎは起こしたくない。俺の第一目標は、それだったはずだ。
俺が逡巡していると、アリシアは俺の考えを見透かしたように、にっと歯を見せて笑った。
「まあ、無理強いはしないさ。だがな、ケント。あんた、その力、隠したまま生きていけるのかい? この世界で、一人で、何の当てもなく? 少なくとも、あたしたちと一緒にいれば、あんたの力のことをとやかく言うやつはいない。あたしは保証するぜ」
その言葉は、俺の核心を突いていた。そうだ。この規格外の力を抱えたまま、完全に孤立して生きていくことの難しさ。いずれ、何かのきっかけで力が暴走したり、あるいは誰かにその存在を嗅ぎつけられたりするかもしれない。その時、俺を守ってくれる者は誰もいない。だが、この二人と一緒ならば。少なくとも、彼女たちは俺の力の片鱗を見た上で、俺を受け入れようとしている。
俺は、隣に立つセルフィに視線を向けた。彼女は、ただ静かに俺を見ていた。その翠の瞳は、まるで森の奥にある湖のようだ。深く、静かで、底が見えない。だが、その瞳の奥に、俺という未知の存在に対する、純粋な探求の色が灯っているのを、俺は見逃さなかった。彼女は、俺を理解しようとしている。それは、俺がこれまでずっと他者や世界に対して抱いてきた感情と同じものだった。
探求者としての共感。それが、俺の心を動かしたのかもしれない。
俺は、短く息を吐き、決断した。
「…分かった。世話になる」
俺がそう答えると、アリシアは満面の笑みを浮かべ、もう一度、今度はさらに強く俺の背中を叩いた。
「よし、決まりだな! ようこそ、『白銀の風』へ! これで今日からあんたもあたしたちの仲間だ!」
こうして、俺の異世界での生活は、思いもよらない形で、二人の仲間と共に幕を開けることになった。それは、俺が望んだ静かで平穏な探求の日々とは、少し、いや、かなり違うものになりそうな予感がした。だが、未知の世界で、信頼できる(かもしれない)仲間を得たことは、間違いなく大きな一歩だった。
俺は、手の中にある銅のプレートを強く握りしめた。その感覚は俺がこの世界にいることの証明のように思えた。
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