第2話

 森の中を歩き始めて、どれくらいの時間が経っただろうか。太陽の位置から推測するに、おそらく半日近くは経過しているはずだ。幸いだったのは、この森が比較的歩きやすいことだった。木々は密集しているものの、下草はそれほど深くなく、茨のような進行を妨げる植物も少ない。とはいえ、道なき道を進むのは体力を消耗する。スウェットという軽装も、長時間の活動には向いていない。額に滲んだ汗を手の甲で拭い、俺は足を止めて息を整えた。


 ここまでの道中、俺はただ闇雲に歩いていたわけではない。常に周囲の環境に意識を向け、この世界の法則性を探っていた。もちろん、主たる調査手段は、新たに手に入れたこの能力、『吸収』だ。目についた植物や岩、流れる小川の水に至るまで、片っ端から触れてはその情報を読み解いていく。おかげで、この森の生態系については、短時間でかなりの知識を得ることができた。どの木の実が食用に適し、どのキノコに幻覚作用があるのか。どの薬草が傷に効き、どの苔が火口になりやすいのか。サバイバルという観点から見れば、この能力は絶大な効果を発揮すると言っていい。


 だが、探求の対象はそれだけではない。俺が最も関心を抱いているのは、この世界における『物理法則』そのものだ。例えば、空気。手に触れることはできないが、意識を集中させることで、その構成成分を大まかに『吸収』することができた。窒素、酸素、その他微量な元素。その比率は、俺のいた世界とほとんど変わらないようだ。しかし、ごく僅かに、未知の粒子というか、エネルギー体のようなものが観測できた。これが、いわゆる『魔力』や『マナ』と呼ばれるものなのだろうか。だとすれば、この世界では魔法が存在する可能性が極めて高い。俺の能力も、この未知のエネルギーを介して発現しているのかもしれない。


 思考を巡らせながら、再び歩き出す。方角は、太陽の動きと、苔の生え方、そして水の流れる方向から、おおよそ南西へと定めていた。文明は、水源の近くに発生しやすい。このまま下っていけば、いずれは川か湖に行き着き、そこから人の痕跡を辿れるのではないかという、単純な推測だ。今のところ、獣道のようなものはいくつか見つけたが、人工的な道や建造物は一切発見できていない。この森は、俺が想像している以上に広大なのかもしれない。


 そんなことを考えていた、その時だった。


 不意に、森の静寂を乱す音が、俺の耳に届いた。


 甲高い、金属がぶつかり合う音。それに続いて、低く唸るような獣の声と、人のものらしき短い叫び声。音はそれほど遠くない。風に乗って、木々の間を抜けてここまで伝わってきている。


 俺は咄嗟に近くの巨木の幹に身を寄せ、音のした方向を注視した。戦闘。その単語が、脳裏を過る。この世界にも、争いは存在する。それは当然のことだろう。そして、俺が今いるこの森には、どうやら人間にとって敵対的な生物が生息しているらしい。


 どうする。関わるべきか、あるいはこのままやり過ごすべきか。俺の本心は、後者に傾いていた。面倒事は避けたい。自分の能力はまだ未知数で、軽々しく使うべきではない。そもそも、俺には戦うための武器も、技術もない。だが、聞こえてきたのは、明らかに人の声だった。誰かが、何かに襲われている。それを知りながら、見捨てるという選択は、どうにも後味が悪い。俺は、善人ではない。だが、最低限の良識は持ち合わせているつもりだ。


 短い葛藤の後、俺はため息と共に結論を出した。少なくとも、状況を確認するだけはしよう。その上で、自分にできることがあるのなら、手を貸す。もし手に負えないような相手なら、その時は迷わず逃げる。それでいいだろう。


 俺は息を殺し、足音を極力立てないようにしながら、音のする方向へと慎重に歩を進めた。木々の幹を盾にし、枝葉の隙間から前方を窺う。少しずつ、戦闘の様子が明らかになってきた。


 開けた小広場で戦っていたのは、二人組の女性と、緑色の肌をした小柄な生物の群れだった。その生物は、俺のいた世界の創作物でよく描かれる『ゴブリン』という存在に酷似していた。獣のような顔、鋭い牙、そして手には粗末な棍棒や錆びついた短剣を握っている。数は、十体以上はいるだろうか。


 対する女性は二人。一人は、陽光を浴びてきらきらと輝く金色の髪を一つに束ね、軽装の銀鎧に身を包んだ騎士風の出で立ちだ。彼女は長剣を手に、ゴブリンたちの攻撃を巧みに受け流しながら、的確な斬撃を繰り出している。その動きには無駄がなく、明らかに手練れのそれだった。もう一人は、長い銀髪を風になびかせ、森の緑と同じような色合いの装束を纏った、尖った耳を持つ女性。エルフ、だろうか。彼女は騎士から少し離れた位置で白木の杖を構え、呪文らしきものを短い言葉で紡いでいるようだ。すると、彼女の杖の先から不可視の刃が放たれ、ゴブリンたちを薙ぎ払っていく。あれが、この世界の魔法か。


 二人の連携は見事だった。金髪の騎士が前線で敵を引きつけ、銀髪のエルフが後方から魔法で援護する。ゴブリンたちは次々と数を減らしていく。だが、どうやら状況は完全に有利というわけでもないらしい。ゴブリンの数が多く、倒しても倒しても、森の奥から新たな個体が現れてくる。騎士の額には汗が浮かび、その呼吸も少しずつ乱れ始めているのが見て取れた。エルフの魔法も強力だが、一度に相手にできる数には限りがあるようだ。じりじりと、二人を取り囲む包囲網が狭まってきている。


 このままでは、いずれ押し切られる。そう判断した。


 加勢する。そう決めたはいいが、問題はどうやって介入するかだ。丸腰の俺が飛び出したところで、できることなど何もない。ならば、使うべきはやはり、この力しかない。


 俺はそっと後退し、戦場から少しだけ距離を取った。そして、足元の地面に右手を触れる。すぐに、膨大な情報が脳内に流れ込んできた。土の成分、含まれる水分量、混在する小石や砂の大きさ、植物の根の分布。それら全ての情報を『吸収』し、頭の中で再構築していく。


 イメージするのは、単純な質量攻撃だ。幸い、この地面は粘土質の土と、拳大の石が豊富に存在する。これらを『融合』させれば、それなりの硬度と質量を持つ物体を生成できるはずだ。問題は、その威力と形状だ。あまり派手なものを作り出して、目の前の二人組にまで警戒されるのは避けたい。あくまで援護射撃。敵の注意を引き、体勢を崩させることができればそれでいい。


 『泥の槍』。


 俺は、その程度のものをイメージした。地面から泥でできた槍が数本射出され、ゴブリンを牽制する。それくらいの、地味で、それでいて効果的な一撃を。


 能力を発動させる。体内の、あるいは周囲に存在する未知のエネルギーが、俺の右腕を通して地面へと流れ込んでいくような感覚。それは、決して不快なものではなかった。むしろ、万能感にも似た、不思議な高揚感を伴っている。


 だが、次の瞬間、俺の目の前で起きた現象は、俺自身のささやかな想像を、あまりにも無慈悲に裏切るものだった。


 ゴウッ、という地鳴りのような低い音と共に、俺が手を触れていた地面が大きく隆起した。そして、そこから射出されたのは、『泥の槍』などという生易しいものではなかった。それは、ゆうに大人の胴体はあろうかという太さの、先端が鋭く尖った巨大な『岩の杭』だった。土くれと小石が高密度で圧縮され、再構築された結果なのだろう。表面は濡れたように黒光りし、その質量と硬度は、もはや泥のそれとは比較にもならない。


 岩の杭は、凄まじい速度で戦場の中心部、ゴブリンが最も密集している地点目掛けて飛翔した。そして、着弾。


 轟音と衝撃が、森の空気を揺るがした。


 岩の杭は、三体のゴブリンをまとめて貫き、その勢いのまま大地に深く突き刺さった。まるで、巨大な釘で標本を留めるかのように。貫かれたゴブリンたちは、悲鳴を上げる間もなく絶命し、杭に縫い付けられたまま動かなくなる。さらに、着弾の衝撃で周囲の地面が砕け、その破片が近くにいたゴブリンたちを打ち倒していく。


 一撃。


 たった一撃で、ゴブリンの群れは半壊し、生き残った個体も、あまりの出来事に動きを止め、呆然と岩の杭を見上げている。


 戦場に、静寂が訪れた。


 その静寂を破ったのは、金髪の騎士だった。彼女は残ったゴブリンたちが我に返るよりも早く行動を再開し、見事な剣さばきで残敵を掃討していく。混乱したゴブリンたちに、もはや抵抗する力は残っていなかった。


 そして、俺自身もまた、目の前の光景に呆然としていた。なんだ、今の威力は。全く加減ができていない。泥の槍をイメージしたつもりが、出てきたのは戦略兵器のような代物だ。この力は、俺が考えている以上に繊細なコントロールを要求するらしい。あるいは、俺のイメージを、過剰なまでに実現してしまう性質があるのかもしれない。いずれにせよ、これはとんでもない失敗だ。目立たず、騒ぎを起こさず、という当初の目標が、初日で崩れ去ってしまった。


 全てのゴブリンを倒し終えた金髪の騎士が、剣についた緑色の血液を振り払い、こちらを向いた。その夏の空のように澄んだ碧眼が、真っ直ぐに俺を捉えている。その表情には、助けられたことへの安堵よりも、得体の知れないものを見る警戒心の方が色濃く浮かんでいた。


 俺は観念して、隠れていた木の幹から姿を現した。下手に逃げようとすれば、余計に怪しまれるだけだろう。


「…助かった。あんたが一体何者かは知らないが、おかげで命拾いした」


 騎士は、やや男性的な、さっぱりとした口調で言った。その声には、まだ緊張の色が残っている。彼女は俺から視線を外さないまま、ゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。


「…礼を言う。だが、聞かせてもらおうかい。あんた、何者だ?今の…あれは、一体何の魔法なんだい?」


 その問いに、俺は返答することができなかった。何と答えればいい?通りすがりの一般人だ、とでも言うか。今の現象を見せた後で、そんな言い訳が通用するはずもない。かといって、正直に話すわけにもいかない。俺の身の上も、この能力のことも。


 俺が答えに窮していると、不意に、もう一人の人物が俺たちの間に静かに割って入った。銀髪のエルフだ。彼女は、先ほどまでと同じように感情の窺えない表情で、俺のことを見つめていた。いや、正確には、俺の背後、岩の杭が突き刺さった地面のあたりと、俺自身とを、交互に見比べているようだった。その深い森の湖面を思わせる翠の瞳が、何かを探るように細められる。


「…魔法、じゃない」


 ぽつりと、彼女が呟いた。その声は、森の静寂によく馴染む、涼やかな音色をしていた。


「術式の痕跡がない。魔力の流れも、精霊への呼びかけも、何も感じない。あれは、魔法の理屈で起きた現象じゃない」


 彼女の言葉に、金髪の騎士が驚いたように目を見開いた。


「魔法じゃないって、セルフィ?じゃあ、一体なんなんだい、あれは…」


「わからない。でも、異質。この世界の理とは、違うもの」


 銀髪のエルフ――セルフィと呼ばれた彼女は、再び俺に視線を戻した。その観察するような眼差しは、俺という人間そのものよりも、俺が行使した力の根源に向けられているようだった。魔法使いとしての、純粋な知的好奇心。俺は、彼女の瞳からそんな色を読み取った。


 まずい状況だ。このエルフは、俺の力の特異性に気づいている。このまま問い詰められれば、いずれはボロが出るかもしれない。どう切り抜けるべきか、思考を高速で回転させる。


 そんな俺の焦りを見透かしたかのように、セルフィは静かに口を開いた。それは、俺にとっても、そしておそらくは金髪の騎士にとっても、予想外の言葉だった。


「…冒険者?」


 彼女は、俺に向かって問いかける。疑問形ではあったが、その口調にはどこか、これが答えであるべきだ、と促すような響きがあった。


「ギルド。街。そこへ行く」


 要点だけ構成された、短い言葉。だが、その言葉が示す意味は、俺にもすぐに理解できた。冒険者。ギルド。街。それは、この世界で生きていくための一つの道筋を示唆していた。身元不明の俺が、素性を偽り、社会に紛れ込むための、これ以上ないほど都合の良い身分。そして、彼女はそれを、俺に提案している。


 なぜだ?俺の正体を怪しんでいるはずの彼女が、なぜ俺に助け舟を出す?その理由は、すぐにはわからなかった。だが、彼女の翠の瞳の奥に、探求者のそれと似た光が宿っているのを見て、何となく察しがついた。彼女は、俺の力の正体を知りたいのだ。そのためには、俺を解放するよりも、自分の手の届く範囲に置いておいた方が好都合だと判断したのかもしれない。


 俺は、その提案に乗ることにした。他に選択肢もなかった。


「…ああ。街を探していたところだ。助かる」


 俺がそう答えると、金髪の騎士はまだ納得のいかないような顔をしていたが、相棒であるセルフィの言葉を無視するわけにもいかないようだった。彼女は一つ大きなため息をつくと、やれやれといった風に肩をすくめた。


「…まあ、セルフィがそう言うなら、仕方ないか。あたしはアリシア。こっちは見ての通り、セルフィだ。あんたの名前は?」


「…ケントだ」


 俺は、咄嗟に自分の名前を口にした。偽名を使うことも考えたが、咄嗟の場面では、慣れた名前の方が不自然にならないだろう。


「そうかい、ケント。まあ、詳しい話は街に着いてからだ。ここから一番近い街は『アークライト』。半日も歩けば着くだろうさ。…それにしても、とんでもない威力だったぜ、あんたの…ええと、あれは一体なんて言えばいいんだい?」


 アリシアは、苦笑しながら巨大な岩の杭を見上げた。俺は、曖昧に言葉を濁すことしかできなかった。


「…俺にも、よくわからない」


 それが、偽らざる本心だった。



 アリシアとセルフィに案内される形で、俺たちはアークライトという街を目指して森の中を進んだ。先頭を歩くのはアリシアだ。彼女は時折、軽口を叩きながらも、その視線は常に周囲への警戒を怠っていない。さすがは手練れの冒険者といったところか。俺は、その少し後ろを歩く。そして、俺のすぐ後ろには、セルフィが静かについてきていた。彼女はほとんど言葉を発しないが、その気配は常に俺の背中に向けられている。監視、というほど殺伐としたものではない。だが、観察されている、という意識は拭えなかった。


 道中、アリシアがこの世界のことを色々と話してくれた。この辺りは王国領の辺境地帯であること。アークライトは、豊富な資源を求めて多くの冒険者が集まる、いわゆる開拓の拠点となっていること。ゴブリンのような魔物は日常的に出没するため、冒険者ギルドがその討伐依頼を斡旋していること。彼女の話は、俺にとって貴重な情報源となった。


 やがて、森の木々が途切れ、視界が大きく開けた。緩やかな丘の上から、眼下に広がる光景を見て、俺は思わず足を止めた。


 街だった。


 堅牢な石造りの城壁にぐるりと囲まれ、その中には赤茶色の屋根瓦を持つ建物が所狭しと立ち並んでいる。街の中心には、ひときわ高い塔のような建造物も見える。城壁の外には広大な畑が広がり、人々が農作業に勤しむ姿も確認できた。俺のいた世界の、中世ヨーロッパの都市を彷彿とさせる光景。だが、そこには決定的な違いがあった。


 街へと続く街道を、荷馬車に混じって歩いている人々の姿。その中には、明らかに人間ではない種族が混じっているのだ。猫のような耳と尻尾を持つ獣人。小柄で屈強な体つきをしたドワーフらしき一団。そして、俺のすぐ隣を歩いている、長く尖った耳を持つエルフ。


 ここは、紛れもなく異世界なのだ。


 その事実が、知識としてではなく、実感として、俺の中にすとんと落ちてきた。もう、元の世界には戻れない。俺の日常は、あの薄暗い自室ではなく、この剣と魔法、そして多様な種族が息づく世界にこそあるのだと。


 不思議と、絶望的な気分にはならなかった。むしろ、目の前に広がる未知の光景に、探求者としての血が騒ぐのを感じていた。


「どうしたんだい、ケント?町の様子に見とれちまったかい?」


 隣で、アリシアがにっと笑いながら言った。


「あれがアークライト。あたしたちの拠点さ。さあ、行こうぜ。ギルドで美味い酒でもおごってやる!」


 彼女はそう言って、俺の背中を軽く叩き、街へと続く坂道を下り始めた。セルフィも、無言でその後に続いた。


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