【第2話】空を泳ぐ傘


翌朝。丘に着く前から風は機嫌が悪かった。



風見鶏が落ち着きなく、くるくる回り、道端の洗濯物がばさばさ踊っている。



俺は心の準備をした。



深呼吸、よし。 “まともな第一声”を用意するのだ。



今日は「おはよう」のあとに「風、強いね。」



──それから、「手を繋ごうか? 飛ばされないようにね。」



って言えば合法。うん、合法。 手汗は……ない、はず。よし完璧。



「おはよう、アレン。」



今日も負けた。先に呼ばれた。完敗。開幕あいさつダッシュ、 またしても出遅れ。



白い日傘。いつもより少し深めに差している。



その下で、リリィは風に前髪を遊ばせながら笑った。



「お、おはよう。……風、強いな。」



「うん。ちょっと風さん張り切りすぎかな。」



 日傘が風でばさばさと鳴った。俺は思わず身構える。



「その、傘……好きなんだな。」



「ええ。気に入ってるの。」



リリィは傘の縁を指でなぞって、少し照れたように笑う。



「形も、色も、持ち心地も。大好きなの。」



他愛ない会話の調子で、俺たちはいつもの場所──丘の真ん中あたり、



風が斜面をなで上がってくる地点に腰を下ろした。



風は、さっきより元気だ。草が波のように揺れ、空の雲が薄くほどけていく。



風鈴草のつぼみはまだ固い。でも、リリィの笑顔がある。



俺にとっては、それで十分だった。



日傘の影が、風でふわりと傾ぐ。リリィが傘を握り直す。



その瞬間、丘を渡る風の音が、ひときわ大きくなった。



 ごう、と押し寄せる突風。



 リリィの手から傘がするりと抜ける。



「──あっ!」  



白い傘が空を舞った。



鳥みたいに、でも鳥よりも頼りなく、ひゅう、と斜面の下へ。



リリィの瞳からあっという間に笑みが消える。



指先が空を掻くように伸び、掴めない。



頬の血の気が引いていくのが見て取れた。  



声が上ずり、途切れ、細くなる。肩が小刻みに震えて、呼吸が浅く速い。



彼女は反射的に後ずさりし、傘の影を探すみたいにその場でしゃがみ込んだ。



両腕で自分を抱きしめるようにして、光から身を守る仕草。



視線は傘を追い続けて定まらない。唇がかすかに震え──



「……やだ……こわい……いかないで……やめて……お願い……」





──まずい。本気で怖がってる。



俺は反射で走っていた。



足は勝手に動く。斜面を下る。草に足を取られ、石につまずく。



飛ぶ傘、転ぶ俺。転びながら追う。



体勢を立て直すたび、風がまた傘をさらう。待て、鳥じゃない、お前は傘だ!



右、左。小石、回避。タンポポ、踏む(ごめん)。膝関節、抗議(あとで聞く)。





白い布が一瞬だけ陽をはね返して、距離が縮む──  



その一瞬、風が弱まる。



今だ。



俺は最後の一歩で思い切り飛びついた──



「ぐえっ」  



顔面から地面。土がうまい。違う、うまくない。  



でも、手には冷たい柄の感触があった。



掴んだ。掴んだぞ!



痛む膝と鼻をだましながら、傘を自分の体に抱き寄せる。



風がまた吹いても、今度は離さない。絶対に。



傘を抱えたまま斜面を駆け上がる。息が焼ける。心臓が喉まで来てる。




「リリィ! ほら、傘もってき──」




言いかけて、足が止まった。リリィはその場にしゃがみ込んでいる。



影のない光が直に肌を刺し、肩は細かく震えて、呼吸は浅く速い。



視線は宙を泳ぎ、指先は空を掻くみたいに何かを探している。



唇が「こわい……」「やめて……」と形を作るのに、声にならない。



両腕で自分を抱いて、できるだけ小さく震えていた。




「リリィ! ほら、傘!」




しゃがみ込む彼女の上に、俺は一気に日傘を開いて差し出した。



ぱっと影が落ちる。  





日傘の布が揺れて、骨がかすかに鳴った。



影に包まれた瞬間、リリィの肩の震えがすこし弱まる。



胸の上下はまだ速いけれど、吸う息が喉で引っかからなくなっていく。



両手がそっと傘へ伸び、指が確かめるように絡んだ。



白い指は冷たく、でも握る力は強い。



「……っ……はぁ、はぁ……」



「リリィ、安心して! 大丈夫、ここにある。ほら、傘だよ。」



彼女は小さくうなずいた。影の中で、まぶたがゆっくり上下する。



瞳に焦点が戻り、俺の顔を見て、もう一度うなずいた。  



しばらくして、呼吸が落ち着く。



膝に力が戻り、指先の震えもおさまっていく。



やっと、我に返ったみたいに目を瞬いた。



「アレン大丈夫? 怪我は……!」



「全然大丈夫だ。こんな傷へっちゃらだよ」



鼻がひりひりする。膝は確かに擦りむいた。



けど、どうでもいい。今は。




「ほんとに、もう……!」



「ありがとう、アレン。ほんとうに……ありがとう。」



その「ほんとうに」に、重さがあった。



軽い礼じゃない。胸の奥から出てくるやつだ。



理由は分からない。だけど、守るってこういうことかもしれないと、唐突に思った。



日傘越しの影が、彼女の輪郭をやわらかく縁取る。



俺は、もう一度だけ傘の位置を調整して、光を完全に遮った。



「お気に入り、なんだろ。取り返せて良かった。」



「うん。お気に入り。……すごく。私この傘がないと本当に困るの…。」



最後だけ、声が細くなる。彼女は小さく息を吐き、目元を袖で押さえた。



涙は……たぶん、ぎりぎりで零れてない。



いつもの笑顔に戻そうとして、そのまま少しだけ笑う。



無理に明るくはしない。



ただ、確かに笑う。えらい。いや、えらいってなんだ俺。とにかく、強い。



影が落ちて、リリィの呼吸が落ち着く。



俺もやっと息を吐いた。腕の中の日傘がきゅっ、と鳴る。  



……と、開いたままの日傘の布に、米粒みたいな穴を見つける。



縁の刺繍近く、白い糸がほつれて小さな月みたいな形になっている。



「……あ。」  



リリィも気づいたらしく、指先でそっと縁を撫でた。



指の腹にひっかかる糸のささくれ。



視線がそこに吸い寄せられて、顔色がほんの少しだけ薄くなる。



「今日は……帰るわね。」



 短く、それだけ。



その時の俺に、力がこもる。いつもより、ずっと強く。



「待って!! 町に一緒に傘を直しに行こう!」



自分でも驚くくらいの大声が出た。心臓が先に喋った感じだ。



口が追いついてないのに、言葉だけが前に出る。



「俺、町の職人知ってるから。上手いところ。明日、連れていくよ!」



言葉が転がるように出た。



リリィを助けたい、その一心だった。  



リリィは立ち止まり、俺を見る。風の音だけが間に入る。



瞳が小さく揺れて、視線がいったん下り、また戻る。



少し考えるように唇が結ばれて──



「……そうね。じゃあ、行こうかしら。」



 ちょっと意味深な、でもやわらかい言い方だった。



承諾というより、決意に近い色がほんのすこし混ざっている。



胸の奥で、何かが灯る。



「じゃ、じゃあ明日! 広場の風見鶏の下で、昼過ぎに!」



「うん。わかった。」



約束の言葉を交わしただけで、体が軽くなる。



やばい、足取りが勝手にスキップしそうだ。落ち着け俺、大の大人だぞ。



いや、へっぽこでも約束くらいは守れる。守る。



「アレン。」



「ん?」



「さっきは……ありがと。」



 風に消えそうな声で、もう一度だけ。影の中の横顔が、ふっと緩む。



 俺は慌てて首を振った。



「いや、傘隊長の仕事だから!」



「たいちょう?」



「今つけた肩書き!」



「ふふ。頼りにしてるわ、隊長。」  



白い日傘がゆっくりと揺れ、彼女は丘を下りていく。



さっきより慎重な足取りで、でも確かに。



斜面を下るたび、布に開いた小さな穴が、光を米粒みたいに漏らす。



彼女はその位置を指先でそっと押さえ、まるで内側の影を逃がさないように歩いた。



俺はその背中が見えなくなるまで見送ってから、両手をぎゅっと握る。



土まみれの指に、さっきの冷たさがまだ残っている。



「よっしゃ……明日、絶対きれいに直してもらおう。」



 声に出す。言葉にして、逃げ道をなくす。



隊長はやると言ったら、やるのだ(たぶん)。  



風見鶏が一度くるりと回る。いいサインだ。



雲が薄くほぐれて、丘の影が長く伸びる。



俺は丘を降りながら、約束の言葉を何度も頭の中で反芻した。



明日が待ち遠しい、なんて、いつぶりだろう。



胸の奥に灯った小さな火は、風にも消えずに、静かに、確かに燃えていた。

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